第七章 終局への転調 2

 東都大学のキャンパスを夏目なつめナオトは何気なく歩いていた。いつもならば、見つけようとしなくても現れる優木瑞稀ゆうきみずきの姿が、今日は見つからなかったのである。やはり昨日の一件で、疑念を抱かれてしまったのではないかと思われた。それに、少々穿った見方をすれば、瑞稀が風間慶一にそのことを話す可能性も、完全には否定できなかったからでもあった。

 ナオトは学食を覗いた。瑞稀の姿は見当たらなかった。仕方なく学食を後にすると、田名部教授の講義が行われる講堂に向かった。相変わらず、盛況であった。しかし、瑞稀はいなかった。

 ナオトは講堂を出て、スマートフォンを取り出すと、瑞稀に電話をかけた。連絡先は瑞稀からの申し入れで交換していた。呼び出し音が長く続いた。

「避けられているのだろうか?」

 その可能性はあった。仕方なくスマートフォンを耳から離そうとした時、電話がつながった。

「ああ、先輩」

 瑞稀の声はいつもとかすかに違った。元気がなく、こもったように聞こえた。

「どうした? いつもの声とは違うように聞こえるが」

 スピーカーの向こうから、咳をする声が聞こえてきた。

「ゴホッ、ゴホッ。ごめんなさい、ちょっと、風邪ひいたみたい。ゴホッ、ゴホッ」

「風邪をひいた? この暑い最中にか?」

「えへっ、冷房クーラー付けて寝てたら、ゴホッ、タイマーかけるの忘れてて、ゴホッ、ゴホッ。朝目が覚めたら、お腹出して、ゴホッ、寝てた。ゴホッ、ゴホッ」

「辛そうだが、大丈夫か?」

「大丈夫じゃない。わたし、ひとり暮らしだから、ゴホッ、ゴホッ」

「病院へは行ったのか? なにか口にしたか? 薬は?」

「ううん。食欲なくて、ゴホッ、ゴホッ。病院もひとりじゃ行けない。ゴホッ、ゴホッ」

「わかった、今から行くから、住所を教えてくれ」

 瑞稀は激しく咳き込んでいった。

「いいよ、風邪、ゴホッ、ゴホッ、感染うつると悪いから。ゴホッ、ゴホッ」

「風邪はうつすと治るというだろう。おれが引き受けてやる」

 ナオトは自分の言葉に驚いた。だが、これは自然に出た言葉である。本心に間違いがなかった。

「ゴホッ、ゴホッ、それ、迷信だよ、ゴホッ、ゴホッ」

「迷信でも都市伝説でもなんでもいい。住所を教えてくれ」

「でも、仕事があるんでしょう。ゴホッ、大切な。ゴホッ、ゴホッ」

「ああ、そうだが、今の瑞稀の声を聞いて、ほうっては置けない」

 押し問答の末、瑞稀は観念したように住所を告げた。

 大学を出たナオトは、最寄りの駅に向かった。駅ビルにはドラッグ・ストアとスーパーがあった。ドラッグ・ストアで、風邪薬と解熱剤と、頭に貼る熱冷まし用のシート、体温計を購入し、ついでスーパーで、ネギと卵と出汁の素、レンチン用のご飯と小さな日本酒、薄口醤油をカゴに放り込み、精算すると、急いで店を出て、慌てて電車に飛び乗った。

 瑞稀のアパートのある最寄りの駅に着くまでもどかしかった。スマートフォンのナビアプリを利用して、駅から徒歩五分位で目的地に着いた。

 学生を相手にした、きれいなアパートであった。瑞稀の部屋の前に「優木」と、苗字だけが表記されていた。女の子のひとり暮らしは危険がいっぱいであるからであった。

 ナオトは呼び鈴を鳴らした。

 ドアを挟んで、室内の音が漏れ聞こえてきた。ナオトはドアを二度ノックした。しばらくして、ドアの鍵を開ける音が聞こえて、ドアが開いた。

「先輩、ゴホッ、ゴホッ」

「とにかく中へ」

 ナオトは瑞稀の手を掴むと、通路を通って、部屋の奥へ向かった。間取りは一DKであった。ベッドを置くと場所を取られるので、畳の床に布団が敷かれてあった。

「先輩、ゴホッ、ゴホッ」

「とにかく、なにも話さなくていいから、黙って寝てなさい」

「うん、ゴホッ、ゴホッ」

 四角いテーブルの上に、ドラッグ・ストアで買ってきたものをひとつずつ置いた。

 ナオトは、まず熱を冷ますシートを瑞稀のおでこに張ってから、体温計を手渡した。熱を測っている間、スーパーのビニール袋を持ってキッチンに向かうと、ご飯を温めてから鍋に放り込み、水を投入して火にかけた。

