第57話 大奥は再び咲く~出版 玖
小声で「お須磨の方さま」と呼びかける。
すぐに霞が障子を開け、高遠は滑り込むようにして部屋へ入った。馴染んだ顔が迎える。
「うむ。よく働いておるな、霞よ」
「――は。ありがとうございます」
「近く、お須磨の方さま付きの部屋方が正式に決まる。それまで、今しばし頼むぞ」
「心得ましてございます。どうぞ、お須磨の方さまはあちらでお待ちです」
霞は、次の間の襖を音もなく開き須磨が高遠を迎え入れた。
「高遠さま。
「これも七夕で絵を描いていただいたお陰にございます。賭け金が大いに役立ちました」
「そ、そうなのですか? 高遠さまのご指示とおりに描いただけであまり似ていたとは言えない絵でしたが」
「いえ、そこがよいのです。こういうことは曖昧にしておく方が無難なのですよ」
「そういうものなのですか……。わたくしは高遠さまのお役に立てたのならそれで十分です。それより、このような時間までお勤めなさってお身体に大事ございませんか?」
緊張続きであっただけに、ことさら優しさが染み入る。
贅を尽くした料理を食べていても、茶漬けを求めるような癒やしが須磨にはある。絵を描く物珍しさだけで終わり、この癒やしに気づかなかった上様は実にもったいないことをしたものだ。
「霞は、よう働いておりますか?」
「はい。いつでも控えてくれているので安心できます。高遠さまのお心遣い、本当に感謝しかございません。そして、増刷と全巻発行おめでとうございます」
混じりっけなしの祝いの言葉に口元が緩むそうになるが、これから大切な話をするのだ。高遠は須磨と身体を近づけ合ってヒソヒソと話し始めた。
「――ところで……文は読まれましたな?」
「はい」
「絵についてなのですが……」
「は、はい」
須磨の表情が引き締まった。
「先に申しておきます。これは、無理をしなくてよいことです」
「え……? で、でも、それでは高遠さまのお立場が……」
須磨は困惑の表情だ。
高遠は、ゆるゆると首を振る。
「それはお気になさいますな。わたくしも書き手のひとり。心浮き立たないことを無理にしたとて、それが人の心を動かさないことはわかっております。なにより、恐ろしい思いをなさったのです。怖いと思って当然。素直に包み隠さず申してくだされ。あとのことは、わたくしがいかようにもいたします」
「高遠さま……」
緊張のために、上がり気味だった、須磨のまなじりが柔らかいものへ変わった。
見つめる黒曜石のような瞳にキラリと光が灯る。須磨は心を定めていたように言った。
「……いいえ、高遠さま。わたくしは描きたい。そう思っています。文をいただいてからずっと考えておりました。正直に申せば、恐ろしい思いは今でも忘れることはできません。ですが……それ以上に描きたい気持ちが強いのです。高遠さまの本に自分以外の方が絵を飾る……。それは嫌なのです。あの物語を表現するのはわたくしでありたい。他の方にお譲りしたくないのです」
須磨の膝の上に乗っている手が、ギュッと握りしめられている。緊張しておびえているさまがわかる。しかし、その瞳は十分信じられる人間の目をしていた。嘘やごまかしな一切無い覚悟を決めた瞳だ。
気が弱く、人の後ろに回ってしまう須磨が自分からやりたいと踏み出そうとしている。
「……わかりました。では、お願いいたしまする。御身に危害が及ばぬよう、信用できる女中を部屋に常駐させるよう取り計らっておりますゆえ、ご安心くだされ。それまで霞がお守りいたします」
「はい。ご厚意に甘えさせていただきます」
「それでは、すぐに鶴屋から種本を取り寄せますので、それを読み、二巻の絵を――」
「いいえ、高遠さま。それには及びません。内容は完璧に覚えていますので描けます」
「え? 覚えているのですか? まさか全部を?」
「当然です。あのような神小説を忘れるわけがありません」
――このお方は、まったく……。
高遠は笑いたいような、呆れるような気持ちになった。
須磨は本当に心から創作が好きなのだ。創作こそが須磨を須磨たらしめている。ならば自分がやるべきことは決まっている。この神絵師が自由に活動できるようお守りし、自分も小説を書き続け、この先もふたりで創作の道を歩んでいく。
高遠は、胸元から本を取り出して須磨の手に置いた。
「お渡ししておきます」
「これは……」
「一巻です。見本誌としていただいたものです」
「で、でも、今は、
「いいえ。これは、
須磨は照れくさそうに頬を染め、ぎゅっと本を抱いて言った。
「もっと、良い絵を描いてみせます……!」
高遠は頷いて小さな手を握った。
「よろしく頼みましたぞ」
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