第30話 それは静かな夏の夜 2

「またお会いしましたね」


 エルンストとは対照的な優しい声だった。

 胸の勲章や飾緒を見れば、高級将校だと一目で分かった。

 柔らかそうな金色の髪に、青い瞳。女性受けする要件を全て満たしている人だった。


「駒寄はこちらですよ。建物の中に人は入れても、馬は入れませんから」

「そうでした。ごめんなさい」


 慌てて駒寄に馬をつなぐ。


 どこかで会っていたかしら?


「お城は初めてですか?」

「はい、勝手がわからなくて。すみません」

「こちらですよ」

「あ、あの?」


 青年に優しい笑顔を向けられて、フィーアの心臓はとくんと鳴った。

 

「べーゼンドルフ閣下の所へ行かれるのでしょう?」

「どうしてそれを?」

 

 驚くフィーアに、青年はさらに笑顔で答えた。


「あなたには、前に一度お会いしています。それにその服は閣下の屋敷の侍女のものだ」


 まさか、あの時の――。

 アーデルに駆け寄ろうとした私を止めた人。

 

 フィーアにまじまじと見られて、青年は少し照れくさそうに視線をそらした。

 

「こちらですよ、おフロイラインさん」


 そう言って歩きだした。


「しかし、閣下のお屋敷にこんな美しい方がいたとは知りませんでした」


 優しい人のようだけど、うっかりボロを出さないように受け答えに気をつけないと。

 フィーアは書類入れを持つ手に力を込めた。


「私がお屋敷にお邪魔したのは半年前ですが、その時あなたはいらっしゃいましたか?」

「いいえ。あの、私は最近奉公いたしまして」

「やはりそうですか。こんな美しい人を見逃すはずはありませんから」


 顔色ひとつ変えず、気恥ずかしいことを言う人だわ。

 きっと女性の扱いに慣れているのね。


「近いうちに、またお屋敷にお邪魔したいものです。しかし閣下もお人が悪い。こんな綺麗な人をお側に置いておきながら、一言も話して下さらないのですから」


 青年の弾けんばかりの笑顔にどう答えていいのか、フィーアは困惑した。

 若い男性と話すことにあまり慣れていないせいで、この時間がとても窮屈に感じられた。

 早く書類を届け、帰りたいと思った。


「最近閣下が早く帰られる理由がこれで分かりましたよ。フロイライン、あなたのせいですね」


 改めて笑いかけられて、不覚にもフィーアは頬を染めてしまった。


 頬を染めた理由はもうひとつ。

 ご主人様が早く帰ってこられる理由が・・・私?


「さあ、ここですよ」


 レンガ造りの平屋建ての一番奥の部屋にエルンストの執務室はあった。

 

「さっき私が話したことは、内緒ですよ」


 青年にウインクされて、フィーアは全身夕日に照らされたよに、真っ赤になってしまった。


「フロイラインはあまり、男性免疫がおありではないようですね」


 笑いながら青年は扉をノックする。


「閣下、ファーレンハイトです」


 室内からの応答に、ファーレンハイトと名乗った青年は扉を開けてくれた。


「さあ、どうぞ」うやうやしく手招きをして、フィーアを中へと導く。

 

 そこは質素で殺風景な部屋だった。無駄な装飾は一切無く、木製のテーブルセットと観葉植物が執務机の脇と窓際に置かれているだけだった。


 エルンストは書類にサインをしているところのようだった。

 目の前に現れたフィーアに全く表情を変えず、「どうした」と一言発しただけだった。


「コンラートさんに頼まれました」


 書類入れを差し出す。


 エルンストは黙ってそれを受け取ると、何も言わずに再び書類に視線を落とした。

 どうやら無言で帰れと言っているらしい。


「閣下、お礼くらい言ったらどうですか。せっかくフロイラインが届けてくれたんですよ」


 呆れるファーレンハイトをエルンストは無視した。


「ひどいですよね」フィーアに小声で耳打ちする。


「ご主人様はお忙しいのですもの、どうかお気になさらず」

「閣下はどうも女性に愛想が無い。決してあなただけではないのですよ」


 肩をすくめながら優しく微笑んでくれる。どうやら気を使ってくれている様子だ。


「どうですフロイライン。これから私と昼食をご一緒しませんか?」


 心なしかエルンストのペンを持つ手が震えて見える。


「ファーレンハイト、我が家の侍女を誘惑するのは遠慮してもらおう」

「誘惑だなどと、聞き捨てなりません。閣下がフロイラインをぞんざいに扱うからです」


 エルンストが無言でいることにため息をつくと、ファーレンハイトは大袈裟にエルンストに頭を下げる。


「閣下の機嫌が悪くなりそうだ。フロイライン、駒寄までお送りしましょう」


 フィーアの腰に軽く手を添え、踵を返そうとした。


「独りで帰れるな!?」


 怒気にも近いエルンストの声が二人に浴びせられた。


「は、はいご主人様」反射的に答えていた。


 フィーアはファーレンハイトの厚意を丁重に断ると、執務室を出たのだった。


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