第13話 伊井野瑠衣という女の子
「天野……!?」
「あいつ……良く学校に来れたな……」
「天野さん、何か様子おかしくない……?」
僕は伊井野から視線を外し、教室の出入口に立つ天野を見やる。
さすがの伊井野も驚いたのか天野の動向を見つめている。
教室の誰もが微動だに出来ずにいた。
あの天野の友人達でさえ。
それだけ彼女の様子がおかしかったからだ。
天野の制服は薄汚れ、綺麗にキューティクルでコーティングされていた髪の毛は見る影もない。
自慢のネイルも無惨に剥がされ、血が滲んでいた。
簡潔に言えば、暴行をされた後……だろうか。
「……」
天野はただ何も言わず僕の方へと近寄って来た。
あまりにも悲惨な姿に僕は固まってしまう。
「……天野……お前に一体何が……」
「……」
彼女は何も答える事なく、僕の目の前で立ち尽くしている。
そして──
「お、お前なにやって……!?」
天野は制服のシャツのボタンを外しながら僕の体に抱き付いてきた。
「……あたし、伏見に許して貰う為に来たの。何でも……するから……どうか……」
「ちょ、お、おい、話なら聞くからとにかく離れろって!」
「だ。だめ……!じゃないとあたし、殺されちゃう……!」
その顔からは本気で焦っている事が伝わってきた。
一体こいつに何があったんだよ……?
僕はとにかく天野を引き剥がすように両肩を抑えた。
こんな時でも露になった胸の谷間に視線が行ってしまうんだから、男というのは悲しい生き物だ。
「あたし、あたし……このままじゃ……!」
「どうしたんだよ……」
「お願い……許して伏見……じゃないとあたし……晃史君に殺されちゃう……!!」
大泉晃史、そいつの名前が出た瞬間、僅かに伊井野の肩が震えていた気がした。
※
──放課後。
「天野さん。大丈夫かな」
「……さぁ」
あの後、天野は僕の体にしがみついたまま意識を失った。
さすがに放置しておく訳にもいかないので、天野の友達に彼女を預け、保健室に連れて行って貰った。
接近して分かったが彼女の首より下には何箇所にも痣が出来ていた。
一体昨日僕が体育館から去って何があったのやら……
「天野さんの事、心配じゃないの?」
今日は午後から雨が降っており、二人で分け合った傘の半分を使う伊井野が僕の顔を覗き込んでくる。
ずっと会話の機会を伺っていたが、伊井野の方から「傘、忘れたから入れて」と言ってきたのだ。
本当にこの女は何を考えているのか分からない……
「聞いてる?」
「! き、聞いてる。天野ね。一体どうしたんだろうな。心配心配」
「ふーん、あんな目に遭わせられたのに優しいね」
「人並みの心配だよ。伊井野だってそうだろ?」
「私は……」
伊井野は少し俯いた後冷たい声で言った。
「私が伏見君の立場なら絶対心配なんてしないかな」
「そ、そうか。でも──」
そもそもはお前がクラスの皆に配信を流したからじゃ……
……いや、そう思うのはいくらなんでもお門違いだ。
伊井野が居なきゃ僕は天野に良いように利用されて終わりだった。
今みたいに近藤君や安政さん達と関われるようにはならなかったろう。
一週間──いやもう10日程前か。
あの時伊井野が「伏見君、君彼女に捨てられるよ」と伝えに来てくれたから、今僕はここに居る。
伊井野には感謝してもしきれない。
僕をいつも影から助けてくれる、言葉や態度は冷たいけど優しい女の子。
……それが伊井野瑠衣という女の子の筈だ。
「でも?何?」
「……」
僕はもっと伊井野と仲良くなりたい。
僕を救ってくれた女の子のもっと側に居たい。
そんな気持ちを恋と呼ぶのかどうかは分からない。
これを恋と呼ぶなら、この恋に踏み出すには、どうしても必要な事がある。
