第10話
海浜公園からの帰り。
僕達は、街灯の明かりを頼りに町に通じる山道を辿っていた。
辺りはコンビニも民家もなく、田畑が広がっている。薄闇の中を一直線に伸びる道路は、車通りの割に幅が広い。
一応、来た道を引き返しているようだが、帰りと行きでは180度景色が違って見えた。昼間と夜では同じ場所がこれ程までに異なるものか。
「……」
隣を歩く先輩を一瞥する。
俯きがちの顔は、無表情だ。
二人で歩いているのに、一人で歩く以上に心細い。手で押している先輩の自転車すら坂道でもないのに重たく感じる。
「何か……喋ってくださいよ」
「チョモランマ」
「意味わからん」
「ナンガパルバット」
何も話したくないってことなのか。
沈黙に耐えきれず声をかける度、このような感じだ。それにしても何故山の名前ばかりなんだろうか。変なところがいちいち気になる。
重苦しい足取りに、沈鬱な空気。
この湿った帰路は一体なんなのか。長距離を歩いたことによる疲労感も相まって、少し腹が立ってきた。
「先輩」
「マナスル」
「どうして、僕の小説がそんなに気になるんですか?」
「……コングール」
何か確信をついたのか、少しの間があった。
これは。でも。
「……文章や話の構成は影響を受ける人によって変わりますよね。例えば、執筆の際にどうしても好きな作家の文体によせてしまったりとか」
これは、文章能力を上げるのに悪くない方法だと聞く。皆好みの文体、テンポ、描写を真似して、自らのスタイルを作り上げていく。
先人を真似しなかった作家など、きっとどこにもいなかっただろう。
「私に、好みの作家がいるってか?」
先輩の眼に力が宿った。
これまでと打って変わってこの反応。トリガーを引いたと判断していい。
続ける。
「先輩がこれまで指摘してきた文章の箇所。それは、自分の力だけでは直せなかった。だって、自分の確立した文体ではありませんからね」
「当たり前だ。お前の文章は滅茶苦茶だった。だけど私はあくまで私なりに校正をしただけで、そこにこだわりなんかねぇよ」
こだわりなんかねぇよ。
その言葉に、少し、胸が傷んだ。
「……じゃあ」
声が小さかったのかもしれない。言おうかどうか、ここまで先輩を焚き付けたのに、まだ逡巡している自分が心のどこかにいる。でも「あ? はっきり言えよ」と先輩に凄まれ、もう後戻りはできないと諦めがついた。
「じゃあ、最近の僕の文章は、どうですか?」
「……は?」
意表を突かれたように、先輩の目が点になる。
この反応を見る限り、僕の質問は先輩の予想外であったようだ。
「せらこうすけ」
気付けば、自分でも驚く程あっさりとその名を口にしていた。「ひくっ」と空気の漏れる声が先輩の喉元から聞こえ、自分の小ささを自覚する。やはり、触れてはならない名前だったのか。この場でその名前を口にしたのは、卑怯であったのだろうか。
「あいつを……知ってたのか」
いつの間にか先輩は立ち止まっていた。
呼吸は乱れ、肩の上下が不規則だ。その先輩の姿に、言い知れない罪悪感で胸が一層詰まる。
でも、知りたい。
単なる好奇心なのか、好意を寄せている故なのか、自分でも判別がつかない。
「……知ったのは最近です。名前だけでしたが」
「部誌を、読んだのかよ」
「どの話にも舌を巻きました……きっとアマチュアではありませんよね」
瀬良浩介。
当然、彼の短編には目を通している。
まず驚いたのは、短期間の間に多くのジャンルを分け隔てなく執筆していたこと。
コメディもの。恋愛もの。ホラーもの。アクションもの。勿論、得手不得手はあったのだろうが、それでもどの作品もアイデアが見事で、内容も洗練されていた。
次に、表現力の巧みさ、場面転換の大胆さ。
尖っている、とはこの事かと肝を抜かれた。
情景を理解する分には必要最低限な描写しかせず後は展開に任せ、しかし、予測出来ない方向へ綺麗にオチがつく。そこに読者が混乱するような文章はなく、簡潔で明瞭であるが故に気取ってなくて読みやすい。
逆に言えば雑であるとも言えるが、それすら計算の内のような気もする程、引き込まれるものがあるのだ。
これまで僕は「てにをは」や、プロット等、細かいところを気にして、話を進めていくことに躊躇しているところがあった。
ところが、彼は違う。
きっと、思い付くままにプロットを構成して半ば暴力的に展開させているようにも感じられる。
でも、一見脈絡の無さげなその物語のパズルは、トータルでは計算されたかの如くカッチリはまっているのだ。
世の中にはそういう作家がいるということは知っていたが、実際に目の当たりにすると実力の差に圧倒される。
