第48話 究極の二択 陸

 塩沢の目に力がこもる。聞くに値しない話ではないと判断したのだ。


「――続けよ」


「は。そのためには本が売れることが前提ですが、必ず本は売れます。時を置かず再販がかかるでしょう。理由は民の不満はいつ爆発してもおかしくはない状況にあるからです。

 少なくとも好色本は本屋から消えています。遊興ゆうきょう、娯楽も同じです。そして、民は締め付けに息苦しさを感じ、飢饉の余波は続いている。各地の農村暮らしはもっと酷いものでしょう。

 ――つまり、いつどこで一揆が起こってもおかしくない状況にあります。財政難の幕府にとって農民の一揆ほど金がかかり手を焼くものもございませぬ。厳しく処罰しれば年貢の取り高も減り、さらに不満が連鎖する可能性は低くございませぬ。そして、なにより人はいつまでも悪政に従いませぬ。

 沢渡主殿頭が行った『人返し令』も流民が増え、江戸の治安を悪くしただけにございます。沢渡主殿頭の政策は民は負担を強いるばかり。明るい兆しなどない」


 高遠の熱弁は場を支配していた。

 あの中野でさえ目の色を変えて聞き入っている。


「出版の部数は微々たるものですが、少ないからこそ人は手に入れたくなる性を持つものです。しかも、もう一度手に入る確証もない。

 なにより御公儀にとがめられない好色本となれば、多少の無理をしても手に入れたいと考えるはず。鶴屋でも大々的に売り出すことは契約済みであり、再版の手はずも整えております。

 いかに沢渡主殿頭とて、市政しせいに広まった本すべてを回収することなど不可能にございます。わたくしを捕らえたとてなんの意味もない。この男色本の賭けの勝率は沢渡主殿頭の布令に劣るものではない。

 そして、わたくしの目的は当初からなにも変わってはおりませぬ。『大奥に金を入れる』これに尽きます。それが微々たる金であったとしてもでございます。――わたくしは抗いたい。大奥で暮らす者がこれ以上悪政に虐げられることのないように。『大奥の女を甘く見るな』と」


 部屋は完全に沈黙した。

 重苦しいものではなく思案の時間へと。高遠は最後の言葉を噛みしめるよう紡いだ。


「……大奥がここまで永らえてきたのは一時の権力者がその地位により築いた己に都合が良いものではないからにございます。幕府を守り続けるために欠かせない存在であるからです。表向きと奥向きは表裏一体。片方だけを切り取ることなどできはしません。その上での出版にございます」


 高遠の賭けに塩沢たちがのるかそるか――。

 思惑に満ちた静けさが駆ける馬のごとく鳴る心臓の音を耳に届ける。ひどく喉が渇いている。呼吸も浅い。それでもまっすぐに前だけを見た。


 ひとときの静寂ののち、


「――わたくしは、高遠殿の出版に賛成いたします」と叶が言った。「金崎殿を陥れたことは大奥の人事に口を出したのも同じこと。ここで泣き寝入りをすれば、これからの大奥に禍根を残すことになりまする」


 中野も首肯し、


「確かに、金崎殿に罪はございまするが、それを表向きに断罪されるは業腹。高遠殿の覚悟しかと受け止めましたぞ」と珍しく強い言葉を口にした。


 視線は塩沢へと向けられた。

 塩沢は眉根にきつい皺を寄せたのち、ふっと短い息を吐いた。威厳を持った声が響く。


「高遠。おまえの忠義、しかと受け止めた。出版するがよい。金崎の二の舞は起こさせぬよう総取締役として、あらゆる手を尽くそう。お前の言うとおり、大奥なくして幕府の存続は不可能。一時の権力者の思惑で揺らぐなどあってはならぬ。――わしも腹をくくらねばな」


 高遠は手を突いて平伏し、心から感謝の気持ちを述べた。


「ご厚情を賜り、誠に恐悦至極に存じます」

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