下人と私

翡翠

下人と私

 今の私は、『羅生門』でいうところの所謂「下人」というやつだ。職も金もない、五十余歳の憐れな男だ。いや、自業自得と言った方がいいのかもしれない。昔、最初の妻子を捨てたからだ。二人を裏切ってまで結ばれたはずの新しい妻には、会社から切られたことがバレるとすぐに捨てられた。風の噂で聞くところによると、もう次の亭主を見つけたらしい。なんでも、相手はいいとこのお坊ちゃんだそうだ。

 私が下人と違う所はもう一つある。それは、私は「罪を犯してまで生きる」ことに彼ほどの嫌悪を抱かなかったことだ。老婆との邂逅を待たずして、人様から身ぐるみを剥ぐことに躊躇いを覚えないような男だ。

 今日も私は見知らぬ家に忍び込み、外からは見えない位置に陣取る。どこかで拾った釘と、なけなしの金で手に入れた折り畳みナイフの柄を使って、最小限の音で窓を割る。目的はもちろん、今月の食費をいただくことだ。割った所から少しずつ穴を広げる。しかし時間をかけてはいられない。手早く静かに、だ。穴が腕ほどの大きさになったら、そこから手を入れて鍵を開ける。典型的な侵入方法だ。

 靴を脱いで手に持って、いざ中へ。どこに手をつけようかと部屋の中を見回していると、ふと写真立てが目に入った。そんな時間などないのに、なぜか無性に気になって写真を覗く──私は、目を疑った。

 そこに写っていたのは、大人になった私の娘だったのだ。当たり前だが、私は女と家を出てから娘に会ったことはない。が、一目で自分の子だと気が付いた。これが親の勘というやつなのだろうか。いや、親と名乗るのも失礼極まりない話なのだが、残念ながら私と彼女は血が繋がっている。だから生物学上は、紛れもなく私が親なのだ。

 それにしても、まさか盗みに入った家が昔捨てた娘の住処だったとは。しかも結婚していたとは知らなかった。娘の隣で笑う男が旦那だろう。二人の腕の中で幸せそうに笑う少女は、私の孫ということか。

「そうか……よかった。幸せそうだな」

 そう呟いて、私はすぐさま引き出しの最下段と最上段を開ける。案の定、通帳と印鑑が分けて入れてあった。それをどちらも拝借して、私は窓から家を出た。


 そういえばもう一つ、芥川の描く「下人」と私の相違点がある。それは、私が一度として老婆のような人間から物を盗んでいないこと。そして代わりに、何不自由なく暮らしていそうな家に入ることだ。

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下人と私 翡翠 @Hisui__

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