第184話 自動車とワインとコーヒーと
「いと哀れなり……」
本国より届いた、面識はないが外務省の同僚の”顛末と処分”が書かれた電文を読んだ大島駐独大使はそう呟いた
「外交官と言う器に収まらなかった事が、その身の不幸か……」
僅かに憐れみ、そして大島は執筆を再開する。
リッベントロップ卿に引き合わされ知己を得たドイツ自動車工業協会より頼まれたそれは、
”素晴らしきドイツのラグジュアリー・オートモービルの世界”
というタイトルが記されていた。
要するに大島なりドイツ愛を込めた、”ドイツの自動車は世界一ィィィィーーーーッ!”な本だ。
ただ、これがドイツ車だけの本ならいざ知らず、これが各国の自動車とに比較があったりしてそれが後々物議を呼ぶことになる事を大島はまだ知らない。
そして、今日も晩酌代わりに最近お気に入りの銘柄のモーゼルワイン(白のアウスレーゼ)を楽しむのだった。
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来栖任三郎の懲戒免職や国籍剝奪の件は、さほどモスクワでは話題にならなかった。
なぜなら、”カティンの森”が国際連盟臨時総会で暴露されたばかりの時期だったからだ。
たかが、「サンクトペテルブルグの復興を丸投げされていた日本人が、労働力として使っていたバルト三国人の人足を不法占拠されたソ連領土に派遣した咎で解雇された」くらいでどうということはなかった。
いや、正確に言えば”セント・バレンタインデーの喜劇”やらホロドモールの証拠や証言付きの告発やら”カティンの森”の国際合同調査団の派遣やらで外交リソースも共産党もNKVDもコミンテルンもいっぱいいっぱいで、”そんな些細な事”にかまってる余裕はなかった。
しかし、それよりいくらか余裕があったのはアメリカ合衆国だ。
無論、国内の
一応は反日親ソ中国Loveであっても、自身は別に共産主義者ではないルーズベルトにも来栖に関する報告書は届いていた。
「つまり、サンクトペテルブルグの復興担当だった
ルーズベルトに問われた国務長官のハルは、
「特にありませんプレジデント。しいて言うなら、この件で日本皇国を叩こうとしても、”外務省はクビにしたし、すでに日本人じゃない者に関しては関知できぬ”と知らぬ存ぜぬを通されるだけということでしょう」
「なぜ、プレジデントである私が、たかだか国から見放された日本人を気にせねばならん?」
「一応、お耳に入れておこうかと。少なくとも今回の件、日本皇国の政府も外務省も重く見たということでしょう。外務省の解雇ならまだしも、彼らが国籍剝奪に至るのはレアケースだと断言できます」
「たかが子飼いの線路引きを他国に送り込んだことがかね? 随分と臆病な判断をしたものだ。どうやら日本の外交官は、不安定化工作などはできんとみえるな」
そうバカにしきった目をするルーズベルトに、
「肯定です。今回の件を問題とするなら、その様な活動は許可されないでしょう。原則として、彼らは額面通りの外交作業以外の活動は著しく制限されているようです。彼らが諜報的分野で許されているのは原則として、受動的な情報収集の範疇とプレスリリースまででしょう」
「まあ、プレスリリースは注意しないとならんな。実質的にそれこそがユナイテッドステーツに対する不安定化工作として機能している」
ここで今のアメリカ合衆国の”構造的かつ致命的欠陥”が浮き彫りになっていた。
なぜなら、真相を羅列しただけの大使館よりのプレスリリースが、「なぜ不安定化工作に
それだけ麻痺してるとも考えられるし、そういう風に赤色勢力に誘導されているともとれる。
しかし、そこに疑問を挟まないあたり、彼らの赤化汚染度は深刻と言えた。
「ふむ。相分かった。では、ドイツ駐留の日本人外交官監視リストからクルスの名前を外したまえ。これで要注意のドイツ贔屓、オオシマに傾注できるというものだ」
「そういえば、オオシマに関しては新たな情報が入っています」
「……どんなだ?」
「オオシマにはドイツ外務省の大物アドバイザー、リッベントロップがメインホストとしてついていますが、その裏で動いてる者が判明しました」
「それは興味深いな」
さっさと先を話せと促すルーズベルトに、
「NSRも一部関わっていますが、それは保安面です」
「うむ」
「オオシマ大使の活動を全面的にプロデュースならびにバックアップしているのは、”ドイツ宣伝省”です。予算などは宣伝省がサポートし、宣伝相ゲッベルスが陣頭指揮を摂っている可能性があります」