「何度ある?」

「三十八度五分、ゴホッ」

「少し高いな」

 ナオトは別の鍋に日本酒を注ぎ込み、ついで卵を割り入れた。

 卵と酒のほのかな香りが、瑞稀の鼻を刺激した。ナオトは適当に戸棚を開けて、湯呑を取り出し、たまご酒を注ぎ込んだ。

「お粥が出来るまで、これを少しでもいいから飲むように」

 上体を起こした瑞稀に湯呑を手渡した。瑞稀は眉間にしわを寄せた。

「あんまり、ゴホッ、美味しそうじゃない」

「一口でもいいから」

 ナオトはその間に、冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出し、コップに注いだ。服用方法の書かれている紙に目を走らせて、解熱剤の錠剤を二錠取り出して瑞稀に手渡した。上体を起こして座ると、瑞稀は薬を飲んだ。

「しばらくすると効いてくるはずだから」

 ナオトが背中を支えてやり、瑞稀は横になった。お粥が出来上がるまで、暫くかかる。その間に、ネギを刻んだ。軽快な音を聞いて、瑞稀が笑った。

「先輩、料理できるんだ。ゴホッ、女子力高いなぁ、ゴホッ」

「病人は、黙って寝てなさい」

 ナオトは包丁の先を瑞稀に向けた。

「先輩、包丁、包丁」

 瑞稀は笑った。そうして一度、キッチンに立っているナオトを見つめると、視線を転じて天井を見上げた。

 瑞稀は目を閉じた。意識が遠のいていくのが、自分でもわかった。

 ――どれくらい時間が経ったのか、瑞稀はわからなかったが、自分が眠っていたことには気がついた。瑞稀は横を向いた。ナオトがテーブルに付いて、瑞稀を見つめていた。

「先輩、ずっとそうしてたの? なんだか、恥ずかしいな」

「三〇分位だよ。瑞稀が眠っていたのは」

 ナオトは立ち上がってキッチンに向かった。用意していた茶碗にお粥をよそった。それから、お椀にネギスープを注いだ。その仕草を瑞稀はずっと見ていた。戻ってくると、瑞稀は上体を起こした。

「少しでもいいから、無理をしなくてもいいから、一口でもいいから、とにかく、なにかお腹に入れたほうがいい」

「先輩、お母さんみたいなこというのね」

「お母さんって、せめて、お父さんといってくれ」

 ナオトは茶碗を手渡した。瑞稀はお粥を口に運んだ。それを見届けると、茶碗を受け取り、お椀を手渡した。瑞稀はネギスープを口に含んだ。

「このスープ、美味しい」

「おかわりならまだあるから」

「じゃあ、おかわり」

 すっと差し出されたお椀を受け取ると、ナオトはキッチンに行って、スープをもう一度温め直した。その間に、ミネラル・ウォーターをコップに注いだ。風邪薬を一包取り出して、瑞稀に手渡した。鼻を突く匂いに瑞稀は顔をしかめた。

「なに、この臭い」

 風邪薬は漢方薬であった。

「風邪の時、おれはいつもこの漢方薬を飲んでいるんだ。少し臭いがきつくて苦いけれど、胃への負担は大きくないんだ。我慢して飲むように」

 瑞稀は気にそまない顔をしながらも、鼻をつまんで、漢方薬を口に入れた。

「苦い」

 ナオトからコップを受け取ると、瑞稀はミネラル・ウォーターを一気に飲み干した。

「まだ苦い」

「その苦味が効くんだよ」

 ナオトはキッチンに行って、湧き上がったネギスープを注いで戻ってきた。瑞稀はネギスープを飲んだ。苦味がネギの辛味と甘味によって消えていった。それから、お粥を二口ほど口にした。

