騎士団長は奴隷女を愛してやまない
月夜野楓子
第1話 奴隷の女 1
死は
それが今であってもいいと思う。後悔などないし、生への執着もないと思っている。今ある苦痛から逃れられるのであれば、すぐにでも自分でその時計を止めてしまいたい。
頭上には赤々と太陽が燃えている。眩しすぎてその全形が見えないほどの光だ。
歩きながら足元に影が出来るように、フィーアは素足に絡まる砂利を見つめた。足の指に小さな石が入り込み爪が割れて痛む。
まだ自分の体には血が流れていたのだと、指の間を流れるどす黒い液体を見て思う。それすらも枯れてしまうのではないか。
それほど、体は渇きを覚えていた。
手も足も水分を失い干物のように骨が浮きあがっている。
飢えに耐える日々はもう何日も続いていた。朝方までいた村で取った食事は、拳ほどの小さなパン一つだけだった。水は途中の小川で飲んだ。顔を突っ込み胃がはち切れるくらい飲んだ。
けれど、それらは一瞬でフィーアの体から霧散してしまった。
今日は特に暑い。全身が燃えるようだ。
「おらっ、ここで少し休憩だ」
小太りでお世辞にも紳士とは言い難い奴隷商人の声で、奴隷たちは小さなため息を漏らすと、街道から少しそれた所に円陣を作ってしゃがみ込んだ。
遮るものは何もない。丸めた肩が火傷したようにひりつく。
奴隷は総勢子供を含めて男女十人ほどだ。
両手を縄で縛られ、互いの腰と腹を鎖で繋がれていた。歩く時は一列になり、休む時は一列のまま座るか、円陣を組むかだ。全員で同じ行動を取らなければすぐに転んでしまう。当然全員で走って逃げることなど出来ない。
奴隷商の男は一人木陰に向かいそこに座り込むと、腰にぶら下げていた羊の胃袋で作られた水筒から水をゴクゴクと飲んでいる。
それを奴隷たちは物欲しそうにじっと見つめる。
「お母さん、あたしも水が飲みたい」
訴えられた母親は力なく首を振った。
「アーデル、もう少し先に小さな町があるわ。そこまで我慢しましょう」
母親の代わりにフィーアが答えた。アーデルはまだ五歳にも満たない。大人と一緒に鎖につながれ同じ距離を歩いているのだから、驚きと言うより切なくなってくる。
泣きもせず、あまりにも健気だ。
「フィーアお姉ちゃん、それは本当なの?」
「うん、私は鎖につながれるまで、色々な土地を旅したことがあるの。私の記憶が間違っていなければ、この先に小さな町があるはずよ」
決してアーデルを喜ばせるためのハッタリなどではなかった。フィーアは奴隷に身を落とすまで、諸国を旅していた。
「あんた、どこかのお嬢さんだったのかい?」
二人の会話を聞いていた初老の奴隷男アンゼムが会話に加わる。
「諸国漫遊なんて、庶民にはかなわない夢じゃて」
「・・・旅の一座にいたわ」
「ほー、じゃああんた何か芸ができるのかな?」
「ええ、リュートを弾ける」
「見る限り、今は汚れて骨と皮だけじゃが、きっと綺麗な指をしとるんじゃろうな。その指で奏でる音楽を聞いてみたいものじゃ」
ふふっと笑いながら、アンゼムは空を見上げた。その姿は何かを回想しているように見える。
「アンゼムは元々宮廷に仕えていたらしいわよ」
隣で道端の草を口に入れては、まずそうにペッと吐き出していたベルタが小声で教えてくれた。
「何でも、公金横領の罪を着せられて奴隷になったんだとさ。本人は無実だと言っているけどね、奴隷なんて嘘つきも多いのよ」
フィーアにはアンゼムの過去が嘘だとは思えなかった。麻袋に首と腕の穴をくり抜いただけの奴隷服を着てはいるが、どことなく品の良さを感じられたから。
突然、フィーアの耳に空気を切り裂く音がして思わず身構えてしまう。
「話は終わりだ。そろそろ行くぞ家畜ども」
奴隷商が鞭を振るったのだ。
奴隷たちは無言で立ち上がると一列になり、ゆっくりと歩き出す。すると最後尾につながれていたアーデルが泣き出した。
どうやら飢えと渇きの限界に達したらしい。大人でも辛いのに、小さな子供だ当然だろう。
「うるせえガキめ。ここに置いていこうかっ」
イライラした様子で奴隷商はアーデルの背に鞭を打った。
「やーっ!!」
幼女は更に激しく泣き出した。それが奴隷商をいっそう苛立たせてしまった。
「足手まといのクソガキっ!ここで殺してやるよ」
奴隷は家畜の扱いなので殺しても罪にはならなかった。奴隷商はアーデルの首を掴むとギリギリとしかしゆっくり締めあげ始めた。
「やめてっ!!」
叫んだのは母親ではなく、フィーアだった。
「どうして子供を平気で殺そうとするのっ!」
地面に崩れ落ちるアーデルに駆け寄ろうとした瞬間、ガチャガチャと鎖がすれる音がした。それと同時にフィーアとその前後につながれている奴隷たちが一斉に転んでしまった。
「バカめ」
薄ら笑いを浮かべながら、奴隷商は地面に広がったフィーアのハニーブラウンの髪を踏みつけると、つま先をぐりぐりと動かした。
「つっ」
「お前のせいで大切な家畜どもが転んじまった。謝らなくちゃなぁ」
薄汚れた革の靴が、フィーアの顔を地面へと押し付けた。
「も、申しわけありません。ご主人・・・様。ですがアーデルは・・・」
「あん?」
フィーアはアーデルが好きだ。小さいのに我慢してこの苦痛しかない工程を一緒に歩いているのだ。死にたい死にたいと思いながら、彼女の健気さが自分に生きる勇気を与えてくれていたのだった。
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