第56話 大奥は再び咲く~出版 捌

「これは塩沢さま」


 皆、手を止めて平伏する。


「どうじゃ。明日は滞りなく進められそうか」

「はい。無事に」


 叶が答える。


「そうか。ならばよい。皆、ご苦労であった」

「ありがとうございまする」


「うむ。高遠の本もよく売れておると評判になっておるぞ。私家版という名目上御公儀とはいえ、力ずくで止めることはできぬ状態じゃ。なにやら愉快でならぬ。お前の賭けのとおりにことが運んでおるのう、高遠」


「――は。時勢の勢いに乗れたようで安堵いたしておるところでございます」

「この先はどうなるか決めておるのか?」


「まだ、本決まりではございませぬが売れ行きが好評ゆえ、全巻発行の確約と、二巻は初版から一千部を刷る予定となっております。これで、奥に金子を納めることが叶いまする」


 鶴屋が言ったことなので嘘ではないのだが、塩沢に告げるにはいささかの緊張感が伴う。


「ほう。なんと、大奥から千枚振舞せんまいぶるまいを成し遂げる小説家が生まれるとな。はっはっは。事実は小説よりも奇なりとはまさにこのことよ」


 叶も楽しげに言う。


「誠、大奥から千枚振舞を約束された小説家が輩出されるなど、名誉なことですわ」

「そうじゃの。しかし、わしは、あらゆる可能性を考えておかねばならぬ身じゃ。ささいなことであっても報告を怠るな。よいな?」

「――御意」


 ――今だ。


 高遠はこれを好機と捉えた。


「塩沢さま。お須磨の方さまのことなのですが……」

「うん?」


「鶴屋は引き続き、お須磨の方さまに絵を描いて欲しいと考えておりますが……、賊が沢渡主殿頭であるならば、再び、お須磨の方さまの身に危害が及ぶやもしれませぬ。描いてくださるとなれば、おひとりにさせないように、部屋に常駐する女中を増やさねばなりませぬ。留守居るすいに指示を出しておりますが、塩沢さまのお眼鏡にかなう者をあてがっていただけるとお須磨の方さまも安心できると思うのですが、可能でございましょうか?」


「ふぅむ……。なるほどの。確かにお前の言うとおりじゃ。あのような狼藉はあってはならぬことじゃ。わしの方から、しっかりとした人物を探すように伝えておく」

「は。お心遣いありがとうございまする」


 まずは要求は叶った。

 しかし、それ以上に大事なことはここからだ。


「しかしながら、塩沢さま」

「うん?」

「あのような事件が起こったあとであり、話が大きくなってきたことで、お須磨の方さまが描くことができない可能性もございます。そのときは、どうか無理強いだけは避けていただきたく」


 塩沢は考え込む。


「……しかし、高遠よ。本が売れたのは表紙の力によるところが大きかったと申しておったではないか」

「はい。そのとおりでございます。わたくしは無名の作家。人が手に取ったのは、お須磨の方さまの絵があればこそです」

「ならば描かせるべきではないか? 女中も増やし、安全になるのじゃ。描かない理由がないではないか」


 高遠は考えていたことを訴えた。


「書き手だからわかるのでございまするが、物を生み出すということは、心からそうしたいと願わないものには命を吹き込めないのでございます。才能というものは無理強いすれば枯れてしまうもの。どうか、どうかお須磨の方さまのご判断を尊重してくださいませ」


 塩沢はしばし考えた。

 創作者の心情を理解してもらうことは難しい。

 須磨は絵で食べているわけではない。生活がかかっていない以上、やらなければならないことではない。怯えさせてまで描かせる理由はないのだ。

 すべては須磨の心次第。選べる状況を作るのが自分の責務だ。

 塩沢は深い息を吐いて言った。


「――わかった。お前がそういうならば仕方あるまい。しかし、できるだけ描くように説得はするのじゃぞ」

「はい。必ず」


 高遠は頭を垂れた。


「では、皆も明日に向けて今夜はよく休むように。大奥の存続がかかっておる。失敗は許されぬぞ」

 全員が平伏し、衆議の場は終わった。



***



 五日後の夜九ツ――午前0時。薄暗い廊下に紛れるように高遠は、須磨の部屋へと向かった。

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