第38話 慟哭する紫紺、そして戦いの終わり
振り下ろされた短剣の
(あ、前と同じだ・・・)
地面に片膝を立ててしゃがんだ体勢で、ロズは輝く紋様を見つめた。
花の
あの不思議な家で発動させた時と同じだ。まるで、光が
噴水のように、紋様からいくつもの水流が噴き上がっていった。水流は舞い踊りながら、
その様子を見て、感嘆したようにオラクルが呟いた。
「これは、すごいな・・・」
亡骸の胴体部分にぐるぐると巻きつきながら、光の水流は渦巻きを作り出していく。やがて渦に取り込まれた亡骸は、ガクリと体勢を崩した。
(これで・・・魔法が解ければ・・・!)
その時だった。
「・・・人間・・・」
不意に、暗く重い声が、どこからか聞こえてきた。
「!!」
次の瞬間、ロズの目の前に一人の女性が現れた。何もない空間から、急に現れた──少なくとも、ロズにはそう見えた。
ドレスのように優美で丈の長い、真っ黒いワンピースを着た、神秘的な女性だった。
その目は、射抜くようにロズを
(誰・・・?)
ロズは逃げることもできず、短剣を振り下ろした時の体勢のまま、その場に硬直してしまった。
謎の女性は、怒りに満ちた表情でロズを見下ろしている。
「お前達のせいで・・・!!」
彼女の声は張り裂けそうに悲痛で、震えていた。
その瞬間、ロズは痛みにも似た衝撃が全身に走るのを感じた。
こんなにも強い『憎悪』という感情をぶつけられるのは、生まれて初めてのことだったのだ。
怖くて悲しくて、とても苦しい。
紫紺の瞳が憎しみに燃えるのを見つめながら、ロズは荒い呼吸を必死に繰り返した。そうしなければ、呼吸が止まってしまいそうだったからだ。
その時、女性の視線がわずかに動いた。ロズは、彼女の視線が胸元のペンダントに向けられているのを感じた。
女性はペンダントをじっと見つめると、
「・・・エオスディア、どうして・・・」
(あっ・・・)
ロズは思わず、短剣の
コインに彫られているのは、太陽とアザレアの花。
女神と呼ばれた精霊、エオスディアの象徴だ。
エオスディアは伝承に登場する存在で、実在するという証明はされていないはずだが──。
(この人は、一体・・・)
「どうして・・・!」
女性はもう一度呟くと、瞳に深い
(!!)
ロズは
女性はピタリと手を止め、責めるようにロズを睨んだ。
その瞳に、憎悪だけではなく、耐えきれないほどの痛みが浮かんでいるように見えて、ロズはハッとした。
「あなたは・・・」
だが、ロズは言葉を続けられなかった。目の前で、女性の全身が
謎の女性はそのまま、ロズの前から姿を消してしまった。
(い、いなくなった・・・?)
ロズは困惑し、瞬きを繰り返した。だが、謎の女性の姿は戻らない。呆然としていると、頭上から雨粒のような青い光が降り注いできた。
(そうだ、魔法は・・・!?)