「!? バカ者っ! そっちを先に報告せんかっ!! 外務省ではなく宣伝省がバックにつくと言うことは、即ちドイツがオオシマを”ドイツの対外的
「はっ」
「ええいっ! おのれオオシマ……あの男の厄介さは知っているだろう? 政治的な意図など全く入れず、ただただドイツへの愛着を文章に起こし、それは理性ではなく感情面、情緒面で訴えてくるのだっ! ハル、あの男が発表したドイツワインに関する冊子が我が国のドイツ系住民を中心に配布されたのを知っているか?」
「”香しきドイツワインの故郷を訪ねて”でしたな?」
「その冊子はなんと結ばれているか知ってるか? こうだ。『戦争というのは不幸なことだ。だが、真の不幸は戦争を理由にこの素晴らしく芳醇なワインを味わえない事だろう。41年はブドウの当たり年だという。フランスに続きドイツもワインの輸出を再開した。それを手にすることができる幸運な人々は、是非飲み頃になる瞬間を楽しみにしていてほしい』だ」
「……名調子ですな」
「ふざけるなっ!! あの男は、”ドイツもフランスも戦争中でも問題なく市民生活が続いてる。
「つまり、印象操作……”戦争の矮小化”ですか?」
実はこれかなりアメリカには手痛いやり口なのだ。
これだけの大戦争をやっておきながら、〆の一文だけで「ドイツはノーダメージ」、「名物のワインが輸出できるくらいフランス本土は安定している」というアピールしてしまっていた。
腹立たしいことにこれは事実だった。
第一次世界大戦を契機に一度衰退したドイツワインは、1933年にナチスが政権を獲得してから外貨獲得手段として大々的に農地改革や農業の近代化に手を入れ、利ザヤの大きいワイン生産を奨励し、日英との停戦合意から程なく輸出を再開し、その輸出量は最大を記録した1914年の19万ヘクリットルに迫ろうかという勢いだ。
フランスは、あまりにも早く降伏し、また早急に政府機能が回復しパリ返還を象徴とする再独立を果たしたためにブドウ園やワインシャトーにほとんどダメージを受けておらず、また1935年に制定された品質保証のAOC法がドイツ占領下でも機能していたせいもあり、『戦後復興と国際社会への復帰の象徴』としてフランスワインは、大々的に輸出再開を世界中でプレゼンテーションしていた。
そう、「アメリカが
無論、政府の人間はまだレンドリース品が前線に行き渡っていないことを知っている。
だが、クリスマスにあれだけ派手な出港イベントをやったのだ。それもわざわざ米ソ親善を前面に押し出して。
つまり、アメリカ国民の認識では、「ロシア人はもう米国製装備で戦っている」という認識なのだ。
そして、同時にアメリカはこの”オオシマ・ワインレポート”が世界中で、「ドイツのワインカタログと一緒に」配布されているのだ。
蛇足ながらこの時代はカルフォルニアワインを含むいわゆる”新世界のワイン”が認知される前で、本場である欧州産ワインのような大御所に比べればアメリカのワインなど「ローカルでチビチビと消費される田舎ワイン」という程度の認識だった。
アメリカ人ですら、自国でワインを生産していることを知らなかった時代なのだ。
まあこれは、悪名高い”禁酒法”によりアメリカの酒造産業が一度大きく衰退した影響も大きいが。
「ハル長官、クルスに張り付けていた人員を全てオオシマに回せ。むしろ増強しろ」
完全に座った目で言うルーズベルトに、
「よろしいので?」
「オオシマはコノエに匹敵するほど危険なのが分からんのかっ!? コノエはハードコアな政治屋としての発言で対処できるが、オオシマはソフティケートされたやり口で、市民感情をダイレクトアタックして来る。分かるか? 以前の観光地レポートと今回のワインレポート、それを何も考えずに読んだ市民は『平和になれば、ドイツ旅行でワインを楽しむのも悪くない』などと考えてもおかしくないのだ! 今は戦時中で、ドイツは敵国だぞっ!? 悪質にも程があるわっ!!」
大前提ではあるのだが……独米もまた、交戦状態には
一般的なアメリカ人にとり、戦っているのは独ソだけであり、例えソ連を米国が全面支援してようと戦争とは”遠い世界の他人事”であり、自分たちに直接的関係があるようなものではない。
当然のように当事者意識など、直接被害を受けてないのであるはずがない。
その被害とて「税金が高くなるかも」とか、まだまだその類だ。
いくらアメリカ国内に深く広く根を張る共産主義者でも、「アメリカとドイツは交戦すべし」という所まで
