7-3.L'Adieu~別れの曲~

 仕事とバイオリンのレッスン、そして息抜きに貞樹さだきとのデート。理乃りのはこれ以上なく充実した日々を過ごしていた。せわしないが充足している日々は過ぎ、今はもう三月だ。


 自主公演に向け、チケットの販売も順調に進んでいるらしい。小ホールで行われるものだが、やはり貞樹としゅんの評判が高いのか、ほとんど満席に近いらしい。


瑤子ようこ千歳ちとせと……二人の彼氏さんたちも買ってくれたし。嬉しいな)


 時刻は現在、十七時半過ぎ。理乃は自宅駅近くのカフェにいた。仕事を終えてここに寄ったのには理由がある。オムライスを食べ終え、食後のコーヒーを飲みながら待ち合わせの相手を待つ。


 客たちの談笑を耳にしながら、雪が舞う外を眺めていた時だ。


「よ。待たせたな、理乃」

「……こんばんは、上江かみえさん」


 シュノーケルコートを羽織った隆哉たかやが対面に座った。待ち合わせの相手は貞樹ではなく、彼だ。


 隆哉は店員に烏龍茶を注文すると、理乃へ人好きのする笑顔を浮かべる。


「お前から連絡来た時は驚いた。仕事、お疲れさん」

「上江さんも通院お疲れ様です。ごめんなさい、急に呼んじゃって」

「別にいいさ。通院っても、もうほとんど薬は飲んじゃいないんだ。アルコール依存症も大分治った」

「それはよかったです」


 胸を撫で下ろした。酒に溺れていた時とは、確かに瞳の輝き方が違う。雰囲気も優しい。昔の隆哉に戻りつつあることに、心から安堵した。


 笑みを浮かべる自分を見て、隆哉もまた、笑みを深める。


「俺の電話番号、覚えてたんだな」

「記憶力はわたしの取り柄ですから」

「昔から暗記とか得意だったもんなあ。理系なのに数学はからっきしだめだったけどさ」

「もう、昔のことですよ」

「俺にとっちゃ大切な思い出だ」


 少しの間、無言になる。姉と隆哉、そして自分。三人の関係は理乃が高校三年の時に、家族で行ったキャンプで知り合ったのがきっかけだった。隆哉は一人で来ていたけれど。


 それから大学時代、卒業――姉の莉茉りまが死んだあとまで、様々な思い出を一緒にしてきた。以前の隆哉はまさに頼れる兄貴分で、勉強を教えてもらったこともある。


「で? 今日はなんだって俺を呼んだんだ」


 感慨にふけっていた理乃は、隆哉の声で我に返った。タイミングよく烏龍茶が運ばれてくる。店員がテーブルを片付け、去っていったのちに、自主公演のチケットを机へと置いた。


