第9話 図書館




 寒い季節への移り変わりに合わせて、服の生地が厚めのものに変えられてから何週間経ったか。


「雪だ」


 リディアは部屋の窓に張りついた。窓の外には空を覆う濃い灰色の雲から、ちらりほらりとゆっくり白い小さなものが舞い降りてきていた。

 朝起きたときからやけに冷えると思ったら雪が降り始めてきたのだ。

 けれど、積もるほどではなさそうだ。

 まばらに落ちてくる雪を目で追うでもなく、それが降る景色をただ眺めていると、別段嬉しそうにはしなかったからか後ろから声が言う。


「雪は好きじゃないですか?」

「うん? ……うん、特別好きなわけじゃない、でも嫌いでもないよ」


 振り向かずに上の方を見ると、窓に護衛の姿が映っていた。


 村にいた頃。雪が積もれば子どもの当然の行動――外に出て雪遊びはしていたけれど、それよりも長い冬は辛いものだった。リディアのいた村は北の、国では雪が一番に降り始め一番長く雪が残るところのようだったから。

 今頃きっと雪は積もっているのではないかと思う。完全に真っ白な雪景色が思い出される。

 王都にも雪は積もるのだろうか。


「ここにも雪って積もるの?」

「積もりますよ。積もったら雪遊びしますか?」

「うん」

「それより殿下、今日のところは図書館に行かれるんでしょう? 時間がなくなりますよ?」


 そうだった、とリディアは今度こそ振り向き窓に背を向けた。




 王宮の中には大きくて、広い図書館がある。入った途端に広がる本が隙間なく本棚が並んでいて、一階だけでなく二階に分けてあり、壁がそのまま本棚になっているらしくまさしく周りを本に囲まれている場所だ。


「おお殿下ではございませんか」

「こんにちは」


 人はいるが物静かな場で、一人の老人がリディアに気がついた。

 ふっさふさとした白い髭が顔の下半分を占めており、長い衣服を身につけた老人は手に数冊の本を抱ながらも、歳を感じさせない様子で走ってくる。

 図書館にいるこの老人とはすでに顔合わせ済みだった。最初に王宮探検をしたときに出会ったのだ。


「本日は何をお探しですかな?」

「えぇと、私でも読める本、ありますか?」

「ほっほっほっ、お聞きいたしておりますよ、殿下のめざましいご成長のほどを。もちろんありますとも。殿下がもっと勉強なさりたいと思われるような素敵なご本がね。どのようなものが良いですか、ご期待に添える本を探して参りましょう」

「じゃあ、童話がいい」


 妖精が出てくる話、と言うと周りの小さな小さな妖精たちが嬉しそうにリディアにすり寄ってきた。


「妖精たちが嬉しそうにしとりますなぁ」

「分かるの?」

「殿下ほどはっきりとは見えず雰囲気からですが、先の陛下と妖精公爵殿が揃っていらしていたおりにもいつも小さな光がありました。それ以前から長年見ておりますゆえどことなくわかりますよ」


 「それでも想像にすぎませんが」と茶目っ気たっぷりに笑いかけられて、リディアも笑った。

 老人は手元の本を本棚に慣れた手つきで入れながらもリディアを奥へ案内していく。


「童話はここからここまで全てです」


 「うわぁ」とリディアは感嘆の声を上げた。示された範囲は本棚三つ分もある。それもリディアより倍背が高い本棚にぎっしり詰まっている。


「多いね」

「王子様王女様方のために何十年もの間揃えられた結果です」

「そうなんだ」


 王族の子どものためにとこれほどのものが揃えられるものなのか、と目を見張るしかない。

 ひとつ引き出してみたものに妖精らしき可愛らしい絵の表紙があって、もうひとつ引き出すと熊の絵。どうも妖精に限らず色々ありそうだと胸が高鳴る。


「自分で選んでもいい?」

「もちろんですとも。じっくり探してください」


 にこにこと図書館の老人に言われ、リディアはさっそく物色しにかかる。

 薄いものもあれば分厚いものまであって、絵本もあれば中々にぎっしりと文字の詰まった本もあって、全てが面白そうな本ばかりだった。

 その中で、村で老婆が語っていた物語もいくつか見つけた。

 物語とは場所を越えてあの、王都からほど遠い村まで伝わるのだと感心……ではないようでよく分からない感情を抱いた。とりあえずその本はしまって、やっぱり引き出して腕に抱え込んだ。

