第271話 チトーとユーゴスラヴィア+アルバニアの顛末、そしてヒトラー虐という概念?




 ギリシャ本土奪還を目的とした”オペレーション・イオス”は、作戦目的は達成した物のある種、奇妙な終わり方を迎えた。

 ギリシャ本土奪還の追加作戦(オプショナルプラン)として発生した追加戦役クエスト、”アルバニア奪還作戦”とその顛末について語っておこうと思う。

 

 

 

 アルバニアでの戦闘は、アルバニア人とギリシャ人双方の共産パルチザンが互いに疲弊していたこと、ソ連やユーゴスラヴィアなどからの支援がなかったこと、また皇国軍がお決まりの焼け出された住民の為に被災者テント村→仮設住宅の設営というコンボ、食事の配給、無料診療所の設置などの現地住民の慰撫に務めたため、元々低かった民心は急速に離れ、いともたやすく各個撃破され瓦解していった。

 両者の残党はユーゴスラヴィアへ向かったようだが、その後の消息は不明だ。

 

 そして、戦闘終結してほどなく、トルコ軍のエスコートを受けゾグー国王が軍楽隊と共に凱旋、”アルバニア王国・・”の復活を宣言した。

 トルコ軍はそのまま治安回復・国土復興部隊としてアルバニア王国に残留することになり……それは即ちアルバニア王国が”実質的にトルコの保護国としての再出発”を意味していたが、第一次世界大戦前までオスマン帝国の一角であり、イスラム教を初め未だにオスマン帝国時代の色合いを強く残すアルバニア人は、国王の復権共々さほど抵抗なく受け入れた。まあ、「かつて知ったるなんとやら」ということだ。

 明らかにトルコの行動は、”ギリシャ王の凱旋”を参考にしたものだった。

 また、トルコ軍はトルコ軍でかつての領土であり、(クルド人問題などで)民兵の扱いに慣れているので、相応の自信を見せていた。


 アルバニアで”保護”したイタリア人捕虜は、武装解除の後にアルバニア駐留トルコ軍に引き渡された、ギリシャでのイタリア人捕虜同様に一時的にトルコ本国預かりとなった。

 その返礼として、”ハイリスクである事を理由にして”日本皇国は三式戦車の配備により余剰となるであろう一式中戦車並びに九七式軽戦車がトルコ・アルバニア駐留軍へ優先販売される方針が決定した。無論、訓練付きで。

 そう、トルコは周辺国に先駆けいち早く北アフリカで勇名を馳せた日本戦車を入手できることに大いに自尊心を満足させたようだ。

 

 

 








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 その後も、日本皇国としては例外的な行動が続く。

 共産主義国家であるはずのユーゴスラヴィアに「いや、厳密に言えば共産主義じゃなく社会主義国家だし」という口実で親書を送り、その返答と共に幣原特使が、全権特命大使としてわざわざ護衛付きの特別機でベオグラードに飛んだのだ。

 

「老人の茶飲み話に付き合って貰って感謝するよ」


 そう切り出す幣原に、

 

「ふん。日本人がわざわざベオグラードまで来るなど、何の用だと興味を持っただけだ」


 そう答えるのは、ユーゴスラヴィア人民解放軍司令官b”イソップ・ブロンズ・チトー・・・”《/b》だった。

 最初に幣原が切り出したのは、皇国軍に殲滅されかけているギリシャ人とアルバニア人の共産ゲリコマがユーゴスラヴィアに向かい、おそらくは国境を越えた経緯の説明。

 そして、ユーゴスラヴィアが”彼ら”にどういう処遇をしても、一連の件の代表責任者である日本皇国の名に懸けて、日本皇国だけでなくギリシャ王国もアルバニア王国も関知も干渉もしないことを確約した。

 また、今後、少なくとも戦時中は互いに不可侵・不干渉であることに合意した。

 

 意外なことに会談自体は終始温和な空気の中で行われ、さらに「この戦争が終わったら」互いに特使を送り合い、国交だけは結ばないかと意見書が取りまとめられ、交わされる運びとなった。

 そして近い将来、”ユーゴスラヴィア社会主義・・・・共和国”は、「共産主義・社会主義の赤色国家の中で唯一、日本皇国と正規の常設外交ルートを持つ国家」と特別視されてゆくことになる。


 まあ、日本皇国的には「国外逃亡を図った国内アカの受け皿が出来た」という喜ばしい話ではあるのだが。

 ちなみに日本皇国法では、犯罪者が国防逃亡(非合法な手段での国外脱出)した事が確認されると同時に慣例的に「国籍剝奪」処理が施行され、”国民の保護義務”が消失することを明記しておく。

 つまり、生かすも殺すも辿り着いた国の匙加減に任せるという訳だ。

 例えば、1920年代に日本人共産主義者の多くがソ連を目指し、そこで大粛清の巻き添えを食ったが……それに対して、皇国は「すでに日本人ではない」事を理由に公式に抗議することは無かった。

 ただ、義務として「元日本人が粛清された」という事実だけが官報に記載されただけだ。

 また、例え帰国したとしても国籍は復活せず「無国籍者」という扱いになる。

 

