1-6.suffocato~息をつめたような~

 結局この日、理乃りのが拙いながら弾ききることができたのは、『アメイジング・グレイス』だけだ。初心者が公演に使う曲。しかしそれも、自分では満足してはいない。


 貞樹さだきに適切な助言をもらいながらも、どうしても莉茉りまの幻影が重なって、感情に乗り切ることができなかった。自分の音が完全に消えている。思い出そうと必死になったが、青ざめたこちらの顔を見たのだろう、貞樹がストップをかけた。


「今日はここまでです。技術は確かにある、と判断しました」

「はい……」

「しかし感情が追いついていませんね。楽しく弾いている気が全く感じられない」


 理乃は貞樹に何も言えなかった。緩慢にバイオリンを片付けながら、唇を噛みしめる。指摘されたとおりだ。反論する気力すらわかない。


瀬良せらさん。私は来年、自主公演をしようと思っています。生徒たちも経験者がほとんどですので」

「自主公演……」

「あなたにもそれに出てほしいのですが……いや、今はこの話はやめておきましょう。もう八時だ。送りますので、帰り支度をして下さい」


 いいです、という理乃の小さな拒絶は、貞樹が椅子から立つ音にかき消された。鈍い動きでバイオリンケースを持ち、明かりを消した貞樹の後ろに続いて防音室から出る。


 受付に戻れば、雨の音が聞こえた。気怠さを隠しもせず顔を上げてみると、外は土砂降りだ。通り雨かもしれないが、傘を持ってきていない。


「車で送ります。バイオリンを濡らすわけにはいかないでしょう」

「ほ、本当にごめんなさい」

「こういう時はありがとう、の方が嬉しいですね。袋をお渡しします。ケースはそこに入れた方がいい」


 カウンターから貞樹が大きな紙袋を出してくれた。静かに受け取り、言われるがままにケースを袋に入れ、コートを着る。その間に貞樹は暖房を切り、出る準備を終えていた。


 雨も、自主公演のことも、どうでもいい気がした。心が虚ろだ。自分の情けなさに愛想が尽きた。まともに曲を弾けなかったことに、ではない。姉の死がこんなにも影響を及ぼしていたことに、少なからず衝撃がある。


(二年……あっという間だったけど、まだ二年なんだ……)


 胸のどこかに大きな棘が突き刺さった気がして、嘆息する。すがるものもなく、紙袋に入ったバイオリンを抱きかかえた。教室の電気が消えて暗闇が下りる。


「鍵をかけていくので、先に駐車場へ行っていて下さい。車の扉は開けておきます」


 無言で首肯し、重い足を引きずるように外に出た。雨の勢いは強い。駐車場に急ぐ。ともかくバイオリンを第一に考えて、遠慮がちに車の助手席へと乗りこんだ。


 コートを羽織った貞樹が駆け足でやって来る。貞樹は運転席に乗り、長い呼気を吐き出した。


「瀬良さん、ご自宅を教えていただいてもよろしいでしょうか」

「……」

「瀬良さん?」

「……あ、はい……家はこの先を左に曲がって……」


 うながされ、理乃はようやく少し正気に戻る。自宅までの道のりを口にすると、貞樹はそれをカーナビに入力した。理乃を見る目付きは、心配に溢れている。


「疲れたから、というわけではなさそうですね。あなたが曲を弾けなかったのは」


 車を運転する貞樹に、理乃は無言を返した。姉のせいにしたくない。でも、どうすればいいかわからない。出会ってまだ少しの人間に、踏みこんだ話なんてできやしなかった。


 沈黙が二人の間に流れる。それでも口をつぐむ。楽しかった昼間のことなんて、今は夢のようだ。いや、音楽を楽しむ権利なんて自分にあるのだろうか。ましてやまたバイオリンを弾くなんて。死んだ莉茉を冒涜しているような背徳感。倦怠感よりそっちが大きい。


「トラウマ」


 ぽつりと貞樹がささやいた。思わず理乃は、横にいる貞樹を見つめた。


「もしかすれば、上手く弾けないのはお姉さんの死が原因ですか?」

「……姉さんのせいじゃないです。わたしの、わたし自身の問題なんです」

「ですが、音と表情に恐怖がありましたよ。とても苦しそうだった」


 視線を逸らし、膝上に置いた紙袋を見る。苦しそうだ、と言われて脳裏に蘇るのは倒れ伏す姉の姿だ。今の自分なんかよりよっぽど痛く、苦しかっただろう。隆哉たかやだってそうだ。今も苦しみ、莉茉の死を乗り越えられないでいる。


