悔悛

カズズ

凍てついた祝祭

 生きるという事は、すなわち苦痛に満ちている。

 いつだってそうだ、肌を刺す光、眼球を撫でる風、鼓膜を震わす天然の不協和音。全てに苦悶と恐怖を感じ取る事、それが生きる事だ。

 しかし死後の世界を信じられるほど純朴では無く、未来に希望が持てるほど楽観的でも無い。

 それでも願ってしまう、この世界に遍く者が、等しく幸福に在る事を。

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 カチカチと鳴る秒針と共に、私は自分がいつの間にか眠ってしまっていた事実に気が付いた。

 口内から漏れ出た涎が頬を濡らす、私の内より溢れ出たその液体は実に不快感を催させる。

「ん…起きた?」

 私が顔を拭うと同時に、それまで枕の立場に甘んじていたらしい彼がコチラに目を向ける

 八つになるまで自らの足で立つ事も出来なかった彼は、気付けばそんな面影をすっかり無くしていた。

 私は少し背中を伸ばし、脳内に血流を巡らせる。

「あー…ゴメン、ちょっと疲れてたみたい」

「ハハッ、良いよ別に、それくらい」

 そう笑う彼の左目を、大きなガーゼが包んでいた。

 弟の…トモキの眼球に腫瘍が見つかったのはつい先月の事だった。

「………痛く、無い?」

 この場合、私がするべきなのはたとえ気になったとしても言及しない事なのだろうか。

 そう考えた上でなお、私は彼の安否を確認せずには居られ無かった。

「え?…いやいや!別に何とも無いよ。薬だって朝の分はもう飲んだし」

 私の不安が伝わってしまったのか、彼は少し大袈裟に首を振る。

 心配も同情も、今この時にはただ心を沈ませるだけなのだろう。

 だからと言って、ソレを割り切って封じてしまえる程に自分は強く無い。

 その弱さの代償を、あろう事か彼本人に支払わせてしまっている。その事実が、より深く私を締めつける。

「それよりさ、コレ!父さんが持って来てくれたんだけど…一緒に見ない?」

 彼は場に流れる雰囲気を変えようと口角を上げる。その手元に持っていたのは、どうやら古いアルバムの様だった。

 軽くページを進めただけでも、幼い我々の奮闘が思い起こされる。

「ほら、コレとか姉さんが小学校入った時じゃない?それでコッチが…アレ?何でこの写真は泣いてんだろ」

「ええっと確か…トモキが川に足付けたいって言って…私が運ぼうとしてコケたんだったかな…?」

「えー!?そんな事あったっけ?全然覚えて無いなー…あ、でも右の運動会は覚えてる、お昼ご飯の時にさあ…」

 同じ経験をしている筈なのに、記憶に残っている部分はまるで違うらしい。しかしこうして話の種になっている事を思えば、時には過去を振り返るのも悪く無いように感じた。

「アハッ、懐かしいなあ…」

 それからしばらくすると、遠い日を見つめていた彼の口から、ふと小さく言葉が溢れる。

「…俺さあ」

「一体…どうすれば良かったのかな」

「え…?」

 彼はこちらに目線を向けないままに話を続ける。

「いや、どうするのが一番良かったのかな…って、ひょっとしたら、今までの何処かに正解が有って、ソレを選べてたら…」

「そしたら…俺も…」

 そう呟く声色は、とても暗く、澱んでいた。

「………それ、は…」

 何か話を続けようとするが、喉がせき止められたが如く動かない。

 そうして訪れた長い沈黙を、私は打ち破る事が出来なかった。

「…ゴメン、こんなの人に言うべき話じゃ無かったよね」

 誤魔化す様に髪をかき上げる彼を見て、ようやく私は口を開く。

「私、は…」

「私は…トモキがどう在ったとしても、それが一番…正解なんじゃないか…って、思う」

 辿々しい形でしか自分の心を伝えられない。そうだ、私が言っているのは単なる綺麗事だ。だが他にどう伝えろと言うのだ?彼の苦しみは私には分かりようがない。何が正しくてどうするべきかなんて、判断できる訳がない。

 それでも、どうか、どうか。

「………そっか」

 苦い表情で俯く私に対して、彼もまた返事をこぼす。

「ありがと、姉さん」

 そう返す彼の心を、私は少しでも晴らす事が出来たのだろうか。

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 心を落ち着かせる為、私はまだ昇り切っていない朝日の元に出た。冷ややかな空気が身体を包む。

 しばらく足を進めてみるが、よぎるのは精神的な健康を損なう考えばかりだ。

 ゴミ捨て場の周りでは羽虫共が餌を求めて蠢いている。私はコイツらが嫌いだ。腐肉を貪り、矮小な身体を擦り合わせ、肥溜めに卵を産む。そんな彼らの生きようという姿勢が、私にはどうしても醜悪で滑稽に映る。

 しかし私と彼らはいったい何が違うのだろうか。私も彼らも所詮1つの生命でしかない。そう考えると私達の人生もまた、同じようにくだらない物なのかもしれない…と、そんな事を考えてしまう、こんな自分にさえ嫌気が差す。

 人は生きる為に生きている、ただそれだけの事が、どうしてこんなにも痛むのか。

 私は彼に何をしてあげられているだろう。

 生きるという事は、きっと苦痛に満ちている。その苦しみを、私は和らげる存在で居られたのか。

 …分からない。

 私は無力で、だからこそ信じ、委ねてしまいたい。いつの日か全ての善き人が、何の枷も負わずに眠れる事を願って。

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悔悛 カズズ @bags_under_my_eyes

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