7-2.Valses nobles et sentimentales~高雅で感傷的なワルツ~

 その後、教室の後片付けを手伝い、理乃りのたちは葉留はると別れた。貞樹さだきと共に近くのドラッグストアに寄り、食材や宿泊用の歯ブラシなどを購入する。


 隣を歩く貞樹の機嫌はよさそうだ。本人は苛立つことが多くなっている、と言っていたが、薬で抑えが効いているのかもしれない。


「貞樹さん、お薬は家にあるんじゃないんですか?」

「何かのために数日分、分けているのです。明後日までの薬は持ち歩いていますよ」

「そうなんですね。着替えは、その、一着だけ家においてありますから」

「おや、それは準備がいい。助かります」

「スウェットですけど。男性ものの服を外干しすると、防犯になるんです」

「なるほど、それは知らなかった」


 布団は瑤子たちが泊まりに来る場合もあるため使用したことはあるが、男性用のスウェットは使ったことがない。隆哉たかやが家に来る時は大抵自失状態の時のため、着替えなど必要もしていなかった。


 マンションまで辿り着く。鞄から鍵をとりだし、郵便受けを確認した時だった。


「あれ?」


 中に、袋が入っている。見覚えがあった。隆哉にDVDを渡した際、使った紙袋だ。


「理乃、どうかしましたか?」

「あ、いえ……」


 紙袋の上にメモが置かれていた。さっと読むと、丁寧な文字で「返す」とだけ書かれている。


 小さく溜息をつき、その袋も手にした。他には何も入っていない。袋を持った理乃を見てか、貞樹が首を傾げる。


「それは?」

「姉さんの演奏動画です。上江かみえさんに渡したものなんですけど、返されちゃいました」

莉茉りまさんの、ですか」


 貞樹は何かを考えているようだ。興味があるのか、その顔からは判断できない。


「寒くなってきましたし、部屋に行きましょう、貞樹さん」

「……ええ」


 少し間が開いた返答に内心疑問を覚えつつ、理乃は貞樹と一緒に自室へと向かう。


 室内は寒かった。貞樹を招き入れ、急いで暖房をつける。カーテンを閉め、周りを見渡す貞樹に洗面所の場所などを教えた。


「部屋が暖まるまで少し待って下さいね」

「冷蔵庫をお借りしても? 食材を入れたいので」

「はい。貞樹さん、コート預かります」


 寝室からハンガーを数個持ち出し、貞樹へ渡した。預かったコートとジャケットは寝室にかけておく。隆哉から返されたDVDはテレビの横に置いた。


 手洗いなどを済ませ、一息つく。貞樹へソファを勧め、冷蔵庫に入っていたほうじ茶をマグカップに注いで手渡した。


 部屋が少しずつ暖かくなってきた。貞樹の横に腰かけて、ほうじ茶を飲む。


「食事は私が作りましょうか?」

「あ、いえ……こないだのお返しですから。わたし、作ります」


 今日の夕飯はカレーを予定している。そのくらいなら作れるだろう、と苦笑に近い笑みを浮かべた。貞樹が頷く。何かを思案しているような面持ちで。


「あの、貞樹さん。考え事ですか?」

「……理乃。お姉さん、莉茉さんの動画を見せていただいても構わないでしょうか」


 え、とマグカップを置いた姿勢のまま、固まる。少し困ったように貞樹は笑った。


「嫌なら結構なのですが。演奏家として気になってしまいまして」

「……いいですよ。クロイツェルのもありますし……」


 理乃は了承しつつ、それでもなぜか心臓が掴まれたような感覚になる。比べられてしまう、その心配が頭を掠めた。不吉な考えを振り払い、静かに立ち上がる。


 テレビをつけてDVDをセットした。画面に浮かぶのは、同級生とセッションする莉茉の姿だ。しばらくの談笑ののち、流れたのはベートーヴェンの『クロイツェル』だった。


「ほう」


 貞樹が無意識にだろうか、感嘆の声を上げる。


 流れるテンポは正確だ。荒々しすぎず、繊細さと大胆な部分を兼ね揃えている演奏。自分ではとても及ばない音色に、どうしようもない劣等感が募っていく。


「……料理、しちゃいますね」


 テレビの音量を上げ、逃げるようにキッチンへ向かった。途中貞樹を盗み見たが、彼は食い入るように画面を見つめている。


(違う、貞樹さんは上江さんとは違うから……大丈夫。大丈夫)


 比べられるのが怖い。恐ろしい。平気だと自分に言い聞かせても、動悸が酷くなる。


 震える手でジャガイモやニンジン、豚肉などを用意した。鍋を出し、材料を切っていく。その間にも莉茉の演奏が耳にこびりついて離れない。


 天才と謳われたもの同士、何か通ずるものがあるのだろうか。貞樹はずっと画面に夢中で、それは隆哉の姿を彷彿とさせる。自失した時の隆哉と。


 自分ではどうにもできない不安、臆病な内面が再び蘇る。恐ろしさのあまり包丁を握る手が揺らぎ、人差し指の先を切った。


「痛っ……」

「理乃?」


 声に反応した貞樹が、こちらを見る。慌てて水で血を洗い流した。


「ご、ごめんなさい。ちょっと指を切っちゃっただけですから……」


 情けない、と嘆息し、キッチンから出てリビングのサイドボードへと向かう。消毒液と絆創膏を取り出した。その直後、音楽が止まる。振り返ると、テレビを消した貞樹と目が合った。彼は優しく微笑んでいる。