気が付くと僕らは河川敷まで帰って来ていた。
視界に入る川はいつもより濁り、荒々しく流れている。
僕は以前二人で座ったベンチの前に立ち止まる。
ベンチは雨に濡れているから立ったまま。
僕のすぐ隣で綺麗な顔を覗かせる伊井野に、教室で聞けなかったあの言葉を口にした。
「……伊井野。もう一度聞くよ。どうしてあの配信をクラスの皆に見せたんだ?」
伊井野は一切表情を変える事なく答える。
「前にも言ったじゃん。天野さんに伏見君が利用されるのが嫌で──」
「……本当か?」
「……どうして疑うの」
伊井野は僕から目線を逸らし、下を向いた。
肩が触れ合う程に近くに居るのに、彼女との心の距離は随分遠くに感じる。
僕は伊井野が濡れないように傘を彼女の方へ傾けて話した。
「ただの勘だよ。本当に。ただ……あまりにも綺麗に今日まで来れたと思ってさ……僕は誰かに利用されたんじゃって……」
僕が今この瞬間を迎えるのに、伊井野は必要不可欠な人間だ。
言い換えれば伊井野が居なければ僕はあんなに追い込まれる事は無かった。
いや、決闘騒ぎは僕が起こした事だ。伊井野には関係ない。
自分の計画とは違う事が起こったから伊井野はあれ程怒ったのかも知れない。
つまり──
「なぁ……伊井野は天野に何か個人的な恨みでもあったのか……?」
女の骨肉の争いという奴だ。
例えば誰かを天野に取られた、とか。
伊井野は傘の下で短く呟いた。
「いや、そんなに」
「だ……だったらどうして……!?」
「……はぁ……まぁ最初から言うつもりだったからいっか」
「……伊井野……?」
伊井野はぴょん、と傘から飛び出て雨にその小さな体を晒した。
一瞬で彼女の体に薄い制服のシャツが貼り付いていく。
「お、おい!」
伊井野は雨に濡れたまま冷たい笑顔を僕に向けた。
「伏見君は私の事好き?」
「えっ……!?」
あまりにも唐突な質問だ。
僕は体温が熱くなるのを感じながら言葉を紡ぐ。
「い、いや……その、好き、は好きだと思う……けど……これが恋なのかと聞かれると……」
「そう。私はね、好きだよ。伏見君の事」
「!」
あくまでも淡々と告げる伊井野。
僕は今好きだと言われたんだ。あの伊井野に。
僕を二度も救ってくれた、僕の女神に。
……なのにどうしてだろう。
「……なんでそんな悲しそうに笑って好きだなんて言うんだよ」
「……私には伏見君を好きになる資格が無いから」
「そんな事……!」
伊井野は自らの体を抱き締めて、僕の瞳をじっと見つめた。
「私は嘘つきなの。正しくない人間なの。きっと伏見君は私の事を知れば私から離れていく」
「……っ。そんな事ない……!僕は……僕は伊井野に──」
「私は……!!」
伊井野は震えながら出した声で僕を睨んだ。
それはもう自分に近寄るなと言っているようで、僕は伊井野の言葉を遮る事が出来なかった。
そして彼女は一筋の涙を流しながらはっきりと告げる。
「私はね……大泉晃史と付き合っていたの。精神は彼の正しさに貪られ、この肉体は彼に何度もなぶられた」
「……」
「それでも私は彼の為に必死に尽くした……なのに彼は私を捨てた……絶対許さない。私はあの男が幸せになるのを許容しない。その為なら何だって利用する。ねぇ、伏見君──」
僕は何も言えずにただ立ち尽くしてしまう。
傘を落とした事にも気付かずに。
伊井野は傘を拾って僕に差し出した。
冷たい微笑みを携えたまま。
「ねぇ、伏見君。こんな私を好きになれる?」
言い掛けた言葉は喉元で詰まっては沈んでいく。
ようやく声を絞り出した時、伊井野瑠衣は雨粒の中に消えていた。
「……っかんねぇよ。ばか伊井野……」
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