第289話 ジブラルタル海峡の支配者 ~スペイン内戦が三つ巴になった件について~




 ジブラルタル海峡(Strait of Gibraltar)……

 この世界線における現状を表す端的な言葉がある。曰く、

 

 ”ジブラルタル海峡の支配者は、英国をおいて他になし”

 

 これでは具体性に欠くだろう。

 なら、こういうのはどうだろうか?

 英国は、ジブラルタル海峡の北岸と南岸双方に巨大な陸海空の基地を有している。

 北岸はアルヘシラスやタリファを含むジブラルタル湾全域、具体的にはソトグランデからサアラ・デ・ロス・アトゥネスあたりまで。南岸はセウタに始まりタンジェやメリリアに囲まれたジブラルタル海峡周辺の”スペイン保護領モロッコ”のジブラルタル海峡に面した地域すべてが、

 

 《b》”英領・・ジブラルタル”《/b》

 

 なのである。

 史実とかなり異なるこの状況……ジブラルタルの歴史的変遷を騙るとあまりに長くなってしまう。

 なので、ここでは軽いピックアップ、直近の”スペイン内戦”の頃の話を簡単にまとめてみようと思う。

 さて、スペイン内戦において英国のとった行動は、一言で言えば「キリスト教徒の保護」を大義名分とした行動だ。

 スペイン内戦を搔い摘んで言うと、スペイン第二共和国政府に対してスペイン陸軍の将軍グループがクーデターを起こしたことにより始まった内戦で、

 

 ・左派勢力(共和派、ロイヤリスト派):人民戦線、ソビエト連邦、メキシコ、国際旅団(義勇兵団)

 ・右派勢力(反乱軍、ナショナリスト派):ファランヘ党(スペインのファシスト党。フランコ将軍)、ドイツ、イタリア、ポルトガル

 

 が戦った。

 少し解説すると、国際旅団は小説家のアーネスト・ヘミングウェイやジョージ・オーウェルにアンドレ・マルロー、写真家のロバート・キャパらが関わったことが有名……というか、その時点でどういう性質の集団か察していただけると思う。

 ちなみに構成は時期にもよるが60~85%が55ヵ国以上から集まった各国共産党員で、内訳は知識人や学生が20%、労働者が80%だったらしい。

 要するに従軍記者として虐殺やら何やらと評して好き勝手に報道し、結果として戦争を煽りまくった6万人の集団である。

 ドイツの方は、かの有名な”コンドル軍団”だ。




 さて、当初英国は英領ジブラルタル(史実のジブラルタルと同義)の防衛の為に軍を派遣しただけだった。

 だが、内戦初頭の1936年の秋、とんでもない事実が発覚する。

 ”史実同様・・・・に”人民戦線派支配領域で7000人以上の聖職者が殺害されていたのだ。

 これに英国国教会は「共産主義者の非道」を激しく糾弾した。

 当時は英国も赤色勢力に浸透工作を受けていたが、特に激怒したのが即位したばかりのリチャードⅣ世だったのが運の尽き。

 国王自らの勅命で、スペイン内戦の介入命令が出ればどうしようもなかった。

 また、当時が保守党のボールドウィン内閣だったのも幸運だったのかもしれない。

 

 そして、ここで動いたのが我らがチャーチル、当時の英国外相だった。

 本当にどんな運命の変遷か、外相だったチャーチルは早速同盟国の日本とコンタクトを取ったのだ。

 戦中の政策のせいで結構誤解されているが、史実でも今生でもチャーチルは反共だ。事実、ロイドジョージ内閣当時、大臣としてロシア革命を阻止すべく反共産主義戦争を主導し、赤軍のポーランド侵攻は撃退している。

 他にも、1920年には「社会主義者は全ての宗教を破壊しようとしており、ロシアとポーランドのユダヤ人が作り出す国際ソビエトに信を寄せている」と演説したりもしている。

 実は、史実のチャーチルも元々は反共であると同時に、当時の欧州では一般的な反ユダヤでもあったようだ。

 例えば、同年2月のサンデイヘラルド紙に『シオニズム対ボルシェヴィズム:ユダヤ民族の魂のための闘争』というシオニズムを痛烈に批判する寄稿文を載せていたりするのだ。

 

 

 

***



 

 そんなチャーチルであればこそ、日本皇国の何処か根源的な共産主義者嫌い(そして、当時は広田内閣であり、史実同様に広田首相のアカ嫌いは有名であった)は熟知しており、期待通りすぐに援軍が地中海に派遣されることになった。

