第11話 不透明な未来 2
夜も更けたころ、酒のせいもあってソファーでうたた寝をしていたエルンストを夢から引き戻したのは、部屋の戸を叩く音だった。
「ご主人様、入りますよ」
ドアノブが回る音がする。ヘレナだった。
「夜分に申し訳ございません。娘が意識を取り戻しました。ただ今ルイーザが娘を風呂に入れております。もうそろそろ出て参りますが、お会いになりますか?」
下男を呼んだのは、娘を馬屋へ運ぶためだと思っていたから、ヘレナの言葉は意外なものだったし、内心で安堵する自分にも驚いた。
「屋敷に置いてもいいのか?」
無言でヘレナは頷いた。
「感謝するぞ、ヘレナ」
ヘレナはやはり俺の母だ。
ヘレナを優しく抱きしめた。
ヘレナの後に続き、長い廊下を抜け使用人の食堂へと案内される。
「入浴後に食事をさせようと思います。支度が済みましたらここへ連れて参ります。ご主人様は、もう少しこちらでお待ちくださいませ」
「ああ」
ゆっくりと長テーブルの椅子に腰をかける。
自分は慈善事業家ではないし、善人でもない。ただ娘を手元に置くと決めた以上、犯した罪を償いながら人並の生活をさせてやるつもりだ。
窓が風を受けてギシギシと唸っている。風が幾分強くなったようだ。
そちらに目をやると、先ほどの楡の木がその葉を大きく揺らしていた。そしてガラスに当たる雨粒は何本もの線になっていた。
独り残された室内を見渡す。見知った場所なのに、暗い森に置き去りにされた気分だった。雨で閉ざされた空間は、この世界に自分しかいないと錯覚させた。
そんな雨の夜が好きだった。
ポツポツと木々の葉を叩く音も、屋根や窓を激しく叩く雨音も何故か安心する。風の音は周りの雑音を消し、自分だけの世界に浸れるからだろうか。
結局、どんなに使用人がいても、部下がいようとも、心は常に孤独なのだ。
使用人用の粗末なテーブルの上で、燭台の灯りが心細そうに揺れている。闇と雨を恐れるように。
「嵐が来るか」
遠くで一瞬空が明るくなり、神が気まぐれに投げおろした
「俺の行為を先祖が怒っているのだな」
ふふっと口の端を上げて笑った。
「べーゼンドルフ家にとって、あの娘は女神となるか疫病神となるか楽しみだ」
雷に向かって小さく呟いた時だった。
「さぁ、こっちよ」
ルイーザの声だった。どうやら娘が風呂から上がったらしい。
「ご主人様、お待たせ致しました」
娘を伴った侍女のルイーザが食堂に姿を現した。
薄っすらと鼻の周りにそばかすの残るルイーザ。十八歳の割にはしっかりとした娘だと感じている。
羽目を外したい年頃なのに、テキパキと仕事をこなし、文句を言わず言いつけを守る。
「遅い時間まで、お前にも迷惑をかけるな。明日は寝坊していいぞ」
「滅相もありません」
これも自分の仕事だとばかりに、ルイーザは気にした様子もなく、ただ頭を下げた。
きちんと赤毛の髪を三つ編みにしたルイーザとは対照的に娘のハニーブラウンの髪は洗いざらしで、毛が所々絡まっている。
服はおそらくルイーザのものだろう。若い娘が好みそうなブルーを基調としたワンピースで、派手なデザインではないが、デコルテは大きく開き腰はきゅっとしまっていた。
食事を満足に与えられていなかったせいで、娘はルイーザと背格好は似ているものの、服から延びた腕は恐ろしく細かった。
しかし驚いたのは、娘から漂う気品だった。かなり全身が汚れていたし、粗末な奴隷服だったから気づかなかったのだが、漂う品の良さは貴族の娘か高級娼婦を思わせた。
白い肌、唇はまるでスグリの実を思わせるように赤く艶やかだ。そして目を合わせた相手を、一瞬で魅了してしまう濡れた大きなグレーの瞳。
奴隷服の下には、眩いばかりの宝石が眠っていたようだった。
「お前は本当にあの奴隷か?」
問う必要などないはずなのに、思わず口をついて出ていた。それほど娘の変わりように驚いた。
「はい、ご主人様」
「名は?」
「フィーアと申します。歳は今年で十八になります。旅の一座でリュートを弾いておりました」
緊張しているのか、それとも空腹のせいで声が出ないのか、娘は弱々しい声で答えた。
奴隷商に立ち向かっていた勢いは、全くなかった。
確かに上玉だ。奴隷商の言っていたとおり、金貨五十枚でも安いくらだ。
「さぁ、召し上がれ」
娘をエルンストの対面に座らせると、パンとスープの皿をフィーアの前にヘレナが置き、彼女はフィーアの隣に座る。
「私は奴隷に詳しくはないし、こんな間近で奴隷を見たのも初めてなのだけれど、あなたみたいに品のある子は初めてよ」
フィーアはゆっくりとスープをすする。
「このところの噂だと、若い娘をさらって奴隷にしてしまう輩もいるそうだけど、まさかあなたもそうなの?」
フィーアは答えない。
やはり罪を犯しているのか。エルンストは立ち上がった。
「俺の部屋でゆっくり話しを聞こう」
そしてヘレナに、娘の食事がすんだら部屋に連れてくるように言いつけると、食堂を後にしたのだった。
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