「これを、受け取って下さい」


 隆哉は無言で眉を軽く、つり上げる。


「コンサートのチケットか」

「はい。わたしと貞樹さんが出る、自主公演のものです」

「……宇甘うかいのままごとに付き合うつもりはないぜ」

「ままごとじゃないです。本気でわたし、バイオリンを演奏します」

「お前の弾く演目は?」

「ベートーヴェンのクロイツェル……第一楽章です。ピアノが貞樹さん」


 大きい溜息が理乃の耳を叩いた。隆哉は睨み付けるようにチケットを見下ろしている。


「クロイツェルかよ。莉茉とも弾いたことがある曲だ」

「知ってます」

「お前は俺を許してくれちゃいるけど、墓参りの帰りの告白に答えてないな」

「その答えを、このコンサートで出します」


 もう出しているかもしれないけど、と理乃は内心で付け加えた。


「俺の耳は肥えてる。厳しいぞ」

「それもわかってます。でも、上江さんにはわたしの演奏を聴いてほしいんです」


 微笑む。自信を持って、力強く。また隆哉が大きく嘆息した。赤毛を掻き、少し苛ついたように、それでも諦めたように烏龍茶を啜る。


「お前にとって、宇甘はなんだ」

「……大切な人です。これからを歩いていきたい相手」

「これからか」


 隆哉は烏龍茶のグラスを置き、外を見た。


「ずっと冬が続いてた」

「……え?」

「莉茉が死んだ時から、俺は永遠の冬に包まれてた感じがしてた。お前への思いを自覚して、少し雪が溶けた気がしたはずなんだけどな」

「上江さん……」


 自分と同じことを思っていた隆哉の言葉に、胸が締め付けられる。


 莉茉という雪が降り、ずっと氷雪の中にいると思っていた。冷え冷えとした暗闇の中に。そんな理乃を救い上げ、春をもたらしたのは、貞樹だ。


 貞樹から与えられる愛情を思い出し、目をつむる。きっと隆哉にも、いつか暗闇から救う何かや誰かが現れることを信じ、静かに瞼を開けた。


「わたしは、未来に進みます。その第一歩がこの自主公演だから」


 言って笑うと、横目でこちらを見ていた隆哉がクソ、と悪態をつく。


「いい顔しやがって。ふっきれたな、完全に」

「姉さんのことは忘れません。でもそれに縛られるのは、違うと思うんです」

「……そうだな。あー、こんなことなら宇甘とのデートを邪魔すりゃよかった」

「そ、そんなのだめです……」

「なあ、理乃。お前、ほんの少しでも俺のこと、好きだった時はあったか?」


 言われて考える。確かに思慕に似た感情を抱いていた。だが今、よくよく思うと――


「尊敬してました、上江さんのこと。憧れてもいました……でもそれは、愛じゃないです」

「……そうか」


 隆哉はどこか、自嘲気味に笑った。それからチケットと伝票を持って立ち上がる。


「自主公演、応援してやる。お前の音を楽しみにしてるぜ。宇甘のはともかくな」

「ありがとうございます、上江さん。あ、お会計はわたしが」

「気にすんな。それじゃあな……


 少しだけの寂しさを込めて、隆哉はそれだけを言い残して席をあとにした。その後ろ姿は、今まで見てきた隆哉のどんな姿より小さく見える。追いかけてはだめ、と理乃は一瞬浮いた腰を元に戻し、彼が去っていくのを静かに眺めた。


(上江さん……さようなら)


 優しい思い出と辛い思い出。その二つをくれた人へ目を閉じ、別れの言葉を心の中だけで呟いた。いつか彼にも、春が来ることを願いながら。


 喧噪の中、一人コーヒーを飲む。すっかり冷めたコーヒーは、より苦く感じた。窓に目をやる。雪はやんでいるが外はもう暗い。自宅へ帰ろうと決めた時、スマートフォンに連絡が入る。アプリで、相手は貞樹だ。


 カップを置き、スマートフォンを手にする。


 「仕事、お疲れ様です。こちらは教室が終わりました」


 貞樹の文を見て微笑んだ。彼とは朝と夜の挨拶を欠かさずにしている。時間がある時は通話をしたりと、理乃の日常に貞樹がいるのは当然になっていた。


 そのことに幸せを感じつつ、返答の文を送る。


 「お疲れ様です。わたしは今カフェにいます」

 「そうだったのですね。明日、休日出勤がないのなら、私の家に来ませんか」


 少し悩んで手が止まった。今や互いの部屋には、それぞれの痕跡がある。専用のマグカップ、寝間着などが。泊まっても問題ないが、別れを告げたい人はもう一人、いた。


 「明日は朝から、姉さんのお墓に行こうと思っているんです」


 莉茉に全てを告げようと思っていたのだ。近状報告も兼ねて。


 全部を許されるなんて考えてはいない。それでも、隆哉と莉茉に別れというけじめをつけておきたかった。祥月命日ではなくとも、姉と本音で向き合う機会は今が一番いい気がする。


 少しの時間が経ってから、貞樹から返答が来た。


 「私も一緒に行ってよろしいでしょうか?」


 あ、とちょっとだけ、惚けた。貞樹の記憶がなくなる前、事故に遭う前に交わした約束。それを今再び、彼は果たそうとしてくれている。その事実がとても嬉しい。


 「一緒に来てくれるなら、凄く嬉しいです」

 「では私があなたの家に行っても?」

 「はい。駅のバスターミナルで待ってますね」

 「すぐに向かいます」


 兎のスタンプに猫のスタンプで返答し、スマートフォンを鞄に片付けて店を出た。


 三月といってもまだ札幌は寒い。吐く息も白く、今晩はマイナス気温だ。本格的な春になるのは四月中旬から下旬にかけて。桜もそのくらいに咲く。


 駅に入り、わかりやすい場所で立って貞樹を待つ。階段の側でスマートフォンをとり出し、明日の地下鉄、バスなどの情報を確認した。かなり早く起きることになりそうだ。


「理乃、待たせましたね」

「あ……お疲れ様です、貞樹さん」


 薄茶色のコートをなびかせ、外から来た貞樹と微笑み合う。


「それでは行きましょうか。今夜はお邪魔します、理乃」

「貞樹さんなら、その、大歓迎ですから……」


 照れたように言うと、笑みを深めた貞樹に手をとられた。冷たいけれど細く、長い指に指を絡められ、胸がとくんと脈を打つ。そのまま手を繋ぎ、表に出た。


 眼の前にある大きい国道には、時間帯もあってだろう、車が何台も走行している。車体のテールランプが眩しい。


「食事は葉留はるが弁当を作ってきたので、それで済ませました。理乃は?」

「わたしもカフェでとってあります。……あの、貞樹さん」

「なんでしょう?」

「……わたし、上江さんにお別れ、告げました」


 ぴたりと唐突に、貞樹が足を止める。慌てて理乃は続けた。


「お、お別れというか……クロイツェルで答えを出すって言いましたけど、わたしには貞樹さんがいるから。貞樹さんと先を行くって、告げたんです」


 歩道の端に寄り、通行人の邪魔にならないようにしながら付け加える。眼鏡を押し上げた貞樹が、握る手に力を込めてきた。


「上江君は納得してくれましたか」

「はい。尊敬も憧れもしたけど、それはその、愛じゃないって……言いました」


 自分を見下ろす貞樹の視線は優しい。同時にどこか安堵しているようだ。


「早くあなたの家に行きたいですね」

「どうして、ですか?」

「あなたを抱き締めたくて堪らないので」


 熱を帯びた声に、理乃の体は火照る。再び歩き出した貞樹は少しだけ足が速い。理乃もそれに倣いつつ、じっくりと幸せと愛を噛み締めた。


 その二つが、今、確実な自信に繋がっている。

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