 そう、第二次世界大戦当初のタラント強襲で日本艦隊が参戦できた下地は、既にこの時に整えられていたのだ。

 元々、35年のドイツの再軍備宣言で海軍軍縮条約がご破算になり、戦争に向けた予備命令が出ていたことも功を奏した。

 大義名分は、「民間人、特に聖職者の安全地帯の確保」。

 ちなみにリチャードⅣ世、共産主義者の非道に対する憤怒に噓はなかったが……しっかり「ジブラルタル海峡周辺の”可能な限りの確保”」を命じてる辺り、実に抜け目ないのブリカスである。

 

 王様とカンタベリーのトップ連名での「人道主義に基づく参戦じゃあ! オラァッ!!」なのだからたまった物じゃなかったろう。

 1936年に日英同盟に基づき援軍要請を受けて、約1年を準備と調整に費やし、日本皇国の本格的な参戦は1937年末からだ。

 加えて、同盟云々の大義名分や建前は置いておくとして、当時日本皇国の参戦理由は、ある意味中々に酷い。

 どちらかと言えば日本国は、元々何となく親スペイン的ではあったのだが……

 

 『スペインが共産化するのも、軍政化するのも面白い状態ではない。だが、どちらかしか選べぬというのなら、もっとも国益に叶う方法を選択するとしよう』

 

 という訳で英国と結託し、ジブラルタル海峡領域での英領の拡大に助力し、39年までズルズルと続いた内戦で日本皇国も九七式軽戦車、チ38式半自動歩兵銃、或いは当時は試製の文字が入った零式艦上戦闘機や”隼”や”鍾馗”、一式戦車などをはじめとする「第二次世界大戦投入予定の」各種新兵器のテストをしっかりやっていたのだ。

 余談ながら、皇国のカモフラージュが上手かったのか、あるいは試験投入された数が少なかったせいか、そもそも関心が薄かったのか定かではないが……この時点で、日本皇国の新兵器のデータが独ソ側に取られていた形跡、あるいはそれが後の兵器開発に反映された形跡はあまり無い様だ。

 いわゆる「ゲスト参戦」的な認識を持たれていた可能性も否定できないが。

 

 まあ、日本皇国民がふんわりとした浅い好意を持っていたのは「王国としてのスペイン」であり、軍事独裁政権でも、ましてや赤色政権でもなかったこともこの決定を後押ししていた。

 また、日本皇国が赤色政権だけでなく、軍事政権もあまり好ましくないと思っているのは書いておきたい。

 これは歴代転生者たちの尽力による「シビリアンコントロール」や「軍の政治的中立性」の概念が定着していたというのもあるが、犬飼内閣→宇垣内閣→広田内閣と続いた激動の30年代で二度も軍需政権樹立のクーデター未遂を(それも米ソのコミンテルンの黒幕嫌疑がある中で)起こされたのだから是非もなしだろう。

 史実のいわゆる5・15事件も2.26事件も未然に、決起の首謀者たちが会合中に射殺もしくは捕縛という形で防がれたが、この時の恐怖と嫌悪感を転生者のみならず皇国政府が忘れることはないだろう。

 特に広田は2.26事件(未遂)の当事者でもある。

 この世界線では、未遂に終わったせいもあり、政府の方針として「軍機」扱いで内々に処理され、世間を大きく震撼させるようなことはなかったが……皇国が一層、軍事政権を警戒するには十分な論拠となった。

 

 

 

 話を戻すが……史実と異なり、”スペイン内戦”では日英同盟が参戦したせいで、結果的に《b》”三つ巴の戦い”《/b》の様相を呈したのだ。

 そして実に皮肉なことに、正規軍の投入兵力や練度、装備から考えて、最も本気だったのが日英同盟だったのは紛れもない事実である。

 はっきり言おう。民間人は積極的に保護したが、敵対する者、民間人に紛れた便衣兵などに対して最も容赦なかったのも日英だ。

 実際、日英共にこの時点で”不正規戦・非対称戦”の実戦経験がつめたのは、後の影響を考えれば実に大きかったと言える。


 「敵が立てこもる場所に手榴弾を投げ込み、その後、部隊員が突入し自動火器による火力制圧を行う。それを疑わしき部屋がある限り繰り返す」という現代のCQB(Close-Quarters Battle:屋内近接戦)の基礎を編み出したのは、我々の知る歴史ではソ連将軍の”ワシーリー・チュイコフ”が独ソ戦においてとされるが、この世界線においてはこのスペイン内戦において日英特殊作戦任務群(の先駆け)の間で、自然発生的に生まれたようだ。