 以前は国籍剝奪の前に国際指名手配手続きなども行っていたが、史実同様に1923年に設立されたインターポール(ICPO:国際刑事警察機構)だが、本部がウィーンにあった為、現在は活動が無期限凍結されているために現在のような処遇になったようだ。

 ただし、日英を筆頭に二国間の犯人引き渡し条約は生きており、こちらは粛々と行わているようだ。

 「日本国籍を剝奪したのに皇国政府が犯人引き渡しを請求できるのか?」という当然の疑問はあるだろうが、その場合は「国内で犯罪を犯した無国籍者」という扱いになるそうな……

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 そしてこの状況に頭を抱えたのが、他の誰でもないドイツ総統アウグスト・ヒトラーだった。

 

「よりによって、日本皇国がチトーの覇権を確立・確定させるとはなっ!!」


 なんせ日本皇国の特使、それも貴族が「チトーのみ」と交渉して、共産主義者の巣窟から「五体満足で帰ってきた」のだ。

 つまり、日本皇国はチトーをユーゴスラヴィアの代表と認め、ユーゴスラヴィアは日本ととりあえず敵対はしないと約束し、日本もそれに応じた。

 これはユーゴスラヴィアの最大の外交的勝利であり、同時にその最大の功労者がチトーだ。

 

「日本は全く自分の地位をわかってないっ!」


 日本が単純に「これ以上、バルカン半島での面倒は御免だ」という理由でユーゴスラヴィアに釘を刺しに行ったというのは理解できる。

 ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアはドイツの同盟国であり、最低でもソ連と戦争中は無駄な動きはしないよう飴と鞭を使い分け、しっかり手綱は握っている。

 そして、ギリシャとアルバニアが陥落した以上、”火薬庫”と評されるバルカン半島も残る火薬要素はユーゴスラヴィアくらいだ。

 だから日本人が先手を打ったのは理解するが……

 

「だが、日本人は”ユーゴスラヴィアにとって日本がどれほど恐ろしい・・・・”かを全く理解しておらんっ!!」


 地球上で、あれほど「共産主義に対する敵愾心」を露わにしている国家はいない。

 実際に戦争をやってるドイツよりも、その不寛容の度合いは深いくらいだ。

 ユーゴスラヴィアにしてみれば、「アルバニアの次は自分達か!?」と警戒するのは当然なのだ。

 

「あ奴らは、世界の反対側から大艦隊で押しかけてギリシャ、アルバニアと立て続けに共産党とその戦闘員を根絶やしにした意味を理解していない……そして、ユーゴスラヴィアが”そんな国から不可侵の確約”をもぎ取った意味も……そして、”わざわざ日本側から出向いて不可侵を確約した”ことも……」


 日本は律儀に約束を守る事で有名だ。生き馬の目を抜く裏切り裏切る事が当たり前の欧州においてすら、それを曲げない崩さない。

 1世紀近く続き、現在進行形で履行され続けている日英同盟がそれを照明している。

 

(日本との条約は、他国と意味が違うのだ……それをチトーは理解してない訳はない)

 

 珍しくその夜、ヒトラーはモーゼルワインを3本ラッパ飲みにするという暴挙(痛飲)に出たらしい。

 盟友のハイドリヒは、苦笑しながら酔いつぶれたヒトラーを介抱したようだ。

 ハイドリヒには別の見解があり、既に意識を飛ばしたヒトラーに、

 

「レーヴェ、ユーゴスラヴィアは残るぞ……これからもずっと……あのお節介焼きの心配性の理解の範疇外にある国を共産国のくせにバックにつけやがったんだ……共産国の中で、あれだけが別格の別枠になる……日本人の事だ。チトーが生きてるうちに、民族問題とかあとのかこんをどうにかすりゅ……zzz」

 

 そして、その発言は(ドイツにとって)悪い意味で的中する。

 戦後、共産圏と称される国家の中で、唯一日本皇国との交易を成功させたのは、ユーゴスラヴィアだけだったのだ。

 そして見返りは、”日本産共産主義者の引受先(駆け込み寺、追放先)”になること……持ちつ持たれつの関係だった。

 共産主義(厳密には社会主義)なのに富裕国側という矛盾した存在、爆誕の予感である。

 

「でも、良かったじゃないか。これで少なくとも日英独にとり、ユーゴスラヴィアの弱毒化に成功したんだぞ?」

 

 と呟いたという。

 

 

 

***

 

 

 

 さて、ここでもう一つの皆様の疑問を解消しておこう。

 史実では、この時期、”ユーゴスラヴィア王国・・”だったはずだ。

 だが、この話では不思議と王室の名は出てこない。

 史実では、ユーゴスラヴィア政府がドイツ(枢軸側)につこうとしたが「国王自らがクーデターを起こし」政権を転覆したが、今度はドイツに攻め込まれるという波乱の展開となった。

 

