3-7.posato~平静に~
日曜、珍しく晴れの夕方。
今、理乃たちがいるのはちょっとした隠れ家的なカフェ。千歳は夜に彼氏とデートをするらしく、軽食は頼まなかった。スイーツと飲み物をそれぞれ注文し、一息つく。
「たくさん買っちゃった……」
「えぇ? 理乃、この程度でへばったわけ?」
「だってもう両手一杯だよ、千歳。服に鞄に、靴でしょ。それから化粧品とか」
「アタシとしてはも少し着飾らせたい気がするけど」
「も、もうお金がね。着回しもできる服を選んでくれただけで、十分」
「そう? まあ、デートもできるコーデにはしてあるからさ。あの講師と上手くやんなさいな」
ティラミスを食べて頬杖をつく千歳が、からかうようににやりと笑った。
ラテの柔らかな口当たりが、嫌でも貞樹の唇を連想させる。未だに胸がときめいてやまない。そんな様子を見たのだろう、千歳が楽しげに顔を覗きこんでくる。
「そんな顔赤くしちゃって。何かあったんじゃないの?」
「な、何もないよ」
「
吹き出しそうになり、理乃は軽く咳き込んだ。勢いよく頭を横に振る。
「じゃあ告白されたとか」
「それは……その、うん……」
「お、いいじゃない。ついに理乃にも恋人できたってことか」
「えっと……わたしは返事、まだ保留してるの」
「なんでよ。いい男だし、他の女にとられたらどうすんの」
「もう少し、もうちょっとだけバイオリンを上手く弾けたら、って考えちゃって」
「なんでそこでバイオリン?」
いぶかしむ千歳に、理乃は自主公演のことを説明した。二人で高難易度のクロイツェルを演奏することを。
理乃にとって、クロイツェルは難関だ。乗り越えなければならない最後の壁。それを弾ききることができた時、初めて貞樹の隣に立てるようになる気がする。
「ふーん。クラシックには詳しくないけど、そんなに難しいんだ、それ」
「うん。貞樹さんと伴奏するなら、上手くなって自信をつけたいの。返事はそれから」
「……生殺しだな、宇甘。せめてキスくらいは許してやんなさいよ」
キス、という単語にまた顔が赤くなるのを自覚した。
「見た感じ、アンタ、キスはしたって感じがする」
「千歳……それ以上言わないで……」
恥ずかしくてうつむき、スコーンを口に運んだ。からかわれては味がわからない。
「ま、アンタらのテンポで上手くやりなよ。尊敬してたってやつとはもう、縁切ったんでしょ?」
「アプリはブロックしたし……別れも告げたから」
「そっか。なんかあったらすぐに宇甘かアタシらに連絡しなよ」
「ありがとう。大丈夫だと思う」
それからしばらく会話を弾ませ、十八時過ぎに大通駅で千歳と別れた。千歳は彼氏が迎えに来るらしい。「今度三人で彼氏同士会わせよう」と最後まで軽口を叩かれた。
(まだ貞樹さんとは恋人の関係じゃないんだけど……)
帰路への地下鉄に乗りながら、たくさんの買い物袋を携えつつ思う。確かに口付けはされた。告白も。でも、理乃はまだそれに応えてはいない。千歳が放った「他の女にとられたら」という台詞が胸をちくりと痛ませた。
貞樹の人気は未だ高い。昔のことは聞いてはいないが、彼女だっていただろう。彼の好意にあぐらをかくわけにはいかないのだ。
(……クロイツェル、頑張ろう。
貞樹の隣に並ぶことを決意して、家路を急ぐ。雪は降ってはいない。晴れた夜空に、しかし星は周囲の明かりでなかなか見ることができなかった。
途中、ドラッグストアに寄る。買うのはレトルトのものではなくきちんとした食材だ。苦手なものと向き合う努力もしたい。そう思わせてくれたのは、貞樹のおかげだろう。
味噌汁くらいは作ろうと、味噌と豆腐を購入した。米はさすがに持てない。
手一杯荷物を持ち、マンションまでようやく辿り着く。
エントランスで足が止まったのは、人影があったからだ。貞樹ではない。隆哉だった。
「……
名前を呼ぶ声が、震える。デニムの両ポケットに手を入れ、思案顔をしていた隆哉の瞳が理乃を捕らえた。その視線はどこか弱々しい。
「どういう、つもりだ」
声にも覇気がなく、言われた理乃は戸惑う。アルコールには頼っていないようだが、怒りも自失もない弱めいた姿は、
「……何がですか」
「宇甘のやつに何か吹き込まれたのか? 俺に会うなとか、構うなだとか」
「わたしが、決めたんです。もう上江さんの面倒を見ないって」
「お前も俺を置いていくんだな。莉茉と同じように」
「言いました。わたしも……誰も、姉さんの代わりにはなれません」
気丈に振る舞いつつ、足が震えるのを堪える。荷物を置き、肩掛けの鞄から鍵を出す。一瞬、隆哉から視線を逸らしたその時だった。
「理乃」
手から鍵が滑り落ちる。呆然と顔を上げた。隆哉は今、名を呼んだ。姉の名前でも他の女性の名でもなく、自分の名を。
明るく、本当の兄のように名を呼んでくれていた昔がフラッシュバックする。小さく
「頼む、理乃。俺の側から離れないでくれ」
「な、何を……言ってるんですか」
困惑し、理乃がしゃがんで鍵を拾った直後。うつむきながら立ち上がった刹那。
思い切り隆哉に抱き締められた。冷え切ったシュノーケルコートに顔を押し付けられる。頭の中が真っ白になった。何をされたのかわからなくて。
「お前の優しさがいい。落ち着くんだ……凄く。一人の女としてお前を見てる」
身動ぎすることも許さない、そんな強い力を込めて両腕で抱かれ、熱い吐息と共にささやかれた。切実な声音にしかし、理乃の頭は思考を止めたかのように動かない。
「莉茉の妹だから、じゃない。俺にくれたお前の優しさがもっとほしい。だから」
腕が移動し、両肩を掴まれる。
途端、手首につけていたオードトワレの残り香が鼻をくすぐる。貞樹からもらった、大切な香り。清涼で甘やかな匂いが自我を取り戻させる。
「離して……下さい」
「理乃、俺は」
拒絶の言葉に、隆哉は顔を強張らせた。力が緩んだ瞬間を見逃さない。理乃は両手で隆哉の胸を押し、数歩後退る。
今までだったら、隆哉の言葉を嬉しく思っていたかもしれない。憧れの人からの告白にときめいていただろう。けれど、脳裏に貞樹の笑みが、声が思い浮かぶ。そしてキスの感触すら。
「……もう、来ないで。わたしはきっと、上江さんの期待に応えられないから」
はっきりと言い切った。言ってしまった、と思う。でもそれは心の底からの本心だ。
理乃の拒絶に隆哉は悔しそうに、苦しそうに
荷物を持ち、隆哉の横を通り過ぎる。
「俺は……諦めないからな」
呟く隆哉の声にも振り向かず、緊張で高鳴る胸を押さえながらマンションへと入った。閉まったドアの向こうから、背中へ鋭く熱い視線が注がれている。
角を曲がり、エレベーターに乗った。足がまた震え出す。
一人の女として――優しさがほしい――隆哉の言葉が繰り返し浮かんだ。けれど、心はどこまでも平坦だった。手首を鼻に近付け、そこから立ち上る香りに集中する。
この匂いがもしかしたら、今の自分を護ってくれているのかもしれない。
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