 ちなみにCQC(Close-quarters Combat)は現在の定義だと武器格闘や徒手空拳を含む近接格闘術のことを指すのが一般的で、こちらも第二次世界大戦中の英軍将校ウィリアム・E・フェアバーンが生み出した「ディフェンドゥー」や「サイレント・キリング」を纏めた「フェアバーン・システム」が祖とされている。

 つまり、CQBやCQCの概念は既にスペイン内戦の時代に生まれ、主に日英で第二次大戦を触媒に現在進行形で収斂されていると考えていい。

 まあ、その戦術の確立に転生者が一枚かんでいるのは間違いないだろうが。

 

 


***




 ともあれ、スペイン内戦の終結宣言が為された時に英国が維持していたのが上記の地域であった。

 そして、1942年現在も英国が実効支配し続けている。

 スペインは、第二次世界大戦開戦当初こそ一応はスペイン内戦の勝者であるフランコ将軍がこの地域の奪還を試みようとした。

 だが、コンドル師団帰国後以降、ドイツは「自分の戦争が忙しい」という理由で、援軍を出し渋った。

 すでに疲弊……スペイン内戦で日英が好き放題暴れたり、あるいは兵器の実験場にしたせいで、史実以上に疲弊したスペインが単独でジブラルタルの英軍にしかけられるわけもなく、手をこまねいているうちに今度は日英独の停戦が成立し、効果的な手がうてないまま現在に至る。

 

 

 

 そして、そんなジブラルタルに隣接しているのが仏領モロッコだった。

 

「仏領マダガスカルが日英に取られて手を出せないとして、偽フランスの腐れドゴールの要請で動くという建前を作れ、尚且つ西部戦線という名目が立ち、加えてジブラルタルに圧力を加えられる……これだけの条件が揃って狙わない理由がないだろ?」


 これも真珠湾攻撃もなく、日英同盟を崩せず、英国を味方に付けられず、かといって日本とも敵対までは持っていけなかった”今生のアメリカ”に取れる、「史実とは異なる理由」の”最適解”であった。

 

 そして、近衛に言わせれば『最適解であるが故に読み易い・・・・』のだ。

 いや、これには誤解がある。

 アメリカが『モロッコへの上陸こそが最適解』になるように日英共同で状況を持っていこうとしているのだ。

 これこそが、”国家戦略”という物だった。

 

 

 

 そして、当然の疑問も解消しておこう。

 なぜ、”今になって、アメリカが参戦しやすい状況”をあえて作るのか……

 

「議会も国民も軍隊も本音では戦争に乗り気じゃない状況で、果たしてアメ公はどこまで”本気で戦争”できんのか、実に見物だとは思わねぇか?」


 クックックッと嗤う近衛……

 その表情は、如実に『生産力上げるばかりで、一人だけ血を流さねぇなんて許すわきゃねーだろ?』と物語っていた。

 

「とはいえ、万が一のことがあっても面白くはないな……本土で編成した追加の(三式戦車)試験部隊をシリア東部に入れ、シリアの部隊の一部をジブラルタルに移動させておくか……具体的には1個軍団程度。広田サンは永田サン(永田銀山陸軍大臣)に、野村サンは吉田サンに連絡を。そういう方向で調整してくれ」


「「はっ!」」


 
















************************************















 後日、ホテル”The SAVOY”のラウンジにて……

 

 

 

「相変わらず君の国のPrime Ministerは察しが良くて助かるよ。先読みして行動してくれるから色々手間が省ける」


「だが、それ以上に厄介な男だぞ? 何より喧嘩っ早い」


「それがどうした。率直過ぎるのも実直過ぎるのも政治家としては減点対象だが、我が国の国王夫妻に比べれば、その程度の厄介さなど物の数ではない」


 吉田は一瞬で理解と共感をしてしまうが……


「それは比べる対象自体が間違っているのではないか?」


 率直さや実直さが減点対象になるあたり、流石は「歴史上、素直という評価だけは受けたことのない国民性」の面目躍如である。

 

「とりあえず、コノエ首相の提案は”喜んで”と伝えておいてくれ。調整は実務者協議で決めて良いだろう。国王陛下への報告は、明日にでも私の方からやっておく」


「了解した」


 そして今宵も日英の古狸たちの夜は更けてゆく……

 

 














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