第8話

 時の流れは早いもので、あの怒涛の数日から一月がたった。

 まるで全部が夢だったかのように、以前と同じ代わり映えのない日常が繰り返されている。が、陽介が忙しくも楽しそうに仕事に精を出す一方で、俺はそんな陽介に言い様のないイライラを感じてどこか割りきれずにいた。

 電話帳に残る久遠あずさの名前を削除すべきかどうか迷い始めた頃、『ランチしませんか?今度はお休みの日にゆっくりと』と、メッセージが届く。


 仕事のない土曜日の正午すぎ、久遠あずさがおすすめだと言うカフェで簡単なランチを済ませたあと、公園を宛もなくふらふら歩く。

「ガパオ、うまかったな。パクチー入ってないってもっと早く知りたかったわ。タイ料理は避けてたから」

「ふふ。新しい発見ですね。それならパッタイもおすすめですよ。あのカフェにはなかったけど、焼そばみたいな感じです」

「なるほどね。覚えとく」

 晴天の昼下がり、まわりは親子連れやカップルで賑わっている。ちりりんとどこかで自転車のベルの音が鳴る。

「……今日、断られるかな?ってちょっと思ったんですけど」

「なんで?」

「桧山さんは陽介の友達だけど私の友達じゃないから」

「あー」

 なんと答えるべきか考えあぐねていると、構わず久遠あずさが続ける。

「最初から不思議だったんですよね。なんでこんなに親身になってくれるのかなって」

 陽介と同じことを問う。

「陽介の友達だけど、ずっとわたしの味方してくれた」

 が、その目にこもる疑念の色が陽介のそれとはまったく違うことが見てとれて、俺の気持ちがすっと凪ぐ。

「まぁ……」

 ほんの少しの躊躇いも一瞬で過ぎた。

「久遠さんと結婚しなくてもさ、そのうち誰かと結婚するわけじゃん、あいつ」

「……一生独身って可能性もありますよ?」

「そうだけど、同じくらいの確率で突然どこの馬の骨ともわかんないとんでもない女と結婚しそうなんだよなぁ。むしろその可能性の方が高いんじゃないかとすら思ってる」

「ああ」

 久遠あずさが同意してふふっと笑う。

「衝動的なとこありますからね、あの人。ありえる。ありそう。むしろ本命」

 久遠あずさのその軽やかな調子に、俺への気遣いがにじむ。少しだけ、誠実に向き合いたいと心がうずく。

「ふたりはさ、付き合い長かったわけじゃん。俺なんかよりずっと」

「そうですね」

「積み重ねてきたものがさ、その量が違うって。それはもうさ、仕方ないって割りきれるんだよ。そりゃ何があったって、誰だって敵わないよなって」

 誤魔化さず、かといって全てを明け渡すのはためらわれて瀬戸際の言葉を探る。

「はい」

 久遠あずさの短い返答から、こちらの気持ちがきちんと正確に伝わっていることがわかって安堵する。

「そういうことよ。別に久遠さんの味方ってわけじゃないよ、俺」

「はい。……わたし、もうちょっと頑張ればよかったですね?」

 久遠あずさがおどけたように言う。

「ほんとだよ。がんばれよ。なにやってんだよ」

 わざと悪態をつくようにそう言い放つ。

「えー、そっかー、頑張れば良かったかー」

 そう言いながらベンチに座るので俺も隣に腰を下ろした。

「まぁ、頑張ってどうにかなるもんじゃないけどな。人の気持ちなんて」

「もー、それを言ったらおしまいです。……でも、これからも人の気持ちと向き合わなきゃなんですよね、また新しく恋愛するなら。実際ちょっと不安です。不安って言うより恐いのかな」

 久遠あずさが小さくこぼす。

「大丈夫だよ。久遠さん、良い女だから。心配ないよ」

「あ、意外。そんな風に言ってくれるなんて!ちょっと!あずさ感動なんだけどぉ!!」

 久遠あずさがこれでもかと目を丸くして大袈裟におどけて見せる。

「はは。誰だよ。ってか、そのくらい言うでしょ。俺のことなんだと思ってんの」

 十二年の恋を失ったばかりとは思えない久遠あずさの表情豊かな振り切り方に思わず顔を伏せて笑ってしまう。すると、

「……良い男だと思ってますよ」

 至極真面目な声が降ってきて、はっとして顔を上げた。

先程まで横に座っていた久遠あずさがいつの間にか俺の前に立っている。真っ直ぐに目を見据えて。ふいを突かれた俺は何の言葉も発することができない。

「良い男です。桧山さんは。ものすごく。だから……大丈夫です」

 そう言って今度は柔く笑んだ。いつかのように。

 ふっと、肩の力が抜ける。ずっと頑なに閉じて、行き場をふさいでぎゅうぎゅうに詰め込んでいた気持ちの周りに小さな逃げ道が生まれる。そこで初めて、今までがどれだけ窮屈だったのかを知る。だからといって何が変わる訳じゃない。きっと何も変わらないだろう。それでも。

「まぁね」

 軽く言って天を仰ぐ。長く続いた梅雨が明け、よどみのないまっさらな空間が広がっている。

「しょうもない!所詮、たかが恋、だろ」

 あえて声にしてみる。放り投げるように。

 空を見上げる俺の顔を上から覗き込みながら、久遠あずさがすかさず言う。


「されど恋、ですけどね」


〈了〉

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