第三節 場外特訓


目配りし、講釈していた上地が話し終えるや、自ら弓と矢を持ち場立ちをすべく、本座から射位へと立った。

その様子を見ていた吉田が頷く。「やはり、上地先生はよく知っているな。さすが上位有段者だ。範士六段の実力者だぜ。なあ、牛尾さん。あなたも早く、範士になりたいんじゃないですか?」と牛尾に振る。

すると驚いたように「何を馬鹿なこと、滅相もない。そんな範士なんて夢のまた夢ですよ。いいや、夢にもならんか。そんな風に、からかわないで欲しいな。まあ、吉田さんはさておき佐々木さんは五段だし、チャレンジする資格がありますよね」と佐々木に振った。

「とんでもない。確かに今は五段ですから挑戦する資格はありますが、まだまだ技術的に未完成なので、これからしっかり鍛錬して、ふさわしい弓道人になるよう努力しなければならんのです」と謙遜するが、まんざらもなさそうに笑みを浮かべた。

すると、牛尾が続けて「吉田さんも、まずは三段に昇段して、その後はこつこつと努力を重ね四段、五段と上ることが可能じゃないですか?」と持ち上げると、驚いたように「何を、とんでもないことを言うんですか。三段の壁に阻まれて、今だに二段でうろうろしている身に、牛尾さんの言葉は、胸にグサッとくる衝撃破ですよ」

さらに「そんなこと言われると、これから弓道を続けて行く自信が無くなるじゃないですか。これで、俺も立ち直れなくなる」

「ああ、如何しよう」とがっくりする素振りをして、牛尾に悟られぬよう下を向き、ぺろりと舌を出した。

「まあまあ、そんなに落ち込まないでください。吉田さんの行射は、なかなか筋があると思いますよ」と佐々木がフォローしていた。

その後佐々木を頭に、吉田や牛尾らが射位に立ち、幾度の行射を重ねていた。そんな折、吉田がついと場内の時計を覗い漏らす。

「あれ、もうじき午前十一時だ」

「早いな、今日の稽古を上がらにゃならん。なんせ年金暮らしで、練習チケットを一枚しか使えないんでね。それじゃ、あと一回四つ矢をやって終わりにしようかな」と呟き、牛尾に確認する。

「牛尾さんも、あと一回ぐらいで上がりますよね」と尋ねると、「そうしましょうか。今日はペースが速かったんで、少々疲れました」との返事を聞き、吉田が弓と矢を持ち場内へと入り、弓を引く姿勢を整え、前射手らの矢取りを終えるのを確認し、本座から射位に入って行った。

すると同時に牛尾も吉田の後を追うように、弓と矢を持ち揖をして本座から射位へと入る。二人は前後して、弓を弾く構えに入り弦調べ、矢調べを経て取り懸け物見の弓構え後、打起してゆっくりと引き分け、的に向け矢を放った。

それは射法八節の足踏みから始まる各動作で、打起しから目一杯引き分けて会へと進み離れを迎える。放った後の残身がきちっと決まれば、八節の残心が残影として心の中に刻まれる。そして残心のあと両腕を腰に戻し、顔を正面にゆっくりと直す。

これらの動作がすべて呼吸法で行われるのだ。吸う息で動作、吐く息で間を取る。その繰り返しこそ、弓道の基本となる。

四本の矢を丁寧に、それも落ち着いて射ち続ける。最後の一矢を終えると、何故かほっとする気持ちが身体全体に広がってきた。

「うむ、射ち終えたな…」

吉田は己の行射に納得したのか、本日の修練を終え一息入れていた。少し前に上がった牛尾に話し掛ける。

「今日の稽古も終わりましたね。朝からの行射の出来は如何でしたか。成果があったんじゃないですか?」

すると、返事が返って来る。

「出だしは良かったと思いますが、後半は疲れのせいか、まともに中らなくなっちゃって、複雑な思いですよ」そう言う牛尾の顔には、まんざらでもなさそうな笑みが浮かんでいた。

「ところで、吉田さんは如何でしたか?」

逆に尋ねられ、神妙な顔をする。

「出だしも中盤も、さらに最後の四つ矢も、まったく良いところは有りませんでしたね。進歩の欠けらもないほど、散々な状態ですよ。これじゃお先真っ暗で、長いトンネルが果てしなく続き、結局抜け出せないんじゃないかと不安になりますよ」

「何をおっしゃいますか。今迄伊達に稽古を積んで来たわけじゃないですよね。そのうち的が矢の方に向かってきますから、何も焦ることはありません。しかし、吉田さんがそんな見かけによらない、弱音を吐くこと事態が変な話です」

「せっかく晴れているのに、これで雨になったら如何するんですか。午後から出掛けなければならない用事があるのに、元気出してくださいよ。何時もの吉田さんに戻って欲しいですね」と、牛尾が貶しつつも労った。

