第147話 月光に水面がほのかに輝くその夜に、”彼女たち”はそっと現れる。巨砲を携えて




 さて、陸の話も海の話もした。

 ならば、空の話もしないと片手落ちになるだろう。


 そもそも、見方によっては陸海より遥かに早いタイミング……バルバロッサ作戦の発動直後、つまりまだ”白夜”の時期に断続的にフィンランド領内から飛び立ち、空爆を行っていた。

 

 そう、執拗に”昼間・・爆撃”を繰り返していた。

 十分な数の史実ならF-4以降相当のBf109とFw190Aを護衛に付け、Ju87D急降下爆撃とJu88A双発爆撃機が主力だった。

 ソ連としても顔なじみの機体ばかり。

 大型の4発機は、今までムルマンスク上空では確認されていない。

 

 無論、気の抜けた爆撃ではない。

 そして、上がってくる迎撃機は片っ端から叩き落とした。

 

 この時期、ムルマンスクだけでなくソ連全体にヤンキーファイターは届いておらず、生産時期(まだ、本格的な量産が始まってるとは言えなかった)と資材・輸送の制約からYak-1、MiG-3などの最新鋭機の数は少なく、おまけに製造精度と整備員の技量の低さ、部品の供給不足から稼働率は低かった。

 むしろ、複葉機のI-15やI-153、時代遅れのオープンコクピットのI-16がまだまだ主力という有様だったのだ。


 そして、ドイツ人の爆撃は武器・弾薬庫や食糧庫、兵舎、司令部、飛行場、高射砲陣地、港湾施設、発電設備、燃料貯蔵施設と軍民問わず重要施設、インフラの破壊を徹底した。

 時には軍港だけでなく修理中の船にモロトフのパン籠よろしくクラスタータイプの焼夷弾をばら撒き、港に最新鋭ではない・・・・タイプの浮遊機雷を落としたりもした。

 

 実にエコ、あるいはコストパフォーマンスの高い航空作戦だった。

 機体の性能差以上に労農赤軍のパイロットは腕が悪く、地上でも空でも標的に過ぎない。

 あるスオミ人のエースなどは、「これじゃあ空中戦じゃなくて射的大会だ」とぼやいたという。

 

 ソ連にはレーダー防空システムは無く、おそらくこの先も当面はない。

 我々の世界史でも実はレーダー先進国は英独であり、米国は英国の協力がなければまともな性能のレーダーも、近接信管VTヒューズもおそらくは戦時中に開発できなかったであろう。

 

 そして今生、この世界線においては「英国はソ連から来ようがアメリカから来ようが、”赤い客人”」を受け入れる気は毛頭なかった。

 英国内に居るであろうまだ姿を見せぬ”転生者うらかた”達は、戦後の英国の凋落の一因が米ソである事を忘れてはいないのだ。

 彼らは、米国や赤色の踏み台になる気はサラサラ無かった。

 

 

 

***



 

 そして、ムルマンスクのロシア人が軍民問わずに待ち望んでいた”極夜”の季節がやって来た。

 経験・・から、ロシア人は自分達の航空機が極夜において作戦能力を失うように、ドイツ人の飛行機もまた夜間作戦能力がないと信じ切っていた。

 当然だった。彼らは”バルバロッサ作戦”の開始以降、一度も夜間爆撃を経験していない。

 これでようやく度重なる攻撃でもはやムルマンスクにまともな対処法が残されていない、あの恐ろしいドイツ軍の空爆に怯えなくて済むと。

 それは、ドイツ海軍航空隊・・・・・に対しては、全く正しい。

 彼らの航空機は、夜間爆撃できるようには今のところは出来ていない。

 だから、今回の作戦には空母機動部隊を連れてこれなかったのだ。

 

 ムルマンスクのロシア人は、考える。

 どんなに苦しい状況であっても陸戦なら、極夜の闇と厳しいムルマンスクの冬が自分達の味方だと信じていたのだ。

 実際に、ロシア人は無謀にも西の鉱山街”ペツァモ”からムルマンスクへ侵攻をかけようとするドイツ人を何度も追い払っていた。

 それが彼らの自信であり、心の拠り所だった。

 