 しかし、この世界では少々事情が異なる。

 前述の通り、ドイツはユーゴスラヴィアには一切、手出ししていない。

 契機は1934年に史実と同じく当時のユーゴスラヴィア国王がフランスで暗殺されたことに端を発する。

 そして、まるで”暗殺を待っていた”かのように赤色勢力の一斉蜂起がユーゴスラヴィア全土で起きたのだ。明らかに事前に入念に準備されていた動きだった。

 まだ即位していなかった王子”ペーターⅡ世(この時、まだ11歳)”は、英国へと一族郎党もろともに亡命した。

 この時期、ニコライⅡ世が凄惨な死を遂げてから10年程度だ。ボリシェヴィキ革命の残虐性を知っていたユーゴスラヴィア王族に選択肢はなかったと言ってよい。

 またユーゴスラヴィア王国自体が第一次世界大戦直後に誕生した”若い王国”であり、皇室外交どころか通常の外交も行っていなかった日本皇国が積極的に打って出るということはなかった。

 無論、「内政不干渉の原則を覆すだけの大義名分」が無かったからだ。

 

 

 

 ただし、当時の王族やそれに連なる者が「全員が安全に英国へ亡命できた」裏側には、何らかの取り決め、あるいは裏協定があったと今でも疑う声がある。

 陰謀説はともかく、この時点までの”ユーゴスラヴィア革命”は「史実以上にソ連の工作が成功した」レアケースであった。

 だが、その後はあまり褒められたものではない。

 共産主義は民族に貴賎は無いという建前(共産主義というフォーマットの上での平等)としていたが、燻っていた民族対立が一気に表面化したのだ。

 元々、王の暗殺の要因もセルビア人、クロアチア人、スロベニア人の寄り合い所帯ゆえの民族間の摩擦と軋轢があるのも事実だ。むしろ、民族対立をソ連に付け込まれたという見方もある。

 そして、それがどうにもならない本格的な内戦に発展する前に何とか諸問題を類まれなリーダーシップとカリスマ性を発揮しまとめたのが、イソップ・ブロンズ・チトーという訳である。

 ただ、政治的化物であるチトーでも、ユーゴスラヴィアは当初、一枚岩とは言えなかった。

 だが、その不安定な状態のユーゴスラヴィアならどうにかなる思ったか突っ込んだのがイタリアだ。

 そして、国土を侵犯する外敵に(一番まともに状況に対処できそうな)指導者チトーの元にユーゴスラヴィアは一応のまとまりをみせた。

 仮称”ユーゴスラヴィア社会主義共和国”の基礎が出来上がったのだ。

 そりゃあヒトラーが激怒するはずである。

 そして、今度は共産主義者を否定するはずの日本皇国が、「共産主義国家ではなく社会主義国家だし」という建前で(バルカン半島の安定化のため)穏健な対応をした。日本皇国が”事実上”、国家として承認する(公式ではなくとも、特使を派遣したというのはそういう意味にとられる)事でにっくきチトーの支配権が確立してしまったのだ。

 ヒトラーが痛飲するわけである。

 

 

 

 ヒトラーとて、王族が亡命したユーゴスラヴィアを実効支配しているのがチトーで、日本皇国がユーゴスラヴィア王家よりバルカン半島の安定化を優先した判断だというのは理解している。

 理解しているが……それでも、やるせない物はあるのだ。

 

(きっと英国はペーターⅡ世に公爵位を与え、領地を持たないカラジョルジェヴィッチ公爵とすることで茶を濁すに違いない)


 ユーゴスラヴィアの王位継承法では「ユーゴスラビアの領土内で誕生した者にしか王位継承権を認めない」という物がある。

 おそらくはそれを利用するつもりだろう……

 

(英国は、東欧に深入りするつもりはないだろうからな……対処に苦労するのは我が国ドイツだ。所詮は他人事だろう)


 ヒトラーの優秀な脳味噌は、アルコール漬けの夢心地にあってもなお、解答を求め続けていた。


(その証拠にチトーは王政廃止を宣言した時も何も言わなかったではないか……おのれ、ブリカス……)

 

 そしてようやく、脳は睡眠の深遠へ落ちて行くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 振り返ってみれば、”オペレーション・イオス”は、なんとも収まりの悪い終わり方だったのかもしれない。

 強襲揚陸が奇襲揚陸に変わったことに始まり、”ギリシャ内戦”が前倒しとなり非対称戦が発生。

 イタリア軍を降伏させながら保護する羽目になり、ギリシャ本土奪還は成功したが、トルコに借りを作ることになり、それがアルバニアにまで波及した。

 最終的にユーゴスラヴィアの雄、チトーとの会談と相成った。

 作戦目的は達成できたので作戦自体は成功と称しても問題ないが、素直にそう言い切るのも何か引っかかる感じだ。

 別に日本人が関わる作戦だからって予定通り行くわけでは無いのだが、今回はイレギュラーが多すぎた。

 その分、多くの教訓と戦訓が得られた事も、また事実ではあるが……

 

 

 

 とはいえ、これら一連の戦争は戦後処理まで含めても1942年の11月末から12月の初めにかけ一応の決着を見せ、ギリシャでは盛大にクリスマスが祝えるようになった事は幸いだろう。

 日本人的に言うなら、平穏な年末年始だ。

 とりあえず、戦争は1943年に持ち越されるようである。

 

 そう、”日英同盟史上、最大の作戦”に……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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