第七章 終局への転調 3

 瑞稀のアパートを後にしたナオトは、スマートフォンを取り出して、キョウジに連絡した。数回の呼び出し音の後にキョウジとつながった。

「キョウジか? 今、どこにいる?」

「人に居場所を尋ねるのなら、まずは自分の居場所を明かすんだな。そいつが礼儀というもんだ」

「くだらない軽口はいい。どこにいるんだ?」

「ノリの悪い奴だな。そんなことでは大人物にはなれんぞ」

「そんなことはどうでもいい。今どこにいる?」

 キョウジは足を止めた。地下へ続く階段を下目で睨みつけた。

「『千歳』へ続いている階段を見下ろしているところだよ」

「少し待ってくれないか。乗り込むつもりなら、まずは合流しよう。話したいことがあるんだ」

 キョウジは、ナオトがなにかを掴んだことに気がついた。気がついたのはそれだけではなかった。いつの間にか、キョウジの背後に、屈強そのものの男たちがいた。数にして二十人はいるだろうか。キョウジの口から思わずため息が漏れた。

「悪いが、そいつは出来そうにないな。はなはだ、不本意だがね」

「なにかあったのか?」

「ああ、いかついなりをしたお兄さんたちが、どうやら戦闘準備を整えたようだ。ということで、連絡を終了する。しばらく後にな」

 キョウジは、一方的に通話を終えた。

「キョウジ! おい! キョウジ!」

 ナオトの声は、キョウジには届かなかった。ナオトは立ち止まった。

「電車よりも、タクシーのほうが速いか」

 瞬時に判断すると、ナオトは駅まで走って向かい、タクシー乗り場で客待ちをしているタクシーのドアを強引に開けて乗り込むと、行き先を告げた。

「急いでください!」

 ナオトのただならぬ気迫に気圧されて、タクシーの運転手は法定速度ギリギリで飛ばした。その間にもキョウジに連絡を試みたが、報われなかった。

 目的地に到着すると、ナオトは五千円札をタクシーの運転手に放り投げるように渡して、自分でドアを開けてタクシーを降りた。

「お客さん! お釣り! お釣り!」

 タクシーの運転手の言葉を無視して、ナオトはあたりを見回した。夕刻の駅前の繁華街ともなると、さすがに人通りが多い。だが、あの金髪ならすぐに見つかるかと思っていたのだが、そうでもないようであった。

 地下に続いている階段を覗いでみた。誘うように『千歳』の看板が光を放っていた。ナオトはスマートフォンを取りだした。キョウジを呼び出そうとしたのだが、発信音が聞こえてくるばかりであった。

「どこへ行ったんだ、キョウジ」

 ナオトがもう一度あたりを見回していると、若い男がひとり近づいてきた。

「おや、そちらのお兄さん。どうです、うちにはいい娘が揃っていますよ、さあさあ」

 以前と同じ台詞を口にしたのは、以前と同じ客引きの男であった。

「悪いが、それどころじゃあない」

 ナオトが軽くあしらうと、客引きの男がさらに近づいてきて、身体を寄せてきた。腰のあたりに、なにかが当たっていた。

 ナオトは少し顎を上げて、瞳を横に向けた。

「動くなよ。手元がくるってグサッとイッちまうぜ」

「キョウジは? 金髪のチャラい男はどうしている?」

「ああ、あいつか? ふっ、今頃、救急車の中だろうさ」

「まさか、な。キョウジに限ってはありえないな」

「どう思うかは自由だが、お兄さんも後を追ってもらうのは、間違いがない」

 客引きの男は、喉の奥を鳴らすようにして嘲笑した。

「誰が救急車の中だって? まったく、当人を放っておいて適当なことをいうもんじゃあない」

 聞き覚えのある声が客引きの男の言葉を否定した。ナオトには、それが誰の声か瞬時にわかった。

「千歳」のある雑居ビルと隣のビルとの間の路地からキョウジが姿を現した。必要もないのにわざとらしく、薄いジャケットの襟元を整えて、ズボンの埃を払ってみせている。客引きの男は、そのなりを見て驚愕した。息はかすかに上がっているようだが、争った形跡はそれだけで、キョウジの顔には殴られた跡がひとつもなかったからである。

