第22話 宵待ち草 1
フィーアがべーゼンドルフ家の侍女となって、早数日が経とうとしていた。
仕事にもだいぶ慣れてきた。使用人たちとの会話も増えた。
「よぉ、フィーア。今日も綺麗だね」
「ありがとう、ハンス。お礼にお使いの帰りに、お花を摘んできてあげるわ」
「おう、調理場は殺風景だしな。頼むぜ」
「はーい、行ってきまーす」
誰もが気兼ねなく声を掛けてくれるようになった。
屋敷から一番近い町にあるバザールまでは四キロほどで、フィーアにとってすっかり慣れた道だ。
森を抜け、湖の横に来ると黄色いつぼみをつけた宵待ち草が群生していた。
お屋敷は本当に風光明媚な場所にあると思う。
お天気の悪い日に森を抜けるのはちょっぴり怖いけれど、湖まで来れば、視界を遮るものはほとんど無くなり、気持ちの良い風が吹き抜ける草原が広がっている。
宵待ち草は夕方に咲き、朝になるとしぼむのだが、時間を間違えたのか、所どころで咲いているものがあった。
「帰りに少しちょうだいね」
話かけると、宵待ち草はまるで、「イヤイヤ」と言っているかのようにさわさわと揺れた。
フィーアにとってすべてが輝いていた。
奴隷となり鎖に繋がれていた時は行動を制限され、自由の素晴らしさを忘れかけていた。けれど今はそれが実感できる。
これもすべて、エルンストに出会ったからだ。
フィーアにとってエルンストは命の恩人であり、生涯命をかけて仕えるる主人となった。
町の入り口を通る。
見慣れた町並みを歩いていると、子供たちが木製の剣で騎士団ごっこをしているのが目に入った。
騎士団は男の子たちにとって、憧れの存在であるらしい。
「僕は団長のエルンストだぞっ。大陸一の勇者だっ」
小柄な子供が剣を高々と掲げる。
「じゃあ僕はファーレンハイトだっ」
エルンストの名を耳にして、ドキリとして足を止める。
ご主人様の名が子供たちにまで知れ渡っているなんて。
お屋敷ではどちらかと言えば不愛想で、笑顔もあまり見たことが無いのだけれど、騎士団を率いているときはどうなのかしら?
しばらく子供たちの遊びを眺めていた。
子供は社会を映す鏡だと良く言われる。
無能な役人や領主を、面白可笑しく替え歌や遊びで風刺している。おそらくそこに悪意はなく、素直に思ったことを表現しているのだ。
エルンストは子供たちの憧れの存在なのだから、きっと騎士団でも尊敬されているのだろう。
遊びに飽きた子供たちがどこかへ走り去るまで見届けて、フィーアはいつもの店へ向かった。
買い物を済ませると、町の広場へ向かう。広場は人々にとって憩いの場であり、いつも多くの人でにぎわっている。中央には噴水がある。
路上で歌を披露する者、おしゃべりに夢中なご婦人がた。水の周りで遊ぶ子供。
夏の暑さを少しだけ忘れて涼んで帰るのが、フィーアにとってささやかな楽しみだった。
いつものように噴水のほとりに座る。
今日は普段よりもにぎわっている。何か出し物でもやっているのだろうか。
「ビシッ」空気を切り裂く乾いた音。それは聞き覚えのある音だった。
まさか・・・。
不安を抱えながら人混みをかきわけ、輪の中へ進む。
あれは。男の影からそっと覗き見ると――。
間違いない。奴隷商人だった。売られている奴隷たちにも見覚えがある。
手のひらにじわじわと不快な汗が湧いてくる。おそらく帝都での奴隷市が終わり、帰りにここへ寄ったのだろう。
アンゼムとベルタの姿がない。
帝都で誰かに買われたの?
アーデルは母親と一緒だった。
「アーデルっ」
思わず叫んでいた。
アーデルは自分を呼んだ声を探して、辺りをキョロキョロとする。
「アーデルっ!」
駆け寄ろうとしたフィーアの腕を何者かがむんずと捕まえて、輪の外へと連れ出した。
誰?
「あなたの行動は、あなたのご主人だけではなく、使用人すべてに迷惑をかけますよ」
「あ、あの?」
「その侍女の服。べーゼンドルフ家の人間でしょう?」
フィーアの腕を掴んでいた青年は手を離すと、優しい笑顔をフィーアに向けた。
「あなたの素性は良く知りませんが、べーゼンドルフ家の侍女が奴隷と知り合いとあっては、都合悪いのでは?」
青年の言う通りだった。
「・・・そう、ですね」
「使用人であっても、その家の顔であることをお忘れなく」
青年は身をひるがえして、人混みに紛れてしまった。
一体誰だったのだろう。
エルンストの知り合いだろうか?
逃げるように、その場を離れる。
アーデル。帝都で少しはましな食事をさせてもらったのかしら。顔色が良かった。
お腹いっぱいご飯を食べさせてあげたい。甘いお菓子やフルーツも。
私だけ、ごめんね。
ポツリ、ポツリと瞳から涙が落ちていた。
「おーい、フィーア」
切なさと悲しみに暮れるフィーアに声をかけてきたのは、洗濯屋のギードだった。
慌てて涙をふく。
「どうしたの?うちを素通りしちゃダメじゃないか」
「そうだったわね」
「エルンスト様の軍服、洗濯終わってるよ」
「ありがとう」
洗いたての軍服を渡される。
「どうしたの?気分でも悪いの?」
「ううん、何でもないわ」
「ウチで少し休んで行くかい?」
人の良さそうなギードだって、私が奴隷と知ったら途端に態度を変えるに違いない。
「ありがとう。でも、帰るわ」
「ちょっと待ってて」
ギードはフィーアを残して店の中に姿を消した。しばらくして戻ってきたその手には、赤いバラが握られていた。
「フィーアの前ではこのバラもかすんでしまうけど、これをお守りにお帰り」
「嬉しいギード、とてもいい香りがするわ」
頑張って笑顔を作ると、フィーアは店を後にしたのだった。
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