第3話 かくれんぼwith宰相
飢える心配のないどころか有り余る食事。一日中自分が気をつけていなくとも寒さに恐れをなす必要ない温かな室内。
そんな生活を続けること一週間と五日。
ふんわりと裾広がるスカートに細かい模様の刺繍された、ごわごわなんてせずすべすべで肌触りのよいブラウスに身を包み、足に履くのはぴかぴかに磨き抜かれた茶色の靴。
普段着らしいが十分仕立てよい一式に着られている状態のリディアだったが、服装に似合わぬ体勢をしていた。
背の低い生け垣の裏に尻はつけずにしゃがみこんで枝を手に地面に「お絵かき」しているのだ。ただし、それは単なる暇潰し。
「殿下ー」
ちょうど生け垣の向こう側をユリシウスが呼ぶ声が通るが、リディアは地面を削る枝の動きを一時的に止めるだけで、立ち上がって自身の居場所を知らせる声を上げることはなかった。
その間にユリシウスの声は遠ざかってゆき、リディアは手の動きを再開させる。一時間かけた超大作が出来上がりのときを迎えようとしている。今日中には間違いなく完成するだろう。
王の庶子であったことが発覚し次期国王として城に迎え入れられたリディアの呼び方は「陛下」から「殿下」へと変わった。即位前だからだそうで、そもそも「陛下」は止めてほしいと言ったのはそれゆえではなかったりするのだが。
急変した環境とリディアを取り巻く事情はもうひっくり返ることのないことのようだった。
次期王に相応しい教養を詰め込む「勉強」が一週間とちょっと前から早速はじまった。
ユリシウス・ヴェルエという美人(念のため男性)は貴族であり宰相というやはり高い身分、地位の人で、リディアの教育係を兼任してくれている。
けれども、まず文字が読めないリディアにとって知識を詰め込むことも同時進行で行われるそれらはかなりの苦行であった。また、じっと動かず長時間座っておくことも。
地位の名前、序列、国の歴史という――聞いたところによると――基礎的なことももう受け付けない。
十一歳の、文字ですら学ぶ必要なかった村人には酷な話だと思うのだ。それも一日の大半をそれらに費やす。
こんなことになるならどうにかしていたのに。こんなことになると誰が予想したろう。
嘆きはさておき、今日も例外なく「お勉強」をするはずのリディアが、王宮の広すぎる庭の生け垣の裏なんかに二時間近くいるのには理由があった。
かくれんぼの最中なのだ。
我慢に我慢を重ね、勉強というより忍耐の訓練状態にあったリディアはとうとう根を上げ逃げ出すことにし、休憩のおりにまんまとかくれんぼ提案を通したリディアはちょろいものだと思う。
何しろ村では敵なしだった。リディアが隠れれば、いかに同じく地を知り尽くした子どもでも見つけられる者はいなかった。
見知らぬ場所とはいえ、隠れることに関しては自信がある。
それに、呼ばれて出ていくはずはないのだ。「殿下ー」という現在は聞こえない声を思い出して、リディアはやれやれと一人首を振る。かくれんぼとは隠れて見つからないようにする遊びだというのに、と。
そんなこんなで早二時間、同じところにじっとしているものでお絵かきをしはじめてからは一時間と少し。
明日もこの手が通用するだろうか。とリディアは明日について考えを及ばせる。
かくれんぼは今日で二日目。
あの宰相兼教育係は中々に優しいからまたかくれんぼをしてくれるかもしれない。でもあとから「淑女教育」なるものをリディアに授けてくれる老婦人に、はじめてのかくれんぼをした一昨日たしなめられたから今日はともかく明日も何か言われる可能性はある。一昨日は「自覚をお持ちになってくださいませ」だったか。
リディアは嘆息する。
まったく、王とは何なのだと。
こんな教養の欠片もない子どもが次期王だと。
先が見えない。王になるという光景が浮かばないし、王になって何かできるとは思えない。こんなリディアを今から仕立て上げるより、彼らだけで国は回せるはずだ。
なぜこだわるのかよく分からないリディアはそう思った。その方がよほどいい。
口にも出した。
すると決まってあの宰相も老婦人も他の教師も侍女も図書館の老人もリディアにこう言う。「あなたが王なのです」と。
「帰りたいな……」
ぼそりと溢れた言葉のあとポキリと音を立てて枝が折れる。
いや、どうなのだろう。