 けれども次の瞬間ひょいとそれがなくなり、リディアは驚いて本が拐われた方を見上げた。


「俺が持ちます」

「これくらい自分で持てるよ」

「探すときに邪魔になりますよ。借りてここから持ち出せますからたくさん選べますしね」

「借りられるの?」

「はい。だからここで読みきれないほど選んでいいんですよ」


 「それから、手が届かないときは言ってください」と本は結局グレンの腕の中に取り上げられてしまった。

 リディアはまあいいかとありがたく持っていてもらうことにして、選別作業に戻ることにした。



 そうやって、リディアが本の題名を読んで中身を軽く――と言えどもゆっくりときに苦労しながら吟味していくこと小一時間。


「こちらにどうぞ」


 本を選び終えたリディアが誘導されたのは小さな部屋だった。壁際のいくつかのろうそくに火が灯され、ぼんやりと十分に室内を照らす。

 暖炉にも小さな火が入れられていて、前もってつけておいてくれたのかもしれない、部屋はふんわり暖かった。

 部屋の中には焦げ茶色の机と椅子が向かい合って二つと丸い背もたれのない椅子が横に一つ。机の上のろうそくにも別のろうそくから火が移され、灯る。

 椅子にはクッションが置かれており、子どもでも机に届くように調整してから老人はどうぞとリディアを促した。


「これをおかけになってください」

「ありがとう」


 差し出されたのは膝掛けで温かそうなそれを受け取って膝にかけると、大きな厚い布はリディアの爪先をゆうに越えるほど大きく長かった。

 机の上にはリディアが持っていた二冊とグレンが運んだ七冊が積み重ねられる。

 足が床につかない椅子にはもう他で慣れたもので、ぶらりと一度宙でさ迷わせながら傍らから本を一冊手にとる。読書、開始である。


 文を指でさしながら目で追いかけて未だに早くすらすらと読めない身であるが、どうにか何度か戻ったりしながらも確実に読み進めていく。

 時に読めないところや意味が分からないところは老人が側にいてくれ、教えてくれた。

 ゆっくり、ゆっくりリディアは飽きることなく文字を追い続けた。


 妖精の話と子兎と女の子の話を読み終えたとき、身体上手く動かない感覚にリディアは顔を上げて、背筋を伸ばした。

 身体の不自然さはすぐに解けたが、目を何度か開けたり閉じたりする。

 何気なくろうそくを見ると、ろうそくは明らかに前に見たときより短くなっていた。火がちらちらとわずかに揺らぐ。


 こんなに時間が経っていたのかとどこかぼんやりしていると、小さな火とは異なる光を持つ色彩が視界を過る。

 小さな妖精たちが机の上に降り立ったり飛び上がったりしていた。遊んでいるみたいだ。

 

「少々休憩なされますか」


 リディアは気がついていなかったけれど老人は一旦部屋から出ていたようで、今再度入ってきたところだった。


「集中されておりましたね」

「そうかも」


 自分には珍しく、と心の中で続きを呟く。

 物語は容易にリディアを惹き付け、深く誘っていっていたのだ。自分で読めるという感覚も手伝ったに違いない。


「先の陛下もときおりここにいらっしゃってくださっていたのですよ」


 ふいに、傍らにきた老人が言った。


「殿下のお顔立ちは母君に似ていらっしゃるのでしょうな」


 しかし、色彩はもちろんのこと目はまるで先王そっくりだと言う。懐かしそうな眼差しでリディアを見る。亡くなってしまったという王を思い出しているのだろうか。事故で急だったと聞くから。


「陛下はどんな人だったの?」


 「お父さん」とリディアが呼べはしないのは当然のことだと思う。

 絵姿で自分そっくりの色を見た。けれど、立派な格好で立派な立ち姿をしたその男性を「父」だと実感することはなかった。それは結局のところ絵でしかなく、わずかな温かみもないのだから。


「とても穏やかな方でした。よく明るく笑うお方でもあり、気さくにお声をかけてくださる方でもありました。今の、殿下のように」


 老人は懐かしそうな微笑みを深くし、


「けれど頑固な面もおありでしてね」


 思い出したように笑った。

 それだけで分かる。その王が慕われていたということが。

 リディアは、その王に会いたかったのだろうかと自分に聞いてみた。でもよく分からなかった。どうせその人物はこの世にいないという諦めも混じっているのかもしれない。


「妖精公爵とも会ったことある?」

「ええ、ええ。数えるほどですが、陛下とご一緒にお見えになったことがあります。殿下の周りにいる妖精は私にはよく見えませんが、かの方のようなのでしょうなあ」


 と、眩しそうにしみじみとした口調だった。

 その言葉に、始終視界には映っている小さな妖精たちを意識して見ると、相変わらず淡い光を纏う妖精たちがいた。


「妖精は昔はもっといたんでしょ?」

「私たちが生まれるもっともっと昔は、まばゆいばかりだったと聞きますね」

「妖精は減っちゃったんだよね」

「そのように伝えられておりますな」


 どうして妖精は減ってしまったのだろうか。

 リディアはずっとドアの脇に立っている、妖精の部分を持ち、力を持つ不思議な存在をちらりと見た。

 彼の周りにも小さな妖精たちが漂っている。時々リディアの周りの妖精たちと入れ替わっているところをこの間見かけた。

 こっそり目を向けていたつもりだったが、気がついたようにグレンはわずかにこちらを見て、リディアに穏やかな笑みを向ける。


「グレン様を見ますと、陛下のお側にいらっしゃった妖精のお方を思い出します。不思議と心落ち着く雰囲気を持っていらっしゃる」


 グレンは周りに人として見られているのか、妖精として見られているのか。リディアはちょっと気になった。

 侍女たちの彼への扱いが、宰相とは異なり色々緩かったりガードが弱い部分があるのは、妖精としての面を見ているのだろうか。

 グレンの穏やかさは妖精部分から来ているに間違いはない、とリディアは思っている。穏やかさを象徴する緑の瞳はきっと妖精の色だ、とたびたび思うのだ。


 でも軍服を身につける彼だ。

 剣も身に付け、聞くところによると「学校」では成績優秀でその腕は確かなもので、リディアの側にいるのは「妖精」であることも手伝っているが護衛であるのはそれゆえであると。

 しかしながらリディアは、グレンが誰もが厳しい顔をしている印象のある軍の中にいることは想像もつかない。


 毎日のように側にいるグレンという「人」のことを、リディアはほとんど知らないのかもしれない。

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