そして、彼が同世代だという事実に焦りを感じる。
いや、彼、というか、彼女というか。
「ズバリ聞きますけど、瀬良浩介は先輩のペンネーム、ですよね?」
「いや、違うけど」
「やっぱり、どうして早く言ってって、違うんかーい!」
「名探偵が犯人を暴いた時くらいの尺で何言ってんだよ」
「っっ」
かあっと顔が熱くなった。
キョトンとした先輩の顔に、胸の奥がかきむしられたようにいたがゆくなる。
えっ、だってあんなに何度も部誌を読み返してたじゃん。でもって文芸部のことを昔から知ってた風だったじゃん。
「もしかしてお前、あいつの文体を真似てたつもりだったのか」
「ギク」
「わかりやすっ」
「じゃ、じゃあ、あの玄人感満々の文章指導は」
「だから玄人じゃねぇっつってんだろ。私と浩介とはだな、えっと、」
先輩が言い淀むのと同時、背後から爆音がこだました。振り返ると、地平の向こうから凶暴なまでに眩しいヘッドライトの明かりが射し込んで来て、思わず目を覆う。田舎の走り屋だろうか。バウンバウン! と燃費の悪そうな音を辺りに轟かせ、その車はこちらに向かって一直線にやって来る。
そして、ものの数秒で僕たちの横を通り過ぎ、そして、数メートルのところで停まった。
「なんだ……?」
先輩も訝るようにして、その車から後退る。
全身真っ黒のセダンで、車体はぐっと沈み込み、脚周りが少し平たく見えた。いわゆるシャコタンというやつだろうか。少し盛り上がった路面でも底を擦ってしまいそうだ。
その車が、今度は僕達の方に向かってジワジワ後退してくる。
「先輩!」
嫌な予感がしたのは僕だけではなかったらしい。 僕が叫ぶ頃には先輩は自転車に跨がっていた。「早く後ろに乗れ!」
先輩もスイッチを切り替え僕に吠える。自転車を押しながら、タイミングを見計らい荷台に飛び乗った。
「あれは一体」
振り返ると、さっきのセダンは道路上で後退と前進を繰り返していた。ギャギャギャ、とフロント部分が僕達の方向に定まっていく。それが方向転換のための切り返しと気付いた頃、爆音が再び辺りに轟いた。
「クソが」
先輩が毒づいた。
「ヤバいヤバい!」
自転車と乗用車の追いかけっこ。
昼間、原付に追い抜かれた経験から、不利すぎるカーチェイスであることは理解している。
そしてそんな諦めが根底にあるからだろうか、この黒塗りボディに距離を詰められている今、自分の脚で走った方がペダルを漕ぐより速いのではないかと感じてしまう。
「……そうか」
自分の脚で。
その考えに至った時、既に身体は動いていた。
「馬鹿! 何して」
「たまにはカッコつけさせてくださいよ」
荷台から後ろに飛び、アスファルトに、べち、と尻餅をついた。結構痛いし全然カッコよくない。それでも、ペダルを漕ぐ先輩の脚が人一人分軽やかになるのなら。
「逃げて!」
立ち上がって、叫んだ。
できるだけ大きな声で。
その直後、かっ、とヘッドライトの光に包まれる。目が眩んで、咄嗟に身動きがとれない。今、僕とセダンの距離は、
「あ」
べきゃん。
腰から嫌な音がした。
両足はバンパーにすくい上げられ、顎がフロントガラスに直撃した。衝撃で視界がぶれて、まばたきすらできなかった。ただ、そのためか一瞬だけ運転手と目が合う。
「あ」
昼間のタンクトップ変態男も僕と同じ口の形をしていた。フロントガラス越しにハモったように思う。
助手席には相方の金髪リーゼント男もいて、なるほど、こいつらは先輩と僕に報復しようとしていた訳だ。
そしてそれは成功した。
僕は瞬く間に宙を舞い、星空と地上が一回転し、後頭部から衝撃と激痛が走った。
アスファルトとマブダチになって、霞む視界の中に意識だけはセダンを追う。
先輩は、逃げ切れるだろうか。
それとも。
「おらぁ! ざっけんなこらぁ!」
聞こえてきたのは、先輩の怒鳴り声。
その光景に、唖然とした。
「っ」
バン、と扉を開けて降りたリーゼントとタンクトップの二人組が、先輩を羽交い締めにしている。先輩は手足をじたばたさせて暴れているが、最後に後部座席から降りてきたロン毛の男に「イキがいいなぁ。おい」みぞおちを殴られ、ぐったりした。
「 」
この時言葉を発せたかどうか、実のところあまり覚えていない。叫んだような気もするし、口を開いただけのような気もする。ただ、喉が火を吹いたのかと錯覚する程痛かったことは確かだ。
前者なら慟哭で、後者なら嗚咽。いずれかの呼吸が喉元で激しく摩擦した。そして、それからいくばくかの空白が記憶を占領する。
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