第93話 クラスノエ・セロの戦い、またそれに繋がる数多の戦い。あるいは勇者のごとく戦い、英雄の如く斃れた者達の哀歌




 ”クラスノエ・セロの戦い”

 

 この世界でその名で記録された(この先の激戦と比べるなら)小さな戦いは、史実とは違う評価を戦史研究家から受けることになる。

 曰く、

 

 ”ヴォロシーロフ元帥の迂闊さが招いた悲劇”

 

 である。

 さて、なぜそう呼ばれることになったのか、順を追って説明しよう。

 

 ヴォロシーロフ元帥の手元にレニングラード南西部にある、クラスノエ集落セロにドイツ軍が大規模な重砲陣地を築城としているという情報が入った。

 冗談ではなかった。

 実質的にレニングラード市外延部に隣接していると言って過言ではないこんな場所に重砲陣地を築かれては、都市の中心部まで名だたるドイツ製重砲群、21cm/Mrs18重臼砲や17cm/K18重カノン砲、15cm/sFH18重榴弾の砲弾の雨に晒されてしまう。

 それは断じて避けねばならなかった。

 

 加えて言えば、レニングラードの状況は史実のそれよりも更に悪かった。

 北は”セルトロヴォシエラッタラ”まで抑えられ、カレリア地峡のほぼ全域がフィンランド軍の手に落ちた。

 西はレビャジエに前線陣地を張られ、南は集落のすぐ東ヴィルロジに巨大な集積地が作られるという。

 そういう意味ではロシア皇族の夏の邸宅の一つ”ガッチナ宮殿”で有名なガッチナも陥落しているが、史実と違って宮殿が荒らされ美術品が持ち去られるなんてことは断じてなかった。

 むしろNSR(国家保安情報部)が特別編成警備隊を組織し、厳しく文化財破壊防止の為に見張っていた。

 無論、政治意図はある。

 ここはいずれフィンランドに”ハツイナ(Hatsina)”として返還・・されるべき場所で、”象徴”として見栄えをよくしておきたいのは当然だった。

 どこぞの日本皇国人が言っていたが、ドイツは最終的にコラ半島、カレリア地峡とカレリア共和国、イングリアをフィンランドに投げる方向でまとめているようだ。北の大国の誕生である。

 

 それに文化財保は、戦後の国際的イメージアップも当然のように視野に入れている。

 俗っぽい言い方をすれば、国家的な強盗殺人と婦女暴行を繰り返すソ連に対し、ドイツは対比としてお行儀良い軍隊でなければならなかった。

 そのための努力は相当力を入れられており、正しい意味での綱紀粛正とソ連の暴虐の証拠集め(宣伝相の強いリクエスト)と並んで重要なNSRの任務だった。

 だからこそ、NSRはカナリスの軍情報部や一部の任務が被る特殊任務部隊ブランデンブルグと並んで憲兵隊とは持ちつ持たれつの良好な関係を構築していた。

 

 他にも要所で言えばプスコフ、ノヴゴロドは陥落しており、ヴォルホフ方面からの東の補給路はまだ絶たれていないが、補給部隊は常に甚大な被害を出していた。

 それはレニングラード周辺の制空権を完全にドイツに掌握された影響が大きく、それにより四六時中偵察機や爆撃機が飛び交い、ソ連輸送部隊に消耗を敷いていたのだ。むしろ、兵站を消耗させるために補給路を閉ざさなかったとする説すらある。

 ラドガ湖を用いたルートも結局は市内に入れるには一度陸揚げをせねばならずそこを狙われることも多く、またラドガ湖西岸にも航空機散布型の単純な構造(ソ連に鹵獲されても問題ないレベル)の船を沈めるというより損傷させて荷揚げを妨害するような小型浮遊機雷が数多く撒かれ、地味な嫌がらせになっていた。

 

 

 

***




 そして、最悪なのは海だ。

 レニングラード沖に浮かぶコトリン島、レニングラードを守る最後の軍港にしてクロンシュタット・バルト海要塞を抱える東西14㎞、南北2㎞の島はその小ささゆえに満遍なく焦土と化していた。

