絶対的ドーパミン欠乏性ドライブ

渚 孝人

第1話

もう限界だった。彼女はそっとベッドから起き上がった。彼女の髪は乱れ、心臓はやけに早い鼓動を打っていた。部屋の時計を見ると時刻はすでに22時を回っていたが、朝までにはまだ長い時間があった。そして、彼女はそれまでぐっすりと眠ることなど到底出来そうになかった。それほど彼女の心は限界に追い込まれていたのだ。彼女は居たたまれなくなって、車のキーを手に取ると部屋から出た。ドアを開ける時に振り返ると、夫と子供はベッドで心地の良い寝息を立てていた。


アパートの階段を下りながら、彼女はボサボサになった髪をゴムで結んだ。車に乗り込む時彼女は、

「事故だけは起こさないようにしよう。」と自分に言い聞かせた。

今の自分の精神状態であれば、何が起こっても不思議ではない。彼女は暗い車内の中で、しばらくの間心を落ち着かせようとした。でも取り留めのない想いは、次々に心の中に浮かんできた。


現代人の多くは人生のあるポイントに差し掛かると、これから先の未来が見えてしまったような気持ちになるのではないかと彼女は思った。つまり予期せぬ出来事がなければ、これからゆっくりと老いて衰えて行く過程にあるということ。絶望という言葉を安易に使うのは良くないけれど、それはある意味では絶望に似た気付きだと言えるかも知れない。その地点は彼女の推定では、20代後半から30代に訪れる。仕事を始めて、結婚して、子供ができてとか丁度そのくらいの時期だ。

その時期になると多くの現代人は気付いてしまう。自分自身にこれ以上の飛躍的な成長が見込めないことに。そんなことはない、人はいつだって成長できるという人もいるだろう。彼女はそんな風にポジティブになれる人が羨ましかった。20代前半までの彼女もそんな風に前だけを見て生きてきた。でも30歳を過ぎて、家庭を持って、気付いたら色んなことが怖くなっている自分がいた。何らかの突発的な出来事で、今の幸せなんて簡単に失われてしまうのではないかと。


突き詰めて考えてみれば、死はいつだってどこにだって存在する。毎日のようにテレビやネットニュースに流れる悲惨なニュースは、その現実を嫌と言うほど教えてくれる。どれだけしっかりと目を閉じて耳を塞いでいたとしても、情報過多になった現代社会は彼女を逃がしてはくれなかった。

現実から逃げようとする人は一体どこへ行くのか?答えは簡単だ。自分の欲求を満たすことに集中して他のことを考えないようにするのだ。彼女の場合はSNSで承認欲求を満たすことが答えだった。


数年かけて、彼女はあらゆる種類のSNSにのめり込んでいった。友達やそのまた友達、果てには赤の他人と言ってもいい人まで彼女の投稿にいいねをくれるようになった。通知を見るたびに、彼女の脳内ではドーパミンが大量に分泌され、脳内報酬系を異常に活性化して行った。そして彼女は一時的に恐怖を忘れることに成功した。あくまで一時的にだが。しかし彼女は気付いていなかった。赤の他人のことを気にしているうちに周りの大事な人をないがしろにしていたことに。


そしてある年の夏の終わりに、彼女ははたと気が付いた。自分が家事も育児もそっちのけで一日中スマホの画面ばかり眺めているということに。部屋は散らかり、料理は出前やコンビニばかり。子供は泣き、夫は家にあまり帰らなくなっていた。

彼女はリビングルームの床に座り込んで、呆然としたままつぶやいた。

「私って、最低な母親…?」


苦渋の決断だったが、彼女は泣く泣く全てのSNSのアカウントを消去した。一つ一つのアカウントを消すたびに、まるで心をえぐり取られるような気がした。大げさな表現ではない。本当にそう感じたのだ。全てのアカウントを消し終えた時彼女は誓った。これからはまともな人間になろうと。


でも物事はそんなに上手くは進まなかった。長年の間に異常に分泌されたドーパミンは、知らず知らずのうちに彼女の脳内のドーパミン受容体をぶっ壊していたようだ。その結果起きたこと、それはドーパミンの絶対的な欠乏状態だった。意欲が急激に低下し、日中はソファーに座り込んだまま立ち上がれなくなった。まるでオズの魔法使いに出てくる、油の切れてしまったブリキの木こりみたいに。きっと私にとってのドーパミンは、彼にとっての油みたいなものだったのだと彼女は思った。そして夜になると漠然とした不安が彼女を支配した。いつ訪れるとも知れない事故や病気の妄想が、次々に浮かんでくるようになった。彼女はそこから逃れようとして酒ばかり飲んだ。


