第四章:震えの旋律

4-1.sezadiselentare~テンポを遅くしないで~

 週も変わり、莉茉りまの命日は明後日に迫っている。理乃りのは相変わらず貞樹さだきと「恋人のふり」を続け、仕事終わりはいつも音楽教室へと通っていた。


 少し違うのは、葉留はるにもレッスンをお願いしていることだ。夕方、貞樹が仕事を終えるまでの時間。十五分程度、感情のこめ方などを教えてもらっているのだが――


「うーん。まだちょっぴり哀愁の方が強いかな」

「そ、そうですよね……なんとなくわかってはいるんです。頭では」

「クロイツェルは、ピアノにも負けないバイオリンの音色が特徴だからね。元々最初は、演奏家のブリッジタワーに捧げた曲だってことは、瀬良せらさんも知ってるよね」

「はい。でも女性を巡る喧嘩で急遽クロイツェルへ献呈した、とも」

「そ。クロイツェルは興味を持たなかったわけだけど。瀬良さんたちが弾く第一楽章は、アダージョ・ソステヌート……プレスト。速度を抑え気味に、きわめて速く。これだけでベートーヴェンのひねくれ具合がわかる気がする」

「ひねくれ……」

「抑え気味に、きわめて速くって正直聞いて、は? ってなるよね。まあ、それでも変奏曲の第二楽章や明るめの第三楽章よりかは……瀬良さん向けかもしれない」


 防音室で鍵盤を軽く叩きながら、葉留は楽譜を見て唸る。まだまだ熱情を込めることができないことに嘆息しつつ、理乃はケースにバイオリンを入れた。


池井戸いけいど先生、今日もありがとうございました」

「給料上がってるから気にしないで。あ、ここの部分なんだけど、もう少し大げさでもいいかも」

「わかりました。宇甘うかい先生と相談してみます」


 指摘された部分を頭に叩きこむ。それにしても、どうにも感情がついてこない。熱情的でいて素早く、様々な感情を多分に含むこの曲をどう表現するかで迷う。


 楽譜を持った葉留と共に室内から出た――直後だ。


「宇甘先生っ。好きです! 自分の初恋、もらって下さい!」


 受付から告白の言葉が響いてきて、理乃は目を丸くした。角からそっと受付を伺うと、一人の女生徒がプレゼントらしき包みを掲げながら、貞樹へ頭を下げているのが見える。


「わっ、大胆。ここで告白するとは」


 同じく様子を見ている葉留が小声でささやいた。理乃はといえば、真剣な眼差しで生徒を見つめる貞樹と女性を見比べることしかできない。


(初恋……)


 女生徒が放った単語に胸が軋む。自分の初恋の相手は、自覚した限りでは別の男性だ。貞樹ではない。初恋を捧げる女生徒の方が、よほど清らかでまっすぐな思いを彼に抱いているのではないだろうか。


 悩む理乃の前で、貞樹が横に頭を振った。


「あなたの気持ちは嬉しいですよ。しかし、私には恋人がいます」

「でも結婚はなさってません!」

「このようなことを言うのは酷なのですが、私は彼女以外のことを考えられないのです。ですので、あなたの思いに応えることはできません」

「どうしても、ですか?」

「はい。あなたの勇気と気持ちだけは、受け取ります」


 女生徒は悔しそうに、それでいて悲しげに包みを握り締め、もう一度何かを呟いた。貞樹へお辞儀をしてから足早に教室を去って行く。


 貞樹は女性の後ろ姿を見ていた。それが理乃の胸を穿つ。どうしようもない不安が込み上げてくる。突然貞樹がこちらを向いたものだから、思わず肩を跳ね上げさせた。


「隠れてないで出てきたらどうですか」

「あっ、バレた。瀬良さん、行こっ」

「は、はい……」


 葉留にうながされ、うつむき加減で受付へと歩く。貞樹が眼鏡を指で押し上げ、艶やかな溜息をついた。


「来て下さってもよかったんですよ、理乃」

「……真剣な告白を邪魔するのは、よくないかなって」

「もし私が、彼女の思いを受け入れていたらどうしますか」


 考えあぐねて理乃は下を向く。自分は貞樹の告白を保留にしている立場だ。なのに、ここでしゃしゃり出るのも場違いだろうし、彼を独占したいと感じるのも間違っている気がする。


 黙って悩み続ける理乃を見かねてだろう、葉留が口を開いた。


「まーた、さだの悪い癖だ。瀬良さんのこといじめない」

「い、いじめ?」

「言ったでしょ、前に。さだは嫉妬心が強いって。瀬良さんのこと試してるわけ」

「人聞きの悪いことを言わないで下さい。まあ多少は期待していましたが。理乃、あなたは私の恋人なのですから、もっと自信を持ってくれても構わないのですよ」


 貞樹の微笑みに、それでも理乃は曖昧に頷くだけにする。バイオリンへの情熱は取り戻しつつあるが、貞樹の恋人、ということには未だ自信なんて持てやしない。


「それにしてもここで告白とは凄いわね。あたしの初めてをもらって、とは恐れ入る」

「勇気と気持ちだけはありがたく頂戴しましたよ。私には理乃がいますから」


 初めてというフレーズが、二年前の悪夢を呼び起こす。純潔は隆哉たかやに捧げてしまった。無理やりとはいえ抱かれたのは紛れもない事実だ。そのことをまだ、貞樹に話していない。どうしても勇気が出ないのだ。


