触れられない者たち

石谷 弘

触れられない者たち

 人さらいの目が離れた隙にと、月明かりの下、壊れた配管から白く吹き上がる蒸気をくぐって次々に人影が現れては実体を取り戻していく。

 廃工場裏の狭い通路に集まった観衆の視線を得て、まず降り立ったのはやつれた顔の若い女。手枷のハメられた初老の男がそれに続く。

「アンネット。やっぱり、ここにいたのね」

 女の両親だろうか、ふくよかな壮年の男女が涙を流しながら三人で抱擁する。

 少し視線を上げると、先に人としての姿を取り戻していた青年がペストマスクで顔を隠した人さらいたちに組み伏せられている。その途中には、青年が実体を取り戻した際に持っていたリンゴが転がる。人さらいは一口かじられたそれさえも、大事そうに袋に回収していく。

 組み伏せられた青年に人さらいの親玉が注射器を持って近づく。足元には口の割れたアンプルがひとつ。

 あと一歩まで迫った時、組み伏せられていたはずの青年が急にくるりと身を反転させ、半透明の銃口を向けてにやりと笑う。押さえ込んでいたふたりが慌てて自身を確かめるのを満足気に見ながら、裏道の闇へと溶けていった。

 残されたふたりが互いをなじるが、実体を確かめた以上、次に取り返せる機会がくるのは一年は先だろう。

 人さらいの親玉は屋根の上の指示役を見上げると、注射器を投げ捨てて蒸気の吹き出し口へと駆け出していく。

 彼らの戻る先では手枷の男が残っていた人さらいと揉み合っている。どうやら百年前の革命時にギロチン台の上で消えた役人だったらしい。隣ではアンネットと呼ばれた女が両側から抱かれながら、その場を後にしようとしている。その後ろを実体に戻ったばかりのボロをまとった少年少女が手を繋いで駆け抜けていった。

 この街でしか見られない不思議な現象は、それ故に表向きには伏せられ、実体を失った「触れられない者」は数年で失踪者として死んだものとされる。世間から切れた「触れられない者」は研究対象や見世物として欲しがる人が多く、肉親を人さらいの的にされないためには先に見つけるしかない。

「みんなお前を待っているんだよ、アンネット」

「あなたがいてくれないと困るんだよ」

 両側からかかる優しい声にアンネットは小さな悲鳴を上げ、身を固くする。どうしたんだいと聞く声に返事もしないまま、通りから差し込むガス灯の光の中に消えていく。残されたふたりからは聞くに堪えない暴言が垂れ流され続けた。

 再び手枷の男を探そうとした時、場に銃声が鳴り響く。驚いたのか赤子の泣き叫ぶ声が後を追う。見れば、手枷の男が足から血を流して倒れ込んでいる。多くが自分の存在を自在に操れてしまうほど不安定な、実体化直後を狙って捕らえるには意識か思考を奪うのが一番だ。薬とは違い、死なせてしまう可能性も高いが止むを得まい。

 これで人さらいにも収穫があったかと思ったその時、観衆の中から長い棒を持ったガス灯の点消士の男が飛び出し、手枷の男に駆け寄る。呼びかけながらその手を取り、肩をさする。

 観衆から「こいつも関係者か」「子孫なら捕らえるか」と疑念の声が漏れる中、急に二人とも存在を失っていく。

 ちっ。

 思わず舌打ち。まさか、まだそれだけの意識が残っていたなんて。

 だが、実体を失ったところであの大怪我だ。永遠に動けないのなら、探すことも容易かろう。

 視える質である人さらいの頭に長い指を垂らして指し示し、探させる。ただ視ることができるだけのうすのろだが、他に俺と連絡の取れる奴がいないのだから仕方がない。こちらも義手にしろ、生活費にしろ金がなければ人の世に戻れない身の上だ。

 俺も探そうと細い通路の上を漂っていると、突如身体をかき回される感覚に襲われて、思わず両腕を上げる。次の瞬間、腹の下から小さなハンマーの頭が付いた棒が細かく円を描きながら現れた。

「お久しぶりです。姉さん」

 声と共に点消棒の硫黄の臭いが実体のない鼻孔に届く。腕の中では赤子が一層激しく泣きむせぶ。

 弟。革命の時、牢の中で「触れられない者」となり逃げ失せた俺とは違い、処刑台へ送られたと思っていたのだが、手枷の男と同じように逃れていたのか。

 人としても三十年は生きているだろうか。大きな背中にはなんの面影もない。

 ともあれ、あれは敵らしい。

 下では地面との激突前に男の実体が消えるのが分かった。

 獲物を奪ったのはこいつか。

 苛立ちながら、乱されぶちまけられた肉のない身体をゆっくりと引き戻していく。

 頭の中で、突然縄をかけられた幼い日の記憶が、強風に流されて霧散しかけた記憶が、カードのイカサマがバレて右手を落とされた記憶が、名もない乳飲み子を抱えたまま再び「触れられない者」となってしまった日の記憶が蘇る。

 いや、走馬灯を流している場合ではない。あいつはすぐにも戻ってくるだろう。身体を元に戻すのは間に合わない。あとは手練手管を弄するしかない。

 腹を括ると、最期の数秒間と思考を巡らせる。

 仰向けになった視界に男の身体が現れた。

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触れられない者たち 石谷 弘 @Sekiya

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