無論、赤い同志は日々アメリカを参戦させるべく世論操作に汗水たらし、”セント・バレンタインデーの喜劇”も何とか開戦理由にしようとしたが、それを呼び水にしたホロドモールや”カティンの森の虐殺”で、今はその独米開戦計画その物が暗礁に乗り上げかけていた。
確かに、国連臨時総会の話題は表向きは封殺したし、出来たはずだ。
だが、カナダからのラジオ放送は北部なら多くの場所で受信できるし、コミンテルンが手をまわしきれてないローカルラジオ局やタブロイド紙などいくらでもある。
情報の完全封鎖とは、存外に難しいのだ。
特にアメリカのような多民族国家では。
そこに追い打ちをかけた形になったのが、大島のワインレポートという訳だ。
***
だが、ルーズベルトは知らない。
その大島大使が、戦争そっちのけで「アメリカ人の(特に富裕層が欲しがりそうな)ステータスシンボルになる高級ドイツ車」のレポートを執筆中だということを……
そう、とてもいやらしい事にドイツは、いやドイツの勢力下にある全ての国の自動車産業は、新車種の発表こそ自粛してる物の、未だに民生車を生産してるばかりか、それらを(戦費調達もかねて)輸出さえしているのだ。
ドイツの、いや”ドイツを中心とした西欧連合”の総合生産力は、アメリカ人の想像よりも遥かに高い場所にあった。
そして、大統領には不都合な現実がある。
軍用車も民生車も並行生産しているオペルは、ドイツの企業ではあるが「今でもGMの100%子会社」であり、フォードは今でも”リンカーン・ゼファー”や”リンカーン・コンチネンタル”などの高級車を中心に対独輸出で堅調な売れ行きを示していた。
無論、大都市にしかないとはいえフォードの代理店も普通に機能しているし、ドイツも特に対米輸出入は民生品に関しては、特にこれといって”制限していない”のだ。
クライスラーとて指をくわえて見ているつもりはなく、”インペリアル”、”ロイヤル”、”ウィンザー”などのどこぞの王族に喧嘩売っているようなラインナップを輸出する気満々だ。
ハッキリ言えば、米国もまた軍需物資を除けば、対独輸出をあまり規制できていない。抜け道が多々あるからだ。
輸入に関してはある程度は規制しているが、輸出に関しては一部品目を規制しようとしたら「日本皇国への輸出を全面禁止にしようとした」時と同じ、それ以上の反発が起きた。
一番激しかったのは自動車業界ではなく、実は米国企業が裏庭と認識している南米大陸に巨大権益を持つコーヒー産業だった。
知ってる方も多いと思うが、ドイツ勢力圏は、同時にコーヒーの一大消費地でもある。
そこに巨大な商機が横たわっているのに、見逃すのはアメリカン・ビジネスマンとしては失格だ。
そこで合衆国政府(の中にいる
さて、では早速上記の抜け道に関する実例をあげよう。
この世界線において、史実と異なりドイツはノルウェーとデンマークを(意図的に)攻めていないし、スウェーデンは史実よりややドイツと親密だが以上の三カ国全てが”(親独)
付け加えるのなら、ノルウェーもデンマークもスウェーデンも、元々国民一人当たりのコーヒー消費が多いことで知られていた。
つまり、アメリカのコーヒー業者は「元々輸出していた国の需要が増え、それに応じただけだ」と強弁できる。
だから、三カ国向けに輸出し、そこからドイツは買い付ければ良いだけだった。
更に永世中立国であるスイスのネスレ社が南米産のコーヒー豆の大量買い付けを堂々と発表した。
彼らには切り札があったのだ。
そう、1938年4月1日スイスで世界で初めて販売された”インスタントコーヒー”だ。
買い付けたのはスイス企業であり、加工して輸出し何が悪いということだ。その結果として、ドイツ軍にインスタントコーヒーが大流行したとして、いったい誰が責められるというのか?
結局、エンドユーザーの問題ではない。輸出元と輸入元の商取引の問題なのだ。
これは一例に過ぎないが……まさに”資本主義、万歳!!”である。
アメリカがいかに赤色に汚染されていようと、
史実において、”真珠湾攻撃”で全てが変わったとアメリカ人は免罪符のように飽きもせず繰り返す。
全ての常軌を逸した強硬策は、真珠湾で全て正当化されると本気で思っている。
だが、その免罪符が発行されることのないこの世界線において、ドイツは明確に外交的勝利を重ねているのだ。
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