「あれだけの人数を、あれほどの手練を、たったひとりで倒したというのか?」

 男は額に汗をにじませた。背筋には冷たい汗が滴り落ちていった。

 キョウジは、やおら髪をかきあげた。

「明らかな戦術ミスだな。数を頼んでかかってくるのなら、もっと広い場所を選ぶことだ。ビルとビルの間では、前だけを相手にすればすむことだからな」

 確かにその通りだが、そのような状態にもっていったのも、一発も拳を喰らわなかったのも、それだけキョウジの格闘センスが優れていたからである。

「諦めて降参することを勧めるが、それではあまりにも情けないな。どうするね?」

 客引き男は明らかに怯んでいる。これ以上追い詰めると、なにをしでかすかわからない。しかし、キョウジは、ナオトの心配は全くしていなかった。

 キョウジは凄んでみせた。

「お前ら何者だ? いや、違うな。誰に頼まれた?」

 尋ねたが返事がない。しかし、ただの客引き男ではないはずだ。自分とナオトを狙ったのは明白な事実であったからである。それに、彼らは独自に動いているとは考えにくい。ナオトもキョウジも、不良集団グループに襲われる直接的な理由がなかったからである。このふたりに共通するのはふたつ、『四季』の探偵ということと、『千歳』に行ったことがあるということであった。となると、裏で糸を引いている者がいるのは明らかであった。

「風間慶一か? いや、違うな、都筑彰男つづきあきお、だな」

 キョウジは問いただしたわけではなかった。相手の反応を見るために、確認したのである。しかし、慶一と彰男の名前を出されても、客引きの男の反応に変化はない。未だに信じられなかったのである。二十人もの腕っ節の立つ集団が、たったひとりの優男にやられたことを。しかしそれでも、慶一と彰男の名前を出されれば、なんらかの反応があるはずである。それがないということは、どういうことであろう。キョウジは小首をかしげた。

「まっ、待てっ、おれたちはっ! ……」

 男は口を開いたが、それ以上声にはならなかった。

「ふむ。どうやら本当に知らないようだね」

 男は、池の中の鯉のように口を開閉させ、ぶるぶると震えている。なにを脳裏にめぐらしたのかはこの際どうでもよかったが、彰男の命令ではなく、それ以上に危険な相手の依頼なのであろうか。そう仮定すると、その恐ろしい相手と驚くべきキョウジを天秤にかけているのであろう。男は、その想像を振り払うように激しく顔を振った。

 男は、左腕でナオトの首を締めあげると、右手のナイフをナオトの左頬に近づけた。

「動くなっ! 喋るなっ! こいつがどうなってもいいのかっ!」

「だってさ、ナオトくん」

「助けてくれないのか? 薄情だな」

 ナオトは両手を広げて不満そうにいった。

「いやいや、ここはお前さんの見せ場だ。それを奪うのは、さすがに気が引けてね」

「おれに気を使うなんて、らしくないな」

「喋るなといっているっ!」

 男はナイフをナオトの頬に当てた。手が震えていたため、ナオトの頬に血が滲んだ。

 キョウジはスマートフォンをとり出すと、動画を撮影し始めた。

「はい、これで、脅迫と傷害の罪が確定してしまいました。出るとこに出るかい? お兄さん」

「ふ、ふざけるなっ!」

「そいつは心外だね。おれはこれでも、いつでも大真面目なんだけれどね」

 客引きの男は、キョウジとのやり取りに気を取られていた。それがキョウジの目算であることが、ナオトにはよくわかっていた。人通りの多い場所でナイフを手にして騒いでいれば、当然、周囲はそれに気づく。

「ちょっと、あれあれ?」

「なにかの撮影か?」

「本物か? あのナイフ」

 ナオトたちを中心にして遠巻きに人だかりが生じて、騒然となり出した。キョウジがやっているように、スマートフォンを取り出して動画を撮影し始めた人もいる。そのことに、客引きの男はようやく気づいたようである。ナオトの首を締め上げている腕の力が明らかに緩んだ。

「さっきまでの威勢はどこへやったんだ? 顔が引きつっているぞ。笑えよ。せっかくいい感じに撮ってやってるんだから」

 キョウジがとどめの一撃を投げつけた。こちらは、余裕綽々の口調である。

「くっ!」

 それが、客引き男の最後の反応であった。男はナオトを乱暴に突き放すと、人波をかき分けて一目散にその場を後にした。

「なんと張り合いのない奴なんだ。あれじゃあ、おれが伸した連中のほうが数段立派じゃあないか。まったく、情けないも甚だしい」

 とても残念そうに頭を振ったキョウジに向かって、ナオトは笑いかけた。

「逆上されるよりはよほどいいだろう。退き時を知っているのは、質は悪くはないと思うけれど」

「質のいい不良なんているのかね」

「さあ、どう、かな」

 明確な理由があって徒党を組んでいるわけではなく、ただの不満分子が自然発生的に集合体をなした、ということかな、とナオトは考えながら、ハンカチを取り出して頬を拭いた。離して見ると血の跡が薄く滲んでいた。

