第37話 里帰り 壱

「お、お須磨の方さま?」

「はい、夜遅くに申し訳ござい……」


 挨拶を遮り、すぐに部屋へ通す。須磨はひとりだった。


「供も付けず、このような時間に出歩くなど危のうございます」

「すいません……」


 須磨は小さくなりながら答える。


「なにか困ったことが起こったのですか?」

「いえ、そういうわけでは……」

「では、どのようなご用件で、このような時間に」


 俯いてしまった須磨は必死で言葉をかき集めているように、

「あ、あの……。その……」とたどたどしく言う。


 視線が控えている部屋子に向いたので、人払いを望んでいるのだと察した。


「霞。下がれ」

「――は」


 手を突いて平伏しスッと部屋を出ていった。次の間の襖が閉まると須磨は胸に手を当てほっと息を吐いた。

 その様子に、よほど知られたくないことなのか? と高遠は心配になった。

 落ち着いた須磨がそっと唇を開く。


「……高遠さまが宿下がりをなさると聞きました。それで……、どうしてもお会いせねばと」


 須磨にまで知れ渡っているのか。

 おおかた失策を招き、居づらくなったから大奥から尻尾を巻いて逃げ出すのだ。そんな噂が出回っているのだろう。


「……それで、わざわざ会いにきてくださったのですか?」

「はい。どうしても、お渡ししたいものがあって……」

「渡したいもの、にございますか?」

「はい」


 須磨はそう言って、胸に抱いていた包みを差し出してきた。

 藤の花が描かれた、美しい風呂敷に包まれているものを受け取る。桐箱のような堅さで中身はとても軽い。


「どうぞ、なかをご覧下さい」


 須磨に促されて包みを開き、箱の蓋を開ける。


「これは――…………」


 それきり声が出なかった。箱のなかにあったのは絵だった。

 高遠が惚れ込み、表紙の依頼を即断した絵。そっと手に取って見る。どれも見たことがない新しいものだった。


 色が付いた鮮やかな三枚と、墨で描かれたものが五枚。

 影が強く感じられるものや、春を思わせる晴れやかなもの。

 けれど、どれも品があり、物語を表す人物たちが切り取られ、そこに命の息吹が宿っているようだった。


「お須磨の方さま。これは……」


 高遠の問いかけに、須磨はそっと笑みを浮かべて答える。


「はい。読ませていただいた残り二作品の表紙と……挿画です」

「……お命が脅かされるかもしれぬというのに、描かれたのですか……?」

「はい。これだけはどうしても描いておきたくて。あまり長く描く時間を取らないようにしておりましたので、これだけなので申し訳ないのですが……」


 高遠は知らず涙が溢れそうになった。

 部屋を荒らされ、絵を描けば命の保証はないと脅迫されたことは、どんなに恐ろしかっただろう。それでも描いてくれたのか。自分などのために――。

 高遠が無言でいると、そっと須磨が言う。


「わたくしにとって、あの作品は読めたことが光栄なお話ばかりでした。一度は破られて失いましたが……。それでも形に残しておきたくて描きました。これは感謝の気持ちです。ですから、どうか受け取ってください」


 野花のような微笑みに、声を詰まらせて、


「ありがとうございます」と答えた。「大切にいたします」


 霞に須磨を送り届けるように命じてから、桐箱の蓋をそっと撫でた。

 あの三作品は失われてしまったけれど、こんな素晴らしい形で帰ってきてくれた。すべてが無駄ではなかったのだ。自分に本気で心を寄せてくれる人がいる。

 その事実に救われた気がして、もう一度、


「ありがとうございます……」と呟いた。



 ***



 翌朝、頼んでおいた駕籠かごに乗り、麻布にある実家へと向かった。

 数年に一度、御城で母と妹に面会していたが、家に戻るのは実に二十年ぶりだ。

 家の前で待っていた、母、かなでが嬉しそうに出迎える。

 駕籠を取りまくように近所の人たちが興味津々で見つめている。大奥に務める者として相応しい所作でゆるりと頭を下げた。


「母上、もどりましてございます。少しのあいだお世話になります」


 かなでは目を赤くして、


「……よく帰ってきてくれたわね。さぁさ、お上がりなさい。あかねの好きなお菓子があるのよ。夕飯はよい鰺が手に入ったからお刺身にしますからね。お付きの方もどうぞお上がりになってください」と家へ招き入れた。


 高遠はもう一度、周囲に優雅な一礼をして家のなかへと歩を進めた。


「お帰りなさいませ。お姉さま」


 玄関式台に三つ指を突いて妹のゆかりが出迎えた。横には、ゆかりの息子と娘も揃って高遠を迎えている。


「おお、ゆかりか。すっかり大人びて」

「いやだわ、お姉さまったら。わたしもう三十なんですよ」


 そうクスクスと笑い、


「さ。お前たちもご挨拶なさい」と子供たちを促した。


「お初にお目にかかります。小平太こへいたと申します」

「ゆかと申します」


 まだあどけなさが残る少年と少女が、緊張した面持ちで挨拶をする。


「おお、ふたりともよい挨拶だ。小平太は十一歳で、ゆかは九歳であったか。息災でなによりだ」

「ささ、皆、いつまでも玄関になどいないでお部屋へゆきなさい。小太郎とゆかは、あかねの荷物を持ってお部屋に案内なさい。ゆかりはお付きの方をご案内して」

「はい」


 それぞれが、宿下がりを歓迎してくれているようでホッとした。

 家は高遠が出ていった時をそのまま留めているようで、なにも変わらなかった。磨かれた床と音を吸い込むような漆喰の壁。

 かわったのは襖くらいだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る