 そこにわずかながらの油断と慢心があったのは間違いはない。

 南から攻めあがってくる部隊も、重厚に幾重にも張り巡らせた防衛線で対処できると考えていたのだ。

 

 だからこそ気づかない。

 爆撃からの復旧や防御線設営の労働者として強制徴用した”周辺住民”の中に、ロシア語が堪能でもロシア人ではない者が混ざっていたことに。

 そして、自分達の中にも内通者がいたことに。

 彼らは、爆弾が降り注ぐ中も連絡を取っていたのだ。

 

 厳しいロシアの冬を生活の場にしていた自分たちにとりムルマンスクなど取るに足らない環境だが、ドイツ人にとってはこの環境が過酷な物であると信じていたムルマンスクの赤色軍人は気づかない。

 少なくとも、スオミ人とスオミ人から冬の戦争とは何たるかを学んだ”北方軍集団の・・・・・・ドイツ人”にとり、沖のメキシコ暖流の影響で港が凍らない程度に冬でも暖かく、また日本の豪雪地帯より遥かに雪が薄いムルマンスクなど大して厳しい環境では無いということを。

 

 要するに……彼らは、ムルマンスクに慣れ過ぎていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

******************************















 資料によれば極夜特有の薄暗さに包まれたムルマンスクに、最初の火の手が上がったのは現地時間で1941年12月8日午前10時の事だったという。

 極夜のこの時期、日の出と日の入りまでの時間は正午の30分程度しかない。

 しかも、完全に水平線から顔を出す事はない。水平線の”へり”を水平に動き、すぐ沈む。

 そして、午前10時の太陽は水平線の下にあり、ぼんやりとした仄暗さの世界を作り出していた。

 黄昏時のような情景、黄昏時の別名は”逢魔が時”。

 言い得て妙だ。

 確かにムルマンスクには、ドイツ産の”機械仕掛けの海魔レヴァイアサン”が迫っていたのだから。

 

 

 

 奇しくもこのタイミングは、我々の知る歴史ならば”真珠湾攻撃”が始まった日時とおおよその符合が一致する。

 ただし、ヒトラーはそれを別に狙ったわけでは無いのは記しておきたい。

 市内各所で唐突に上がった火の手は内通者や潜入工作員が仕掛けた、テルミット爆薬をふんだんに使った時限発火装置や有線、無線発火装置だ。

 

 さて、皆さんは第二次世界大戦の夜間爆撃において取られた代表的な戦術、爆撃先導機パスフィンダーとマーカーをご存じだろうか。

 パスフィンダーとは文字通り爆撃機隊を先導して飛ぶ夜間航空機で、高速高機動を生かして爆撃の目標となる場所に発火体マーカーを落とし、それを基準に後続の爆撃隊が爆弾を落とすのだ。

 その模様は、”ドレスデン大空襲”などで検索すると分かりやすくて出てくるかもしれない。

 

 このムルマンスクの反赤色な人々が果たした役割こそが、まさに「マーカーを灯す」だったのだ。

 だが、史実のドレスデンとの違いは、パスフィンダーが行う役割を人力でこなしただけではない。

 とりあえず、最初に降り注いだ物が違った。

 最初に飛んできた物が航空機から投下されたのは爆弾ではなく、”投射された砲弾・・”だったのだ。

 正確には、ドイツ自慢のドイツ海軍最大の巨砲であるSKC/34型38cm47口径長連装砲から放たれた、重量800kgの砲弾だった。

 

 そう、”彼女ら”はもう来ていたのだ。

 直線距離で約25㎞離れた”セヴェロモルスク”の沖に、38㎝砲をその身に宿らせる”ティルピッツ”と”シャルンホルスト”が……

 

 そう、このドイツ海軍最大の巨砲を携えた2隻こそ、前話の最後にて”ポリャールヌイ”と”セヴェロモルスク”に暗闇の彼方から巨弾を飛ばし、地図上の表記に変えてしまった真犯人だった。

 

 それにしても……月光に水面がほのかに輝く極夜、やはりティルピッツにはフィヨルドが、シャルンホルストには雲形の迷彩が映える寒い海がとてもよく似合っていた。















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る