ロズは慌てて亡骸の方を見た。
謎の女性と対峙している間に、亡骸を構成する影はほとんど崩れてしまっていた。その体は、もう消えかかっている。
もはや
そして、降り注ぐ光の粒と同化するかのように、亡骸は完全に消えてしまった。
役目を果たしたからか、短剣の生み出した青い光はだんだんと小さくなっていく。足元の紋様も薄くなっていき、やがては見えなくなった。
光が消えると、ロズはふらつきながら立ち上がり、ぼんやりと視線を
「──ロズ? 大丈夫かい?」
「! オラクルさん・・・」
オラクルに呼びかけられ、ロズはハッと我に返った。
「あの、うまくいった・・・んでしょうか?」
「うん、魔獣はまた大地に還ったんだ。短剣の力で魔法が解けたから・・・だろうね」
オラクルは安堵の表情を浮かべている。
「推測が当たってホッとしたよ」
「そうですか・・・」
黒い影が崩れていく様子を思い返すと、その痛々しいとも言える光景に胸が苦しくなる。
だが、また大地に還ったんだというオラクルの言葉を、信じるしかない。
魔獣を解放することができたのだと、ロズは信じることにした。
ロズは短剣を見つめ、心の中で礼を言った。
(・・・ありがとうございます)
短剣を
「あの・・・オラクルさんも、見ましたか? さっき、ここに女の人が現れて・・・」
オラクルは首を傾げた。
「? いや、誰も見てないけど・・・」
「・・・やっぱり、そうですよね」
オラクルの答えを聞いても、ロズはさほど驚かなかった。
あの女性はロズにしか見えていなかったのだろう──と、予想はしていたからだ。
そうでなければ、あの時オラクルが何の反応も示さなかったのはおかしい。それに、あの女性の方だって、オラクルのことは見えていないようだった。
ロズの顔色が悪くなっていることに気がつき、オラクルは慎重に尋ねた。
「・・・誰か現れたのかい? 君の前に」
「はい・・・短剣の力を発動させた後、目の前に女の人が現れたんです」
ロズは自分を落ち着かせるように、髪をクシャッと触った。そして、少し
「その人は、すごく・・・傷ついていて、すごく怒っていました」
ロズは、オラクルに謎の女性とのことを話した。彼女が、エオスディアのコインに反応したことも含めて。
「・・・なるほど、ね」
話を聞いたオラクルは、
その表情を見たロズは、オラクルは何かに気がついた、あるいは何かを知っているのでは、と直感的に思った。
だが、オラクルが何か言ってくれるのを待っても、オラクルは何も言わず、ただ黙って遠い目をしているだけだった。
やがてロズは
「オラクルさん! もし何か知っているなら教えてください! わたし・・・知らなくちゃいけない気がするんです!!」
オラクルは少し驚いたような顔をしたが、悪びれる様子は見せず、ゆっくりと首を横に振った。
「・・・ごめん。わたしは今、ベロニカの協力者だから。まずはベロニカに話さないといけない。彼女に協力すると、約束したからね」
オラクルは目を細め、短剣を指差した。
「君は・・・君が約束した
「そんな・・・」
いきなり突き放すようなことを言われ、ロズは呆気に取られてしまった。少し、不公平なようにも思えたのだ。
だってロズは謎の女性と遭遇したことを、包み隠さずオラクルに話したのだから。
ロズは震える手を握りしめると、オラクルに一歩近づいた。
「じゃあ! せめて一つだけ教えてください! 精霊って・・・エオスディアって、本当に──」
ロズの言葉を
「ちょっと待って。いきなりで悪いんだけど、どうやらこの亜空間はもう消えてしまいそうだ」
「へ?」
オラクルは
「いやあ、ほら、この亜空間はわたしが『魔法』で作り出したものだろ? だから短剣の、魔法を解く力の影響を受けてしまったみたいだ。考えてみれば当然のことだね。思ったより短剣の力が強くてさ、もうこの亜空間を維持できそうもないんだ」
「え、じゃあ、わたし達はどうなるんですか?」
「ああ、大丈夫。心配しなくても、元のフォミング
「え、えっと、それなら安心? ですけど・・・」
オラクルが嘘をついているとは思わないが、急に話を変えられた感じがして、ロズは
「問題はないだろう? 君だってフォミング高原に早く戻りたいはずだよ。アレックスも心配しているだろうし」
「! それは・・・確かに」
オラクルは目を細めて悪戯っぽく笑うと、右手の指をパチンと鳴らした。
「・・・君が見たって言う女性のこと、今は気にしない方がいい。人間の手には余る問題だから」
呟かれたオラクルの言葉は、ロズにはほとんど聞こえていなかった。
ロズは
────────────
「・・・!」
目を開けると、思っていた通り、そこは正真正銘のフォミング高原だった。
せわしない状況の変化についていけず、ロズは頭を抱えたくなった。
「で、でも・・・戻ってこれて良かった・・・」
「! ロズ!!」
その声を耳にした瞬間、くらくらとしていた感覚も吹っ飛んだ。
「アレックス・・・!」
振り返ると、アレックスがこちらに駆け寄ってくるところだった。近づいてくる彼女の目は、わずかに涙ぐんでいるように見える。
ロズは、亜空間での出来事によって動揺していた気持ちが、温かく
互いの顔を見つめて、二人はほぼ同時に言葉をこぼした。
「「よかった・・・!」」
気がつくとロズは、駆け寄ってきたアレックスを受け止め、彼女の体を力強く抱きしめていた。
陽炎のように消えてしまわないことを、確かめるかのように。
・・・第3章へ続く
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