「しかしまあ、お陰で傷も浅くて済んだんだし」

 結果オーライ、であろう。

 ナオトはもともと喧嘩っ早い方ではなかったし、腕っ節に自信があるわけでもない。争わないで済むのであれば、それはそれに越したことはない。無論、それは、相手次第ではあったが。

「では、行きますか?」

 キョウジが拳をナオトに向けて突きだした。ナオトも拳を突き出して、ふたりはグータッチした。

 キョウジとナオトは、並んで、『千歳』へ続く階段を見下ろした。一方は決意に満ち、もう一方は斜に構えている。

 先にキョウジ階段を降りて行き、ナオトは警戒する風を見せずに後に続いた。キョウジが店の入口を開けた。扉の先には、もうひとつの扉があった。キョウジは二枚目の扉を開いた。ボサ・ノバが聞こえてきた。扉の先にはフロアがあった。数人の客がいるが、相変わらず怪しく見えるのは、気分の問題であろう。ナオトは素早く目を走らせて、対象がいないことを確認した。

「ご注文は?」

 バーテンダーは尋ねたりはしなかった。常に変わらず無言でグラスを磨いている。ナオトとキョウジは、まっすぐにトイレの扉の前まで移動すると、ドアを開いた。一畳半の空間があった。左に男子トイレの案内板が黒く、右側には女子トイレの案内板が赤く光っていた。ナオトは案内板を無視すると、そのまま真っすぐ歩いて行った。観葉植物の陰になっていて見えなかったが、壁のように見えるものには、ドアノブが付いてあった。

「やはりこの先か?」

 キョウジがナオトに目を向けた。

「内部がどうなっているかはわからないが」

「へいへい、行き当たりばったりというか、臨機応変というべきか。面白そうなのは確かだがね」

 ナオトは、ドアノブに手をかけた。

「いくぞ」

 ナオトはドアを開いた。一畳ほどの小さなスペースがあった。目の前にはもう一枚のドアがあった。この手のパターンには、もう慣れていた。このスペースの天井の真ん中あたりに監視カメラのようなものが埋め込まれており、ふたりを冷たく見下ろしていた。

「進むしかないね」

 今度はキョウジがドアを開いた。ドアは内側に開いた。目の前にコンクリートの壁がある。キョウジがコンコンと壁を叩いてみた。これは、壁に間違いがなかった。半間ほどの幅の通路が左右にのびている。左手には上に向かって階段がある。かすかに外部の音が聞こえてきた。車のクラクションや、人混み特有のざわついた雑音であった。間違いなく外へ通じているであろう。

 ナオトは右を向いた。薄暗かった。寒色系のダウンライトが等間隔に光り輝いていた。ふたりは、しばらく通路を進んだ。広い空間に行き着いた。広さにして七坪くらいある。左の壁際に、酒樽や酒瓶の入っているケースなどが整然と積まれていた。ストローなどの雑品が入っているであろう段ボール箱もある。在庫の保管庫であるようだ。一番奥に、ドアがあった。

 キョウジは頭の中で地図を描いていた。このドアの先には、三畳程度の空間があるはずである。

 ナオトは、六枚目のドアのノブに手をかけて、ゆっくりと引いた。ドアが開いた。一畳程度のおどり場があり、目の前にはエレベーターがある。

「搬出用だろうか?」

「だろうね」

 ナオトの疑問にキョウジが即答した。酒瓶や酒樽を運ぶのには、そのほうが楽でよい。

 ナオトはエレベーターのボタンを押した。音もなく開いたエレベーター内部の広さは、二畳ほどである。

 これで地図は完成した。すべてを含めると、五十坪で、このビルの建築面積に符合する。

「上がるかい?」

 顎に手を当てて考え込んでいるナオトに、キョウジが明るく問いかけた。ナオトはしばらくしてから首を振った。

「いや、こちらは関係が無いように思う。一旦戻って、通路の階段を使って外へ出てみよう」

 このエレベーターは、キョウジが肯定したように搬出用に間違いがないと思われる。ならば、利用者は限られてくる。エレベーターを一般の客が使うのは目立ちすぎるだろう。

 二人は来た通路を戻って、トイレの通路から出てきたドアを通り越して、そのまま、階段を上がっていった。

 陽はすでに落ちていた。しかし、それだけではない薄暗さである。向かいのビルとの距離は二メートルも無い。どうやら、路地のようである。それも、人が通常の移動に使用することがない、路地のようである。