 隆哉のため、自分のためにバイオリンを弾くのはまだ少し、早かったのかもしれない。お金のことなどどうでもいい。一回切りでやめてしまおうか、そう理乃が思った時だ。


「私があなたを変えてみせます」

「……え?」

「瀬良さん、あなたを変えます。あなたの心を今ここに、そして先へ導きましょう」


 貞樹が決心したように言うものだから、理乃は呆気にとられてまた、貞樹の方を向く。


「どうして……そんな、そこまで」

「あなたの根幹には音楽への愛情が眠っている。情熱も。コンサートを聴いていた時のあなたは本当に楽しそうだった。その姿を見ていればわかることです」


 信号が赤になり、車が一時止まる。貞樹が理乃を見て、優しく微笑んだ。


「技術も持ち合わせているあなたをこのままにしておくのは、忍びない」

「で、でもわたし……ろくに弾けませんでした」

「瀬良さん、それを変えるために私がいるのだと考えて下さい。あなたは必ず変われます。変えたいのです、私が。音楽を心から楽しんでいたあなたに」


こちらを射貫く視線はまるで、理乃を包みこむかのように穏やかだ。真摯でもある。


(わたしが、変わる……また昔みたいに、弾けるの?)


 どこまでもひたむきな、講師の鏡のような貞樹の台詞に小さく唾を飲み込んだ。


「ですので、一度切りでやめるなんて真似はしないで下さいね」

「あ、え、は……い」

「約束ですよ。今、返事を聞きました」


 意地悪そうに、それでも嬉しげに笑う貞樹に、理乃はうつむく。つい気圧されてしまった。だが、あの真面目な瞳がどうしてか頭から離れない。


 一時間ほどレッスンを受けたが、厳しくも正しく、わかりやすい指導だった。決して感情にまかせるのではなく、冷静に教える部分には好感も持てる。問題は、自分だけ。すぐに変われるだなんて期待はしていない。それでも貞樹は約束してくれた。


(わたしができるのは、昔から頑張ることだけ……だもんね)


 天才たちに囲まれて、それでも必死に追いつこうと、自分だけの音色を捜そうと躍起になっていたあの頃。楽しかったひとときを思い出す。


 未だ姉に対する申し訳なさは、胸を締めつけるけれど――と一度目をつむり、それから前を向いて口を開いた。


「わたし、不出来な生徒ですけど……精一杯頑張ってみます」

「いい答えですね。頑張れる人間は強いです。大丈夫、私がついていますから」

「はい……よろしくお願いします、先生」

「おや、二人きりの時は名前呼びと言ったはずですよ」

「あ、そ、そうですよね。宇甘うかいさん」

「何かしっくりきませんね」

「何がですか?」

「ああ、いや。貞樹と呼んで下さってもいいのですが」

「せんせ……いえ、宇甘さんにそんな馴れ馴れしくできないです」


 まだ出会ったばかりだし、と小さく付け加えると、貞樹がどこか寂しげに嘆息する。


「それは追い追いということでいいでしょう。瀬良さん、そろそろ目的地ですが」

「あ、もうマンションが見えました……ここで大丈夫です」

「一応、マンションの前まで送らせて下さい。茂みがある場所ですか?」

「そうです。ごめんなさい、本当に色々と」

「お気になさらず」


 車が自宅前、エントランス脇の道路に止まった。シートベルトを外す理乃に、貞樹は薄く微笑んだ。


「今日はとても楽しかったですよ。ありがとうございました」

「こちらこそ……」

「雨はもう小降りになっていますね。袋はそのままお持ち下さい」

「ありがとうございます」


 一日のお礼も込め、理乃は頭を下げる。


「それではお休みなさい、瀬良さん」

「宇甘さんも、お休みなさい」


 言って袋に入ったバイオリンを抱き締め、外に出た刹那。


「どこに行ってたんだ、お前」


 不機嫌な声音に肩が跳ね上がった。慌てて顔を上げると、エントランスで腕を組んでいたのは――


「……上江かみえ、さん」

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