1-5.inconsolato~せつない~
札幌の繁華街、すすきの。そこから地下鉄の駅一つ向こうにある中島公園には、コンサートホールが一つ存在する。ガラス張りの建物で、中にはテラスレストランも兼ね揃えている憩いの場だ。
二年ぶりに来るホールに
「素敵な演奏でしたね。特にブラームスの交響曲第二番がよかった」
「はい……バッハのオルガンも好きですけど、やっぱり交響曲がわたしは好きです」
「ここのオルガンは本州のものにも引けを取りません。見事なものです。世界的だと認めた指揮者もいましたね」
「嬉しいです。やっぱり地元のホールが認められるのは」
白い車の助手席、そこに腰かけながら
渋滞に巻き込まれ、外は他の車のテールランプで眩しい。夕陽もすでに落ちた。代わりに飲食店などの明かりが歩道の紅葉を照らしている。夜になったためか、風が少し強い。舞い散る木の葉を目の端に、ちらりと貞樹を盗み見た。
運転する貞樹も機嫌がよさそうだ。いや、半日、ずっとこの調子だった。
珍しく自分も饒舌になった。好きな音楽のことを筆頭に、趣味である読書の話でも盛り上がったのだ。貞樹は海外小説を主に読んでいるらしく、理乃が興味を惹かれるような本もいくつか教えてもらえている。
(でも、これからはお稽古だし。ハードだって言ってたから……気を引き締めないと)
貞樹から視線を外し、膝に置いたバイオリンケースを静かに握った。手入れはしているが、二年も日の目を浴びさせなかった愛用の楽器。正しく扱えるだろうかと不安になる。
「瀬良さん。バイオリンはどこのメーカーを使っているんでしょう」
「クラウス・クラメントのグァルネリです。
「私はハーゲン・ヴァイゼ。ストラディヴァリです。同じドイツ製だ、お揃いですね」
なぜか嬉しそうに言われて、ただ首を縦に振ることしかできない。
近年のバイオリン生産国一位は中国だ。ヨーロッパのブランドでも、中国のメーカーに生産を依頼をすることが多い。それでもドイツ製やイタリア製のバイオリンには、未だ根強い人気がある。
理乃は首を傾げ、ちょっと疑問に思ったことを聞いてみた。
「宇甘さんくらいの方なら、もっと高級なものを使っていると思ってました」
「オールドタイプのバイオリンは
「お手入れや修理が大変だとか?」
「それもあります。確かに楽器の質で音は大幅に変わってきます。しかし実際に手に馴染むのはやはり、昔から親しんだメーカーのものですね。今は大規模のコンサートやコンクールにも出ていませんし」
「音楽が嫌いになった、わけではないんですよね?」
「もちろんですよ。でなければ講師などしていません」
笑った貞樹がハンドルを切る。気付けば教室はすぐそこだ。教室の駐車場に入る。車を停めて二人、外に出た。やはり風が冷たい。緊張と頬を撫でる風に、理乃は身を震わせた。
「夜は寒くなりますね。今、準備をしますので。中に入って待っていて下さい」
「はい、わかりました」
教室の鍵を開け、明かりをつけた貞樹のあとに続き、理乃も受付に入る。あらかじめ暖房を入れていたと思しき教室内は、適度な温度が保たれていた。
奥の室内に行く貞樹を見送り、改めて教室を見渡す。休みともあってか事務員の姿もなく、音楽も今はかかっていない。簡易なポスターなどがあちこちにある。
コートを脱いで立ったまま、貞樹が声をかけてくれるのを待った。数分ののち、同じくコートを脱いだ貞樹が先程とは違い、厳しい顔で受付に戻ってくる。
「お待たせしました、瀬良さん。レッスンを始めましょう。荷物とコートはそこの席に置いておいて大丈夫です。鍵をかけておきますので」
「よ、よろしくお願いします」
一転して教師モード、という
防音室は白い。グランドピアノが少し端っこの方に置かれており、森を描いた絵画とポーズを見るための姿見だけが彩りを添えている。
「瀬良さんは音大卒ということですので、中級者以上として考えます。準備をどうぞ」