そして9月の終わりの夜に彼女は気付いたのだ。もう限界だと。もとの生活には戻れない、でも今の生活を続けたら私は壊れてしまう。彼女にはどこにも行き場所がなかった。だから彼女は決意したのだ。この絶対的ドーパミン欠乏性ドライブを。


車のキーを回してエンジンをかけると、彼女の深い青色をしたSUVは夜の街中へと走り出した。目的地なんてなかった。ただあてもなく走ること、それしか彼女には出来なかった。心はドーパミン欠乏が作り出した実態の無い深い憂鬱に支配されていた。アクセルを踏み込むことも出来ず、彼女の車はノロノロとひと気のない道路を進み続けた。


赤信号で止まると、その地方都市のネオンが一つまた一つと消えゆくのが見えた。ここは歌舞伎町ではない。もうみんな寝る時間が近いのだ。そして彼女の頭もぼんやりと感覚を失って行った。まるで周りの全てがもやに包まれているように見えた。これもドーパミン欠乏が作り出した幻覚なのだろうか。

彼女の車の横を、赤信号を無視した二人乗りのオートバイが猛スピードで通り過ぎて行った。派手なクラクションを鳴らしながら。ガタイの良い男と金髪の女。あまりにも速かったせいで顔は良く見えなかった。あんな風に周囲のことを何も考えないで生きられる人は気楽なんだろうな、と彼女は思った。でもそれは、残念ながら彼女が言えるような事ではなかった。


彼女は目についたコンビニに立ち寄り、大量のホットスナックとコーヒーを買った。鬱状態にある人間は、とにかく猛烈に腹が減ることがある。その時の彼女がまさにそれだった。車に乗り込むと、彼女はわき目も振らずにそれらを食べ続けた。のどが詰まりそうになるとコーヒーで流し込んだ。

気が付くと彼女は車のシートを倒して眠り込んでいた。コーヒーを飲んだせいか目覚めは思ったよりはっきりしていた。ディスプレイに表示された時間を見ると夜中の12時過ぎだった。


彼女はまた車のエンジンをかけ、街を過ぎて郊外へ出た。しばらく眠り込んだせいか、もう彼女の頭は何も考えられなくなっていた。ただ流れていく景色と信号を見ている、それだけの状態。そうだ、映画のワンシーンでよくあるあれにそっくりだ。全てがスローモーションで流れて行く。主人公はそれをただ見つめている。

車のラジオから、ノラ・ジョーンズが歌う「Don't Know Why」が流れていた。通り過ぎる信号は、まるでその歌声に合わせるかのようにゆっくりと点滅した。前から好きだったけど、こんなにいい声だったっけ?と彼女はぼんやりと考えていた。


気が付くと彼女は海沿いを走っていた。彼女はまるで吸い寄せられるかのように、真っ暗な海の方へ向かった。彼女はSUVを路上駐車して外へ出た。見つかったら怒られるのは分かっていたけれど、その時の彼女にはそんなことを気にしている余裕はなかった。彼女は靴と靴下を脱いで砂浜に入り、おぼつかない足取りで波打ち際へと進んだ。


でも海の30メートルくらい手前で、彼女は急に貝殻のようなものにつまづいて砂浜に倒れ込んだ。全身はべっとりと砂にまみれた。彼女はその場に座り込んで、泣き始めた。最初は今の自分の惨めな姿に泣いているのだと思っていたけれど、そのうちに全然違うことに気が付いた。彼女は自分の不甲斐なさに泣いていたのだ。ずっとエゴに支配されて生きてきて、これからもエゴに支配されて生き続けようとしている自分に。

左斜め前の方ではしゃいでいた20代のカップルは、彼女の泣く声を聞いて怪訝な顔でこちらを見つめていた。でも彼女は泣き止むことが出来なかった。もう何とでも思えばいい。どうせ私はイカれているのだ。