 ”ワルプルギスの夜”作戦でバルチック艦隊の主力は辿り着くことなくバルト海に沈み、残った軍艦は挑発に誘引され沈められたか、あるいは港に居るまま破壊された。

 基地航空隊は、ドイツ人の3隻の空母に蹂躙され、島のベトンで固められた砲台はドイツ戦艦の38㎝47口径長砲から放たれる元々は英国の対沿岸装甲砲台トーチカ用を名目に開発した「超重量地中貫通型徹甲榴弾ブンカーバスター」の直撃に耐えられるようにはできていなかった。

 これは中々に曲者で、米軍の通常の砲弾より長い超重量弾(SHS)を参考にしたとされ、地中やベトンに潜り込んでから遅延信管で起爆する砲弾だった。

 

 

 

 こんな物に撃たれる事は想定しておらず、また砲自体の射程も射角も足りておらず、航空隊が壊滅したことで悠々と飛ぶ弾着観測機の元で行われるアウトレンジからの一方的な艦砲射撃の前に一つ一つ沈黙していった。

 無論、高射砲や対空機関砲の陣地もあったが、そんなものは場所が露呈するなり艦砲射撃や艦上急降下爆撃機の的になっただけだ。

 

 そして、最後はお決まりのHe177Bによるテルミット型焼夷弾と言葉を濁さず言えば”ドイツ式ナパーム”型焼夷弾の絨毯爆撃劇場となった。

 この海の要塞は、焼夷弾がここまで極まる前の時代に建造されたことが仇となったのだった。

 コトリン島は軍港クロンシュタットを抱える海上要塞として定義されており、いかなる意味でも民間人居住区には該当しなかった。

 レニングラードから見えるこの島をここまで派手に物理的大炎上させた理由は、明らかに「抵抗を続ければ、次はお前らがこうなる」という脅しであり警告であり、見せしめであった。

 

 ちょっと想像してほしいのだが……

 艦砲版の”めり込んでから爆発する”ブンカーバスターで天井が崩された、あるいはグズグズになった、良くてもあちこちにヒビが入り、何となく外気と繋がった気がするブンカーやトーチカの上に、間髪入れない見事な連携でテルミットやナパームが降ってくるのだ。

 史実のダイダルウェーブ作戦ほどの物量じゃないかもしれないが、フィンランド方面から飛んでくるドイツ軍のグライフ隊は、どんなに少なくても30機以上でコンバット・ボックス編隊でやってくるのだ。

 無論、護衛戦闘機も引き連れ。

 つまり、空襲の度に最低でも100tの焼夷弾が落とされるのだ。

 それがクロンシュタット要塞を中心にコトリン島全体に約半月続いた……

 ドイツ人の念入りっぷりや凝り性がこんなとこにも現れた。

 ちなみにこの時期、フィンランドにはコトリン島だけでなくレニングラードももちろん爆撃圏内に収めたHe177Bが180機ほども配備されていて、それがローテーションを組んで護衛引き連れ爆撃するので、全く出撃回数ソーティー的にも無理がかかってなかった。

 また、消耗される物資も安全が確保された(バルチック艦隊はこの世になく、英国は邪魔する気配がない)バルト海をピストン輸送していたそうだ。

 

 

 

 そして、ドイツはこの後、政治的にとてもやらしい手を打ったのだ。

 コトリン島をフィンランド語読みの”レトゥサーリ(Retusaari)島”に改名し、そのこんがり焼きあがった島の防備と管理、ついで島周辺の掃海作業も合わせて自軍ではなくフィンランドに依頼した。

 無論、フィンランドは拍手喝采だった。政治家の中には過度にドイツと歩調を合わせる動きを危惧する者もいたが、建国以来ソ連に恨み骨髄の民意には逆らえなかった。

 そのような発言が表に出た瞬間、「アカの手先」というレッテルを貼られ、リコール運動が誰の手でもなく国民から自発的に上がるようではどうしようもなかったのだ。

 ただし、島丸ごとローストされた情景に上陸部隊は絶句し、短期での再興はあきらめたようだが。

 