恵まれた、恵まれすぎた環境。心地よいといえばきっとその部類にあたる暮らし。
しかし恵まれる代償は大きすぎる地位だ。
村人と王宮住まい。かなり極端だ。
そもそも帰り道の見当がつかない。いや、あの村に自分の居場所などこの先あったのだろうか。
リディアはふるふると頭を振って、地面を見据え直す。
折れた部分をそこら辺に放って、かなり短くなった枝で再びガリガリと地面に溝を刻みつけていく。
「何をしているのか、伺っても?」
「うん? かくれんぼ」
「お絵かきではなくて? 」
「うん。かくれんぼで隠れてる間暇だから絵を描いてるだけ」
「へぇ」
「…………ん?」
自然に受け答えしてからピタとリディアの手が止まる。今、誰と話しているのだ。
自覚していきおいよく振り向く。しかし気づかぬ内に後ろに立っていた相手のズボンを捉えたときには、
「かくれんぼか。では俺が見つけた」
「……うわぁ!?」
脇に手を差し込まれた感覚と一緒にあっという間に足場がなくなった。
不安定で子猫が母親にくわえられているときのような身体が伸びる状態は長くは続かず、尻に支えがあてがわれた。見ると、誰かの腕に腰かける体勢で抱き上げられたことになっていた。
誰の。
誰に。
そろりそろりと遠くなった地面にやっていた視線と顔を上げていく。そっとゆっくり。
やがて現れたのは短い黒い髪に、目が合うのは陽に透ける森の木々の緑をした煌めく瞳。
「俺の陛下、お元気そうで安心しました」
この穏やかな声を、聞いたことがあるような気がした。
リディアが目をまじまじと合わせたままに、男性の腕の中で固まって目を白黒させている間に、
「殿下! 何やらお声が聞こえ――」
その宰相閣下のこともまたリディアは抱き上げられている状態で視線だけをずらして見ることとなった。
「グレン、戻っていたのですか」
「先ほど。どうも伝令より先についてしまったようで」
王宮という場所を考えみるに当たり前か、宰相と正体不明の男性は顔見知りだった。
「殿下、お探し申しあげましたよ。呼んでも出て来てくださらないのですから……」
「……かくれんぼは隠れる遊びだもの」
「ですがあまりにお姿が見えなければ心配になります」
「日が暮れたら出てくるよ?」
「それでは長すぎます」
心底心配そうな顔までされると罪悪感のような感情も湧いてくるけれど、心の中で知らん顔をしておく。ついでに実際に顔もさりげなく明後日の方向へ向けておいた。
すると、微かな笑い声が聞こえた。間近で。
「すみません。宰相閣下に負けていないものですから」
未だリディアを抱き上げている男性の所業であった。
「そろそろ、降ろしてくれませんか」
「分かりました」
発言は華麗に無視をして顔を改めて合わせた機会に言い出せば、リディアはすんなりと地上に帰された。
地に足をつけるとスカートを軽く払われる。宰相、ではなく傍らの男性だ。見上げるととても背が高いことが判明する。どうりで地上が遠くなるわけだと納得しもする。
外套を羽織っているのでその下の詳しい服装は分からない。けれど靴は宰相のものとは違う形のもので、少し汚れている。そういえばさっき「戻っていたのですか」と宰相に言われていた気がする。
「どこかに出掛けていたんですか?」
「はい、少し。それよりも俺に敬語なんて使わないでください。どうぞ、ありのままで」
それから、と見上げていた顔が下りてくる。
「遅れましたが、グレン・ハウザーと申します。どうぞグレンとお呼びください、陛下」
正確には、そうすることが自然と言わんばかりに流れるような動作で膝をついて、リディアと近い目線になって彼は名乗った。
穏やかな微笑みを添えて。
「グレン・ハウザー」というのが、この男性の名前。
微笑みよりも穏やかな色を称える緑がとても印象的で注意を引かれていたリディアは黙っていることに気がついて、目を数度瞬く。
「どうも、リディアです」
と名乗り返してから、とりあえず「陛下」じゃないよと訂正をしておいた。
「ああそうでしたね、まだ。ではそのときまでは『殿下』と」
リディアの小さな手の甲に「グレン・ハウザー」は唇をそっと触れさせた。それもまた、さも当然であるかのように。
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