そのうちに雨がポツポツと降り始めて、カップルは上着をかぶって小走りで戻って行った。夜の砂浜には彼女だけがポツンと残された。それでも彼女は立ち上がろうとしなかった。というよりは立ち上がる気力がもうなかった。雨足はだんだんと強くなった。


彼女の中のエゴが、いつものようにドーパミンを求めて叫び声を上げた。誰かに気付いてほしい、慰めてほしいとエゴは強烈に訴えた。普段ならスマホを取り出してすぐさま欲求を満たすところだったが、その時はどこにやったのか全く記憶がなかった。だから彼女は放心したように座り込んだまま、冷たい雨に打たれ続けていた。そのうちに何もかもがどうでも良くなった。このままここで野垂れ死にした方がむしろ楽かも知れないと彼女は思った。


でもしばらく雨に打たれているうちに彼女は、不思議なことに気が付いた。自分なんてどうでも良いやと諦めたら、何故かいつもよりずっと楽になっていたのだ。そしてそこには夜の砂浜に立って、自分の惨めな姿を見つめるもう一人の自分の存在があった。そのもう一人の自分は驚くほど冷静に、そして客観的に彼女を見つめていた。


私を見ている、もう一人の私がいる。この不思議な感覚は、一体なに?


雨は彼女の頬をつたい、着ていたTシャツとジーンズをぐっしょりと濡らして行った。それが涙なのか雨なのか、彼女にはよく分からなかった。髪は糊でくっつけたみたいにぴったりと顔に張り付いていた。Tシャツをしぼると、まるで雑巾みたいに水が零れ落ちた。雨って、プールから上がったあとの冷たいシャワーみたいだと彼女はふと思った。

その時、彼女は思い出した。雨をシャワー代わりにして、一斉に体を洗う発展途上国の人々の映像を。実は子供のころ、ずっとあれがやってみたかったのだ。まさかそれがこんな形で叶うなんて。


あの人たちは何故だかいつも笑顔だ、と彼女は思った。いつも全力で生きて、全力で笑っている。まるで花のように儚く、そして太い幹のようにしっかりと根を張って。

あの人たちは、たぶん「今」を生きているのだと、彼女は思った。きっと「今」しか見えていないのだ。他のことを見る余裕なんてあまりないし、見る必要もないから。それに比べて自分はどうだろうか?過去を嘆き、未来を恐れて生きてきただけじゃないか。そして懲りもせずに、これからも毎日毎日、欲望と恐怖の中でさまよいながら生きて行こうとしているんじゃないだろうか。


そうだ。この全身を雨が伝って行く感覚は、今だけのものだ、と彼女は思った。そしてこの広い夜の砂浜で、私だけがそれを感じている。あのカップルはもう帰ってしまっただろうから。

ああ、私は今生きているんだと、彼女は本当に久しぶりに思った。一体こんな感覚は、何年ぶりだろうか。彼女は雨が降って来る巨大な夜空を見上げて、何度も何度も髪をかき上げた。まるで自分の髪を指が通る感覚を、何年も忘れていた人みたいに。


気が付いた時、彼女は笑っていた。馬鹿みたいに口を開けて。彼女は一瞬、自分の頭がおかしくなったのだと思った。でも実際のところ、彼女は心から笑っていたのだ。そして「ショーシャンクの空に」の脱獄シーンみたいに、雨に向かって両腕を広げてよろよろと立ち上がった。

彼女は言葉にならない声で夜の海に向かって何かを叫んでいた。少なくとも今この瞬間は、私は大事なことに気付いているのだと誰かに訴えたかった。例え明日になればまた日常に飲まれて、今考えている全てを忘れてしまうのだとしても。


結局のところ、人生とはどうしようもない自分と戦い続ける日々に他ならないのだと、彼女は思った。何とか今日はボロボロになりながら勝ったみたいだけれど、きっといつかまた私は負けてしまうだろう。自分の抱え込んだ欲望と恐怖に押しつぶされて。そして何もできずに、完膚なきまでに叩きのめされるだろう。でももしこの瞬間の感動を忘れなければ、そんな日でも何とか立ち上がれるかも知れないという気がした。

「負けるもんか。」と彼女はつぶやいた。ぎゅっと拳を握ると、涙が頬を伝わるのを感じた。これは雨じゃない、ホンモノの涙だと彼女は思った。

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