 キョウジは目を路地の左右に走らせた。それから視線を上に向けた。

「空からなにか降ってくるのかね」

「いや、そんなことはない。ない、はずだ」

 曖昧に返事をしながら、ナオトは空を見上げた。暮色に彩られたビルの間から見える空には、かすかだが、たしかに星の輝きが見て取れた。

 なにもないはずがないのだ。体調を崩して衰弱していたためだけではない潤んだ黒い瞳を脳裏に思い浮かべながら、ナオトはしばらくの間、瞬く星を、憂いのある瞳で見つめていた。

「来たようだぞ」

 耳の側でキョウジの囁く声が聞こえて、ナオトの瞳が現実を直視する光に変わった。視線を下げてキョウジに一瞥を与えてから、ナオトは路地の左手に目を向けた。交通量の多い表通りの側である。

 通りの明かりに浮かび上がるように人影が立っていた。ひとりである。性別はわからない。だが、髪は長くはない。

 その人物はゆっくりと、ナオトとキョウジのほうに近づいてくる。足どりに迷いはない。左手をズボンのポケットに突っ込んでいる。背はそれほど高くはない。ナオトよりかなり低い。とすると、一七〇センチはない。

「なにかお探しですか?」

 声は少し高いようだ。男、というより、少年のような声質である。

「ああ」

 ナオトが応じた。

「人づてに聞いたんだ。ここであっているはずなんだが」

 ナオトはさり気なく軽く首を動かしてキョウジに目を走らせ、それから表通りの方に向き直った。声の主が目の前にいた。人の良さそうな、というよりも悪い人相ではない。人懐っこそうなところもない。とりたてて上げるべき特徴もない。どこにでもいるような普通の少年がそこにいた。高校生か中学生か。小学生では無いようだが。

「なにをお探しです?」

 そう聞けと教えられているのだろうか。ナオトはそう思いながら、両手を動かした。そして、少年の目の前で、左右の人差し指を使って小さな四角形を中空に描いた。

 それを目にした少年は、頷くこともせずに近づいてきて、ナオトの右の耳元で囁いた。

「二万です」

 わかった、と返事をして、ナオトは後ろのポケットから財布を取り出したが、中を見て天を仰ぎそうになった。すぐに振り返ってキョウジを見やり、二万貸してくれ、と頼んだ。

「まったく、パートナーに金を無心するなんて、恥ずかしくないのかねぇ。この甲斐性なしは」

 キョウジがくだけたようにいいながら、ジャケットの内ポケットから長サイフを取り出して、一万円紙幣を二枚ナオトに差し出した。ナオトを経由して少年に手渡された二万円は、あるものに変化してナオトの掌に置かれた。

 少年は来た道を戻らずに、そのままナオトとキョウジの脇を通り過ぎて、裏通りの方へ歩いて行く。ナオトとキョウジは、それぞれ半身になりながら、目の端でそれを見送った。

「追うか?」

 少年がいなくなってからキョウジが確認してきたが、ナオトは首を横に振った。理由はこうである。あの少年は、なにも知らないだろう。自分がなにをやっているか。誰にそうすることを頼まれたかも。いや、直に接する人物はいるだろう。しかし、それは間に何人もの人物を介してのことに違いない。末端の人物を捉えることに気を取られていては、足を掬われることもありうる。こんな大都会では、誰が、どこから、目を光らせているかしれたものではないからだ。ここは、下手にあの少年を探るよりも、目的のものを手に入れることをまずやったほうが良い。ナオトとキョウジが、ただ、それが目的であることを行動で見せるべきであろう。ほかにはなにも考えていないということを示すためにも。

「ふーん。まあ、いいや。で、二万も出してなにを手に入れたんだ」

 キョウジの問いに、ナオトはゆっくりと掌を開いた。番号の書かれたタグの付いた鍵があった。キョウジは楽しそうに口元を微動させた。

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