「貞樹さん?」

「手を見せて下さい」

「じ、自分でやれます。大したことないですし」

「いいから、隣に座って」


 柔らかくソファを叩く貞樹にうながされ、少し悩んだあとに彼のすぐ横へと腰かけた。貞樹は理乃の手から消毒液をとり、処置をしてくれる。丁寧な手つきに面映ゆくなり、ただ縮こまった。それから、怖々と口を開く。


「あの、もう音楽は聴かなくていいんですか?」

「それよりあなたの方が心配ですので」

「指を軽く切っただけですよ?」

「莉茉さんのクロイツェルは、大体わかりましたので。第一楽章までですが」

「……ごめんなさい、中断させて」

「気になさらず。私には理乃の方が大事ですからね」


 絆創膏を巻いた左手の甲、そこに貞樹が口付けを落としてくれる。頬が熱くなるのを自覚し、理乃は慌てて立ち上がろうとした。だが、貞樹は手を離そうとしない。


「少し明るすぎる演奏だと感じました、私は」

「え……?」

「曲想が、です。私はもう少ししっとりとした感じの方が好みですね。理乃、あなたに教えているように」


 貞樹の評論に、理乃は思わずぽかんとしてしまった。絶対的な存在である姉――莉茉の評価は絶賛しか聞いたことがない。いや、もしかすると否定もあったかもしれないが、理乃の耳には届いたことがなかった。


 目をまたたかせた理乃に微笑んで、貞樹は穏やかに続ける。


「もちろんこの動画から、お姉さんから学べるものもあるでしょう。ですが間違わないで下さい。これから弾くのは、私とのクロイツェルだということを」

「あ……」

「大丈夫です、理乃。あなたは少しずつ私の演奏に追いついてきています。あとは無駄にでも自信を持つことですね」


 貞樹が浮かべた不敵な笑みにつられ、理乃もまた、微苦笑を浮かべた。


「……わかっちゃいましたか? わたしが姉さんと……その、比べられるのが怖いこと」

「なんとなく、ですが。少し顔にかげりがあったので」

「貞樹さんにはお見通しなんですね。わたし、姉さんのこと大事に思ってるんですけど、追いつけない存在だと思ってるから……」

「理乃、あなたとお姉さんではきっと性格も違うでしょう。そうなれば同じものを見ても感じるものはまた、別。追いつく必要などどこにもありません」


 どこまでも優しい声音に理乃の目は自然と潤む。小さく頷き、目尻を拭った。


「わたしは……わたしの音色を作っていけばいいんですよね」

「そうです。私とあなただけの音を。怯えることはありませんよ。私がいるのですから」


 言って、貞樹が額にキスをしてくれた。じんわりとした温かさが胸を占め、荒れ狂っていた心臓はいつの間にかときめきで高鳴っている。


 貞樹はやはり、優しい。記憶をなくしても自分を導いてくれている。そのことがとても嬉しくて、自然と笑みが浮かんだ。


 記憶を失った直後、貞樹は冷たくて、理乃はどうしようかと毎晩悩んでいた。女性不信だということも葉留から聞いて初めて知ったことだ。彼にすげない態度をとられ、それでも信じようと思えたのは、与えてくれたものが大きかったから。


 今度は自分が返す番だと決めた。例えそっけなくされても、嫌われても。溢れんばかりの思いを返せる自分になりたいと、そう願ったからだ。


 貞樹の記憶は未だ戻らずのままだが、それでも恋人だと認めてくれた。愛してくれた。そして今も、悩んでいる自分を救い上げてくれた。その事実に報いるために、自信がほしい。


「貞樹さん……わたし、未熟ですけど、これからも一緒にいてくれますか?」

「もちろんです。逆に聞きますが、私があなたを離すとでも思っているのでしょうか」

「そ、それは……その」

「あなたは私の女神ミューズなのです、理乃。誰にも渡すつもりはありません」


 甘くささやかれ、指先に口付けされて、またもや体が熱くなる。


「わたしも、えっと……貞樹さんから離れません……」

「……理乃」


 そっと、顔が近付いてきた。照れながら、口付けを受けようと目を閉じた時――


「……何か焦げ臭いですね」

「あっ、お鍋!」


 ぽつりと呟かれ、慌てて瞼を開けた。急いで立ち上がり、キッチンへと駆け込む。


 ジャガイモが鍋に焦げ付いていた。火を止めることすら忘れていたとは、と落ち込んだ。多少の水を入れていたからまだよかったが。


「やはり私が調理しましょう」

「はい……」


 苦笑してキッチンへと入ってくる貞樹に、肩を落としながら頷いた。

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