すると労いが効いたのか、吉田の態度が直ぐに変わる。

「そうですよね。稽古は今日で終わりじゃないし、まだ続けるんだっけ。それなれば今日の出来を反省して、次に生かせばいいんだ」あっけらかんとして、「まあ、そんなに難しく考えることではないわな。そうだよ、次の稽古日までに反省すべき点を修正して臨めばいいんだから。こりゃ、落ち込んでいる暇ねえぞ。早く家へ帰って、今日の修練を分析してみるとするか」と顔から落胆色が消えていた。

その様子を牛尾が見て呟く。

「しかし、吉田さんは大したもんだ。落ち込んだかと思えば、直ぐに元気になる。これは一体、如何すればあんな風になるのかな。変わり身が早いと言うか、あまり考えない性分なのか分からんが…」

そんな戸惑う様子を、けろりとした顔で吉田が気遣う。

「あいや、牛尾さん。何か悩み事でもあるんですか。眉間に皺が寄ってますよ。悩みなど吐きだっしゃいなさい。そうすれば気持ちが楽になりますから」

すると戸惑い返す。

「いや、何でもない。吉田さんの余りにも変わり身と言うか、転換の早いのに着いていけないだけです。それにしても、一度吉田さんの頭の中をかち割って、じっくりと覗いてみたいものです」とうそぶくと、吉田が慌ててほざく。

「いやいや、待ってください。俺の頭を割られちゃたまらん。それだけは勘弁してください。その代わりと言っちゃ何ですが、今度コーヒーの一杯でも奢りますから」

懸け問答のような会話に、佐々木が首を突っ込む。

「何を、お二人さんは。訳の分からない話をしているんですかね。よかったら私にも聞かせてくださいよ」すると吉田が、慌てて話を逸らす。

「いいや、何でもないんです。あまりに牛尾さんの行射が素晴らしんで褒めていたところです。それに比べ俺の射ときたらまったく駄目で、お先真っ暗なので牛尾さんに秘訣を教えてもらえないかとお願いしていたところなんです」

さらに覗い、「佐々木さんも是非、私目に的に中る秘策を伝授していただけませんか。いや、失礼いたしました。伝統ある佐々木派振動流をご伝授願えませんでしょうか。お教えいただけると、誠に持って有難いのですが」乞うと、佐々木がまんざらでもなさそうに鼻をつんと上げる。

さらにもったいぶる様に、「そうですね…。振動流と言う射法は、簡単には伝授出来ないし、また容易に他人に教えることは難しいんです。それを承知で如何してもと言うなれば、少々月謝が高くつきますが、宜しいですかな」

佐々木の提案に、吉田が言い訳気味に問う。

「はあ、そうですか。それでその月謝とやらは、お幾らぐらいになりますでしょうか?」

「ただ私も年印暮らし故、あまりにも法外な金額では…」

自分のことはさておき振る。

「それに比べ、こちらの牛尾さんなんかは、財産が腐るほど持っていらっしゃるやに聞きますので、出来れば私の分も牛尾さんから徴求していただけると、誠に有難いんですが」

そんな吉田の根拠のない話を聞いて、牛尾が驚く。

「ひやっ、何を言ってるんですか、吉田さん困りますよ」

「私だって年金暮らしで、きゅうきゅうしてるんだから。根も葉もない話をしないでください。まったくもう、心臓が止まるかと思いましたよ」

そんな驚く様子に、あっけらかんとして吉田がほざく。

「まあ、たしかに言い過ぎかもしれない。日頃の牛尾さんの行動を窺うと、決して貯えが多いようには見えない気もする。ちょっと言いすぎたようで謝ります」と告げ「すみません」と軽く頭を下げ、再度佐々木に要請する。

「それよりも、佐々木さんが無料で振動流を教えていただければ、丸く収まると思うのですが、如何でしょうか?」

「うむ、辛いな。月謝を取らずに教えるのは…。まあ、考えておきましょうかね」曖昧な返事に、けろりとした顔で吉田が告げる。

「是非とも、ご検討ください。貧乏な私目と、牛尾共々頭を下げてお願い致しますから。その代わりと言っちゃ何ですが。今度作成する小説の登場人物に佐々木さんを入れてあげますよ。それもすごく人格のある人物で、大いに活躍するというストーリーにしますけど。これで如何でしょうか。さしずめヒーローと言うことで…」

さらに「これは悪くない案だと思いますよ」と、吉田がにたり顔で告げる。

すると「何を馬鹿なこと言ってんだか…」呆れ顔で牛尾が漏らすと「冗談ですよ、牛尾さん。直ぐまじになるんだから」吉田が否定する。牛尾がほっとしてか「それならいいんですけど」と漏らす。

そんな二人のやり取りに、隣の佐々木がにたり顔となっていた。



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