***



 結局、艦隊のない海の要塞はその実力を発揮できぬまま溶岩モドキとなった。

 最後の砦が無くなった以上、ドイツ艦隊は水上打撃艦隊の戦艦も航空機動部隊の空母も水雷戦隊の巡洋艦までもがりたい放題だった。

 掃海完了を受けた海域エリアまで入り込み、砲弾が空になるまで撃ち尽くす戦艦隊などはまさに圧巻であり、そして海からの攻撃を……特にコトリン島の内側まで入られて艦砲射撃を食らうなど想定していなかったレニングラードは、戦略爆撃以上の大打撃を受けたのだ。

 

 その中で、一つ象徴的なエピソードがある。

 

 史実では、ジェーコフ到着後の話であったはずだが砲兵火力の集中で目覚ましい成果をあげ、36.5サンチ砲一門で戦車35両、砲12門、一個歩兵大隊、弾薬列車一本を撃破したという記録がある。

 だが、この世界線ではおそらくそのようなレコードは出ることは無い。

 なぜなら、何とか戦艦を追い払おうと砲口を向けようとして……そして、返り討ちにあったのだ。

 なにせ巨砲の門数が違う。集中度が違う。

 そして、相手は陸上固定砲台と異なり、自由に洋上を動き回れる。

 

 海からも空からも既にレニングラード市内は攻撃にさらされている。

 これで、陸上からの重砲による集中攻撃なぞされたら、それこそ目も当てられない。

 レニングラードは早々に防衛機能を失い、瓦礫しかない街に突入されたら、圧力に押されるようにもう逃げ出すのがやっとだろう。

 

 同志スターリンから事実上のレニングラード死守命令を受けていたヴォロシーロフは、決定的な崩壊と破綻を一日でも先送りするために、折れかけている士気を鼓舞するため自ら黒服の海軍歩兵を率いて出陣することを決めた。

 

 要するに、ヴォロシーロフもまた相次ぐ敗北で追い詰められていたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*******************************

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、ドイツはまるでヴォロシーロフの行動を”知っていた”ように動いた。

 いや、厳密に言えばつぶさな観察と事前に入り込ませた諜報員の活躍で、その兆候を捉えたのだ。

 もっとも、NSRと国防軍情報部アプヴェーアの連名で「戦況分析の結果、レニングラード防衛軍に冒険的行動の可能性あり」といくつかの予想される行動パターンとして通達されていた為に敏感に察知できたという背景もあった。

 

 そこで地上軍は一計を案じた。

 砲兵陣地構築予定のクラスノエ・セロに陣地構築の工兵隊に”偽装”した囮部隊を配備したのだ。

 彼らは、国防軍特殊部隊ブランデンブルグの1セクションで、多くの兵科の部隊に擬態・・する訓練を受け、何よりの特徴とするのは「抜群の偽装撤退」の手腕だった。

 つまり、彼らは「敵を打ち倒す」事ではなく「引くことで敵を誘引する」役目を負った”生存特化部隊・・・・・・”だった。

 

 

 

 そして、ヴォロシーロフは黒服の赤色歩兵を引き連れてやってきた。

 もちろん、そうなるように情報は流した。抜かりはなかった。

 自ら先頭に立ち、鼓舞しながらヴォロシーロフはやってくる。

 自らの圧倒的な戦闘力があると言い聞かせ、ドイツ軍”工兵隊”を見事蹴散らせてみせたのだ。

 

 ヴォロシーロフは、作戦成功を確信した。

 自ら部隊を率いることで、ドイツ軍を蹂躙したのだ。

 実感できた勝利に多幸感を覚える。

 そして、

 

「「「元帥閣下ぁぁぁっ!!?」」」

 

 高らかに勝利宣言をしようとした、その絶頂の中で命運が尽きた。

 着弾より銃声が後に聞こえる、そういう距離での狙撃だった。

 

 ヴォロシーロフにとって幸運だったのは、ほぼ即死だった事だろう。

 苦しみのたうち回るような、あるいは命乞いするような死に方をしなかった事は、この男のスターリンの側近としての所業を考えれば、随分と慈悲深い死にざまだったと言えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 








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