 痛みと悲しみしかなかった夜をありありと思い出しそうになり、小さく首を横に振る。


「ところで葉留、理乃のクロイツェルはどのような感じですか」

「情熱が足りない、ってとこ。頑張って本人は奏でようとしているらしいけど……ね?」

「あ、は、はい。まだ思いを上手く音に乗せることができなくて……」

「明日、個人レッスンで音を合わせましょう。その時に指導します」

「お願いします……」

「それでは理乃、今日はこのくらいでそろそろ帰りましょうか。送ります。葉留、後は頼みましたよ」

「はいはい。じゃあまたね、瀬良さん。お二人でごゆっくり」


 いつものように、先程女性に告白されたことも意に介さないように、貞樹は理乃の手を握ってくる。冷たい手に秘められた温もりが、今は少し、心苦しい。


 教室を出る。毎回そうだが、貞樹は決して車道側を理乃に歩かせない。歩幅も合わせてくれる。そんな心遣いはされたことがなかった。


 雪道を注意深く進んでいく中、貞樹がぽつりとささやく。


「諦めません、と言われてしまいました」

「え?」

「いえ、あの生徒に。最後に諦めない、と。これはなかなか強敵です」

「諦めない……」


 苦笑した貞樹の言葉で、不意に隆哉のことを思い出した。彼は今のところ自宅に来てはいないが、放たれた台詞と抱擁の感触を蘇らせてしまい、悩ましげな嘆息が漏れてしまう。


「何か悩み事ですか、理乃」

「い、いえ……」

「顔に書いてありますよ。もしかして、上江かみえ君のことでしょうか」


 図星でまたうつむく。最近、下を向いてばかりだなと思った。


「上江君に酷いことをされましたか」

「……ある意味そうかもしれないです」

「私を呼んで下さい、と言ったはずですが」

「貞樹さんに迷惑はかけられなくて。わたしと上江さんの関係って、その……いびつなんです」

「歪、とは?」

「それは……まだ言えません。ごめんなさい」


 情けない、ともう一人の自分が嘆いた気がした。勇気のない自分が恨めしい。自身に落胆する理乃の手を、貞樹がより強く握ってくる。


「妬けますね。あなたと上江君は、どこか細い糸で繋がっている気がします」

「姉の恋人だった人ですから。付き合いも長いですし」

「そういう意味ではありませんよ。彼はあなたの心を捕らえている感じがしました」


 理乃は思わずぎくりとした。でも、隆哉に告白された時、緊張だけがあった。ときめきや高揚感など何一つなく、戸惑いにも似た緊張しか感じられなかった気がする。


(貞樹さんの時とは……違う……)


 それと比べて、貞樹に告白された時は胸が高鳴った。毎回キスをされる時もそうだ。手を繋いでいる今も安心感があるし、口付けのあとはいつもふわふわした感じになる。


 貞樹は言ってくれた。いつか自分のためにバイオリンを弾いてほしいと。その集大成こそがクロイツェルの完成だ。だが、実際告白されている貞樹を見ると、胸が靄がかったようになってくる。


 もう少し貞樹に歩み寄る勇気。貞樹の思いに応える勇気。一歩を、と決めて顔を上げた。


「さ、貞樹さん」

「なんでしょうか?」

「……お味噌汁、作らせて下さい」


 ん、と貞樹が眼鏡の向こうの目を見開いた気がする。理乃は半ばパニックになったまま、一人唸りつつ言葉を感情にまかせて放った。


「最近、わたし、料理をですね。あの、お味噌汁、作るんです。簡単なお味噌汁なんです」

「味噌汁ですか、なるほど」

「いつも美味しいものを食べてる貞樹さんには、口に合わないかもしれませんけど……わ、わたしが作るお味噌汁、その、貞樹さんに……飲んでほしいなって」


 何を言ってるのか、自分でもわからなかった。恥ずかしくて顔が真っ赤になるのだけは理解した。


 しかし、貞樹は微笑む。これ以上なく嬉しそうに。


「私でよければいつでもあなたの手料理を楽しみますよ、理乃」

「こ、今夜はわたしの部屋に来て下さい。いつも外食させてもらってるし、お返しに……」


 大胆な提案に、我ながらまた気恥ずかしくなる。味噌汁以外でまともなものはまだ、何一つ作れないというのに。


「それではお言葉に甘えましょう。今日の夕飯は理乃の味噌汁を楽しむ、ということで」

「は、はい。お惣菜は買ったものですけど」

「何か食材があるなら私が作りますよ。簡単なものを。台所を貸して下さい」

「食材……」

「今から買いに行くのもいいですね。スーパーに寄ってから帰りましょう」


 貞樹がどこか喜んでくれているのを見て、ほっとした。小さく頷く。千歳ちとせ瑤子ようこがこの会話を聞いたら「脈絡ない」と指摘していたかもしれない。けれど胸が弾んだ。


(わたしたちのテンポで……まだ、全部を話す勇気は出せないけど)


 それでも小さく前進したはずだと、手から伝わる温もりに心を預けて、思った。

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