第32話 それは静かな夏の夜 4
馬の手綱を持つフィーアの心は浮かなかった。
エルンストの態度がよそよそしかったからだ。
あくまでも侍女に対する対応だからだ。とか、仕事中と言われればそれまでだけれど。
侍女として私を迎え入れて下さっただけで感謝しなければならないし、自分には優しいとうぬぼれているつもりもない。けれど何か大きな塊が胸につかえている。
自分でもうまく説明できない、もやもやとした感情。
ファーレンハイトとかおっしゃった方の半分でも、お優しさがあれば・・・。
えっ!?私、どうしてそんなこと。
自分の思い上がりに驚いてしまった。
どうかしてる。
ご主人様は名門べーゼンドルフ侯爵家の当主。
皇帝の覚えもめでたく、ますます発展してゆかれる方。いずれ上級貴族の女性と結婚されるだろう。
私など相手にするはずもない。
もし、その時が来ても私は侍女としてご主人様のお側に仕えているのだろうか。
思わず首を振る。
フィーアは馬の背に揺られながら、心に湧き上がる葛藤を否定した。
屋敷に着き、やりかけだった作業をするために庭に戻ると、シャベルや剪定ばさみが夕日の中に寂し気に取り残されていた。
「おや、フィーア帰ったのかい?」
ルッツが熊手を持って立っていた。
ルッツは白髪が目立つ五十近い庭師だ。仕事がら腰が痛いとよく言っている。
「もうすぐ暗くなるし、今日はこれで上がろう。お前さんは夕食の支度もあるだろうし」
「そうですね。私が使ったシャベル洗っておきます」
「ああ、そうしてくれ。道具は納屋にしまってくれればいいから」
「はい」
去って行くルッツの背中を見守る。
夕焼けの赤い光が眩しい。太陽が月にその座を明け渡したくなくて最後の抵抗のようにも見える。
——もうすぐ夜が来る。
私は諦めの悪い人間なのだわ。
今日のエルンストの態度がどうしても気になってしまう。
二人きりの時は、それなりに気を使ってくださるのだけれど。
『お前には剣よりも、花が似合う』
チクンとフィーアの胸を刺した言葉を思い出す。
押し殺していた感情がじわじわと沸き上がる。
自分の身分を考えれば絶対に犯してはならない禁忌。それはエルンストを好きになってしまうこと。
それだけは絶対にダメっ。
フィーアはギュッと胸の前で拳を握る。
「手入れは終わったのか?」
エルンストだった。
思いもよらない声の主の登場にフィーアは慌てた。
「お、お帰りなさいませ」
ファーレンハイトが『閣下の帰りが早い・・・』と言っていたけれど、さすがに今日は普段よりさらに早かった。
いくら早いと言っても、陽が沈む前に帰ることは無かった。
「この花は母が植えたものだ」
言いながらどこか遠くを見つめるその表情は寂しそうだ。
「お母さまが?」
遠慮がちに聞き返す。
「ああ、母は百合の花が好きな人だった。毎日毎日、飽きずにせっせと球根を植えていた。幼かった俺は時どき水やりを手伝った」
ご主人様のお母さまは、どんな人だったのだろう。
屋敷に肖像画は一枚もないから分からないけれど、きっと美しい人だったに違いない。
夕闇の風は百合の花を優しく揺らす。すると、周囲に香りが漂う。
「今日はすまなかった」突然エルンストが呟いた。
その声があまりに小さかったので、フィーアにはよく聞き取れなかった。
「今、なんて・・・」
「お前のエプロンに毛虫がついている。と言ったのだ」
意地悪な顔で、フィーアの白いエプロンを指さす。
「どこですかっ。やだ、えっ嘘!?」
フィーアはバタバタとエプロンを払いながら、小刻みに動く。
「まるで小動物だな」
笑いながらフィーアを見ていたエルンストだったが、「嘘だ」と冷めた声で言った。
「ひ、酷いです。ご主人様っ」
口を尖らせてむくれるフィーアに視線を向けるエルンスト。
そんな沈黙を破ったのは、ヘレナだった。
「フィーア、そろそろ夕食の支度を・・・ご主人様!?いつお帰りになったのですか」
「ついさっきだ」
「気づきませんで。すぐにお風呂に入られますか?」
「いやいい」
ぷいっと背を向けると、エルンストは一人歩きだした。
フィーアとヘレナは無言で頭を下げたのだった。
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