ピアノの前に座った貞樹にうながされ、理乃は急いで、それでも丁寧にバイオリンケースを開いた。琥珀より黒みがかったバイオリンを取りだし、部屋の中央で構える。
「もう少し肘を上げて」
「は、はい」
「顎を引いて下さい」
言われたように数カ所、直す。久しぶりにバイオリンを正しく構えた。どこか楽器が重く感じる。プレッシャーのせいだろうか。姿見に顔が強張った自分の姿が映っている。
「課題曲はピアソラの『リベルタンゴ』でいかがでしょうか」
「弾ける、と思います……」
「ではそれで。私が伴奏しますので音に集中して下さい」
「はい」
貞樹がピアノの弦に指を置いたのを確認し、理乃は自分の鼓動ではなくピアノとバイオリンだけに集中する。心地いい緊張感なんてものはなく、重圧と心配だけが胸を占めた。
ピアノの音がしばし響いたのちに弓を引く。指と腕は正しく動いてくれた。体がまだ、音をしっかり覚えている。
最初はどこか不安げに、物憂げに始まる曲へ身を委ね、激しく情熱的になっていく音階を追う。ピアノの音は正確だが甘く、導かれるように独奏部分に入った。
体全体を動かし、ただ弾くのではなく、熱情の旋律に身を任せる。中盤まで無事、音を取り外すこともなくスムーズにいけた、のだが――
不意に視線が姿見へ映った。黒髪の自分が姉の姿と重なる。
(違う)
幻影は姿見一杯に広がり、楽しそうにバイオリンを弾く姉の姿を映し出す。もうこの世にはいない姉なら、
(違う……違う、ここにいていいのは……わたしじゃない)
音がずれた。手が震え出す。足も。呼吸が自然と荒くなり、ピアノの音も入ってこない。歯が鳴った。ただ、怖くて。
(姉さんならもっと上手く弾いてる!)
思った瞬間、弓を持った手がだらりと垂れた。全身が冷たくなっていく感覚。息が、苦しい。
「瀬良さん?」
貞樹がこちらを向いた。理乃はただ、バイオリンを持ってその場に崩れ落ちた。滑らかなフローリングが尻を冷やしていく。呼吸するのもままならず、バイオリンと弓を抱き締めて目をつむった。
「大丈夫ですか、瀬良さん。どうなさったんですか」
「わ、わたし……わたし」
混乱と恐怖に満ちた脳内に、莉茉の姿だけが浮かぶ。ミュンヘンのコンクールで、大学で、ありとあらゆるところで、感情豊かにバイオリンを弾いている姉を思い出す。今の曲だって、理乃はほとんど情緒を込められなかった。ただ音階をなぞるだけ。
莉茉ならば。天才と
「瀬良さん、目を開けて私を、こちらを見て下さい」
肩を掴まれた感触にびくりと震えた。目を見開く。すぐ近くに、貞樹の顔があった。
「深呼吸を。ゆっくり、自分のペースで繰り返して」
眉を
肩を叩かれるリズムに合わせ、呼吸をしていくと幾分か楽になるのがわかった。しかし次は体の震えが止まらない。
「私を見て下さい、と言ったはずです」
鋼みたいな声音に怖々と顔を上げ、貞樹を見上げる。厳格な眼差しは和らいでおり、昼間に見た穏やかな視線が、自分を包んでいるのがわかった。
「落ち着きましたか」
「……す、少しは」
貞樹が溜息をつく。理乃は申し訳なく思い、全身を縮こませた。貞樹の手のひらは冷たい。肩を抱かれていることに今更気付き、慌てて口を開く。
「ご、ごめんなさい……」
「それは何について、誰についての謝罪でしょう」
「え、っと」
「私に対しての謝罪とは思えません。瀬良さん、あなたは今、ここを見ていないように感じます」
内心を探るように言われてしまい、バイオリンを抱く力を強める。
「演奏、できませんでした……」
「そうですね」
「だから、その……申し訳なくて……」
「瀬良さんは何か、勘違いなさっているのでは? 弾けない人を弾けるように導くことが講師の勤めです。さあ、立って。体を冷やしてしまいますよ」
手を差し出された。手のひらに掴まって、ようやく立ち上がる。貞樹の後ろに見える姿見に、自分の体が半分映っていた。『なんのためにその顔がある?』という
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