第40話 里帰り 肆

 どれほど寂れているのだろうと思っていたが、どの店よりも人が多く集まっていた。娯楽本は売られていないというのに、活字に楽しみを見いだす人がこんなにいるのかと驚きつつも、同時に人が本に求めている核のようなものも感じずにはいられなかった。


 それは想像だ。

 見たことのない景色を思い描き、主人公たちが織りなす世界に浸り、ここではないどこかや人の思いにふける。

 それこそが読書の醍醐味だ。


 架空の世界を求めて、ひとときの非現実を楽しみに本を手にする人々を見ていると、ああ、本を出したかったな、須磨の絵も見て欲しかったなと思った。財政難のために始めたことだったが、いつの間にか出版に喜びを感じていた。

 須磨の絵を見たときの興奮や、夜通しの推敲すいこうと清書の苦労さえ楽しかったと思える。

 なぜか。それは、本にはいつだって無限の楽しさが存在するのだ。


 ――ああ、そうか。わたくしは、お須磨の方さまと共にそのなかに並びたかったのだな。


 だから、出版が見送られたとき悲しく、須磨の身に危害が及んだかもしれない事件に憤りを感じたのだ。身勝手な考えで人の心に恐怖を植え付けた輩を。

 サワリ、と、風が駆け抜けるように吹いた。

 誰にも止められない矢のように流れ去るどこへでも行ける風。


 ――今なら……。今ならば書けるかもしれない……。


 唐突に、しかし、使命感にも似た気持ちが溢れ出た。

 止まっていた小説の続きが、いや、新しい物語が頭のなかで生まれる高揚を感じる。

 あんな目に遭ったのに、筆を折るつもりだったのに、浮かんだ物語を文字にせずにはいられない衝動に突き動かされる。


 ――ああ……。わたくしは書くことが好きなのだ。


 書かない自分など自分ではないと思えるほどに。

 書くことは自分にとって生きる糧であり、他に変えられない大切なものだ。

 作品が世に出なくても、自分のために、須磨のために書けばよいではないか。続けていればどこかで風向きが変わる。きっとそんな日が訪れる。

 すぐにでも机に向かい、筆を走らせたい。

 高遠は急ぎ足で実家へと戻っていった。


「ただいま戻りました」


 挨拶もそこそこに部屋に入ろうとすると、母親、かなでが呼び止めた。


「あかねに御城おしろから届けものがきておりますよ」

「城から?」

「ええ。お部屋に置いてあります」


 自分が不在のあいだに大奥でなにか起こったのかと慌てて部屋へ入り、見慣れない風呂敷を解いた。――と、


「これは……」


 しばし、言葉を失った。

 出てきたのは出版統制により中止となったはずの男色本だった。製本されており、このまま売りに出せる形だ。


 ――なぜ? 取りやめになったのでは……。


 戸惑いつつも添えられている文の裏を見ると、出版を請け負っていた鶴屋の主、鶴崎吉左衛門つるさきよしざえもんの名があった。

 慌てて開き、読む。


『――大切な原稿をなくしてしまったことを申し訳なく思っています。残念ながら、まだ原稿は見つかっておりません。しかし、工賃をいただき、原稿紛失というあってはならぬことを鑑み、せめてもと見本誌を送らせていただきました。

 井原西鶴の出現で好色本が流行となりましたが、持ち込まれる原稿はただの卑猥なものばかりで正直うんざりしておりました。

 しかし、高遠さまの小説は、その時代、そのときのまつりごとの渦中で、男たちが限られた時間のなか絆を深めていくという『人の心』が描かれており、男色本の新境地となる作品でございました。御公儀の布令のため売り出せないことが残念でなりません』


 と、丁寧な文章でしたためられていた。

 須磨の表紙絵も色をふんだんに使った錦絵で、これが店先に並べばきっと手に取る人が大勢いるだろうと思わせる出来映えだった。挿画も薄墨を使った二色刷で、その場の空気を感じられるように表現されていた。パラパラとめくるごとに感慨深い気持ちが湧き上がる。


 ――嬉しい……。どうしよう、嬉しい。


 自分の書いた小説が本になっている。

 喜びが心を震わせ、そっと胸に抱きしめた。高遠と須磨の努力を形としてくれた鶴屋の主の心遣いが有り難かった。そして、


 ――こんなに素晴らしい本なのに、出版できないのか。


 そのことを悔しく思った。


 ――もう、財政難を助けるなどという大義はなくていい。純粋に本を手に取ってもらうことはできないだろうか。


 改めて、どうにかならないだろうかと考えた。

 いや、どうにかなるのではなく、どうにかする方法。

 ふっと文机に置かれている本が目に入った。小平太の教本だ。


「…………!」


 閃きが、落雷のように身体を駆け抜ける。


 ――これならやれるかもしれない。


 これから行うべき算段を思案し、女中を捕まえて言った。


「急ぎ、駕籠を呼んでくれ」

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