第10話 不透明な未来 1

 奴隷の娘・・・。

 今頃は下男によって、馬屋へと運ばれただろう。

 

 エルンストは再び自室でワインを飲みながら先ほどまでの出来事を回想していた。

 どうにも後味の悪い結果だったが、ヘレナには逆らえない。逆らいたくなかった。ヘレナを悲しませたくなかった。


 馬番のカールに、娘に手を出すなと一言釘を刺しに行こうかと考えて、一度戸口まで行きかけて――、やめた。

 無力感がエルンストを縛っていた。

 自分の考えがすべて正しいとは思わない。けれど正しいと思ったことをやろうとしても、大多数に阻まれる。

 これはまつりごとにも言えたことだった。


「皇帝にでもならなければ、ことは解決しないな」


 自分は野心家ではあるけれど、反逆者になるつもりはない。

 ソファーに深く体を沈めると、目を閉じた。

 

 それにしも不思議な娘だった。

 華奢な体に鞭打たれ血を流していながら、命乞いをしなかった。それ以上に奴隷商人を見つめるあの瞳は何だ。

 奴隷はほとんどが死んだ魚の目をしている。暗く淀みドロンとしたあの目は己の意思を持たない現れだ。

 だが娘の目は違っていた。しっかりと奴隷商人を見つめていた。

 奴隷となって日が浅いからなのか?自我をまだ失っていないだけだったのか。

 分からない。


 しかし、奴隷を買うなどべーゼンドルフ家始まって以来の不名誉・・・いや珍事であることには違いない。親父も草場の影で怒っているだろう。


 自嘲気味に笑うと、グラスに残ったワインを一気に飲み干した。


 べーゼンドルフ家はカールリンゲン帝国において名門だ。五爵位ある中で二番目にあたる侯爵を賜っていた。

 エルンストは皇帝付き騎士団の団長を拝命していたが、団長職は世襲制で、代々武門の誉高いこの名家が務めている。エルンストで六代目だ。

 

 母は六歳の時に、弟の出産の肥立ちが悪く命を落としてしまっていた。その弟も産声を上げてから数日後に感染症で短い人生を終えた。

 父は後妻を取ることもなく、当時若き侍女だったヘレナにエルンストの育児を任せ、国境線でいざこざが絶えなかったシュタインベルグとの戦にあけ暮れていた。

 そんな父もエルンストが騎士見習いをしていた十三歳の時に、シュタインベルグとの大きな戦で敵の手に落ちた。


 ヘレナはエルンストにとって育ての母だった。他人でありながら、本当の母のように彼女を慕っている。唯一心を許せる女性だったし、ヘレナを母として愛していた。

 加えて自分のせいで、ヘレナが結婚出来なかったと思っている。そんな負い目もあり、ヘレナを大切にしたかった。

 

 若くして地位を得たが、当主とは面倒なものだと感じている。

 やれ家柄だの名家のしきたりだの、後継ぎだの苦痛なものばかりだった。


 おまけに父親の代から執事として仕えているコンラートは何かと口うるさい。


 先日も『ご主人様は御年二十四であらせられます。いい加減奥方様をお迎えになりませんとな。御父上が同じ頃にはすでにご結婚され・・・』延々、講釈された。


「口を開けば結婚しろだ」吐き捨てるように呟いた。正直うんざりしている。


 女嫌いでも男色家でもないのだが、一人の女性を愛することが自分には出来そうにないと思っている。

 毎晩とは言わないが、妓館ぎかんで娼婦を抱くこともある。


 そんなところがコンラートには不満らしかった。


『理想が高いのではございませんか?』

『理想とは?女の美貌のことを言っているのか、それとも教養を指しているのか?それとも家柄か?』

『すべてでございます。美しく教養の高いご婦人はこの国にはおりませんか?何故妓館などへ行かれます』

『お前も男なら、野暮なことは聞くな』

『結婚が面倒なのでございますね』


 呆れたようにコンラートは首を振っていた。


 コンラートは娼婦を馬鹿にしているようだが、娼婦にはそれなりに教養の高い女性も多い。

 いわゆる売春宿とは違うのだ。

 音楽や芸術を深く熟知し、エルンストより詳しい者もいるし、見事にリュートや竪琴を弾くものもいる。風流をたしなみ趣味の良い女性や、政治経済に明るい女性も多い。

 貴族の愛妾になる娘もいるくらいだ。


「俺にとって結婚は及び難い行為だな。べーゼンドルフ家も俺の代で終わりか」


 コンラートが聞いたら気絶しそうな不吉な言葉を吐くエルンストだった。

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