「さあ、横になって」

「うん」

 瑞稀は素直にうなずくと、ナオトの言葉に従った。

「それにしても、こんな季節に風邪をひくなんて、馬鹿のすることだぞ」

「馬鹿って酷い」

 唇を尖らせた瑞稀に、ナオトは素直に謝った。

「そうだな、馬鹿は風邪をひかないっていうからな、瑞稀が馬鹿ではない証拠だな」

「馬鹿はともかく、先輩の意外な一面を見られて、なんだか、得した気分だわ」

「おれもひとり暮らしだからな。病気の時がきついのはわかっている。だから、風邪薬や頭痛薬は常備している。瑞稀は常備薬はないのか?」

「わたしは病院派だから」

「そうか」と、ナオトはうなずいた。しばらく瑞稀は黙ったまま天井を見つめていた。その様子を横目に、ナオトは食器を洗うためにキッチンに向かった。

 食器を洗っている間、何度かナオトは瑞稀の様子をうかがっていた。瑞稀は天井を見つめたまま、微動だにしていなかった。

「瑞稀、もう一度体温を測ってみてくれないか」

 ナオトの言葉に、瑞稀は素直に従った。しばらくして、食器を洗い終えたナオトが戻ってきた。

「三十七度二分」

「少しは落ち着いたようだな」

 体温計を受け取って、ナオトはそれをしまいながら「病院にでも行くか?」と尋ねたが、瑞稀は首を横に振った。

「ずいぶん楽になったから、大丈夫よ」

「そうか、それならば」

 帰るか、といおうとすると、瑞稀がナオトの手を掴んだ。

「ん? どうかしたのか?」

 瑞稀の顔をのぞき込むと、思いつめた表情で、なにか話したいように口が開いた。しかし声にはならなかった。ナオトは瑞稀の手にもう一方の手を重ねた。

「残ったお粥、茶碗に入れておいたから、後でレンジで温めて食べるように。わかったか?」

「ありがとう」

 瑞稀がいった五文字の言葉には、その文字数以上の、溢れそうなほどの感情がこもっていた。

「じゃあ、帰るよ。大切な仕事があるからね」

 くだけたようにいって、ナオトはウインクした。瑞稀が瞳をうるませていた。

 しばらく沈黙がふたりの間を支配した。沈黙を破ったのは瑞稀の意外な言葉であった。

「『千歳ちとせ』っていう名前のスナック・バーがあるの、知ってる?」

 ナオトは大きく目を見開いた。すぐに返事ができなかった。

「その顔だと、知っているのね」

 ナオトは、この鋭い女の子の言動に今更ながらに驚いてしまった。しかし、ナオトはすでに心を決めていた。瑞稀に嘘は通用しないのだと。

「ああ、知っている。でも、わからないことがあってね。正直お手上げ状態なんだ」

「トイレのある通路の正面にドアがあるの。一見しただけだと壁にしか見えないけれど。知ってる?」

 ナオトは「いや」と応えた。

「なにがあるんだ、その先に?」

「行けばわかるわ」

「瑞稀は行ったことがあるのかい?」

 ナオトが尋ねると、瑞稀は少しの間黙して、目を背けた。小刻みに、肩が震えているように見えた。

「ええ、すごく、後悔しているけれど」

「なぜ、話してくれる気になったんだ?」

 瑞稀の視線がナオトに向いた。

「先輩、風間慶一のことが知りたいんでしょう?」

 ナオトはしばらく瑞稀の目を見つめた。そして、深くうなずいた。

「ああ、そのとおりだ」

「だったら行ってみて、先輩が調べていることと関係があるかわからないけれど」

「わかった」

 ナオトは瑞稀を安心させるために瑞稀の手をポンと叩いた。瑞稀はその後、ナオトに告白した。非常に微妙デリケートで、瑞稀はためらいがちに言葉を選ぶように話した。話を聴き終えたナオトは、優しげに微笑んだ。

「ありがとう。話してくれて」

 ナオトは、瑞稀の手を布団の中へ押し込んだ。

「先輩、また、会えるよね?」

「ああ、いつでも、連絡をくれれば飛んでくる」

「ほんとに」

「ああ、本当だ。でも正直にいえば、飛べはしないけれどね」

「うん。でも、それって比喩だよ」

 瑞稀は少し寂しそうに笑った。もう会えないかもしれないという予感があったのかもしれない。

「じゃあ行くよ。鍵はどこにある?」

 瑞稀は靴箱の上を指さした。ナオトは鍵を掴んで、瑞稀のアパートを出た。鍵をかける音がした。

 新聞受けから、ことりと鍵が落ちてきた。瑞稀はそれを見届けると、天井を見つめて、しばらくしてから、両目を閉じた。

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