先輩と僕

ぴよ2000

第1話

「そこにいる?」

 目は閉じたまま、彼は微かな声でそう尋ねてきた。私はただ黙って彼の手を握りしめる。

 ここに自分がいることを知らしめるように、強く。

   

    ×××××


「あーっついわー」

 首振り機能の付いた扇風機がその声の主の方を向く度、湿気と熱気が戻ってくる。設定は強風。窓は網戸。換気に抜かりはない、はずなのに、室内の空気がこもったように重く、肌はべとべとしている。

「まだ直んないの? あいつ」

 先輩が指差した「あいつ」とは部室専用のエアコンで、僕が入部した時から既に取り付けられていた。相当年期が入ったもので、ところどころ黄ばみ、埃が積もっている。長年この部室で代々使われてきたが、ついに限界を迎え、暖房しか出なくなった。

「業者が来るのはまだ先だそうです。諦めてください」

「ふざけんな。熱中症で生徒が倒れてもいいのか」

「僕に言われても」

「あっつぁー」

 熱がこもるのか先輩は胸元をはだけさせ、下敷きでパタパタと仰いでいる。短いスカート。裾から伸びる細長い脚は組まれ、肌色が目に入る都度どきまぎする。

「はしたないですよ。もう」

「うるせぇ童貞。どうせ誰も見てねーんだからいいだろ」

「僕がいるじゃないですか」

「はん、お前なんか数にいれてねーんだよ」

 言って、先輩は構うことなく下敷きを仰ぎ続けた。シャープな顎筋に高い鼻筋。切れ長の鋭い目元。マッシュウルフのショートヘアーはよく見ると茶染めの箇所が地毛と入り交じっている。メッシュ、というのだろうか。

 先輩は一言で言うとヤンキーだ。

 女子だから腕っぷしの方はどうかわからないが、口も悪く、年下の僕からしたら敵うところはなかった。

「大体、どうして部員じゃない人がここにいるんですか」

「何度も言わせんなよ。ここだったら夏は暑くねーし冬は寒くねーって思ったんだよ。廃部寸前だし先生も見回りにこないからな。エアコンさえ壊れなければ楽園だったのに」

「だったら帰ればいいじゃないですか。ここより涼しいところはごまんとありますよ」

「ここ以外にくつろげる空間が他にあると思うか? いや、ない」

「なぜ反語」

 というか、ここはくつろぐ場所ではない。残された部員が僕一人だけの廃部寸前の文芸部。そこにこの何やら騒がしいだけの人(非部員)が入り浸り始めたのは今から約一ヶ月前。最初はおっかなかったが、今はもう慣れてしまった。

「そんなことより、おい、アイスだ。私はアイスが食いたい。買ってこい」

「嫌ですよ。今まで購買にアイスが売ってるところ見たことあります? いや、ない」

「真似すんな」

「ないものは買えません。残念です」

「誰が購買に行けっつったよ。お前、あれだ、アイスっていったらコンビニだろうが」

「コンビニなんて近くにないですよ。というより自分で買いに行ってください」

「駅だ。駅の近くにあるだろ」

「駅って」

 学校の最寄り駅。その近くにセブンがあったが、まてまて。徒歩で十五分はかかる場所だ。往復で三十分。曇り空とはいえ、このじめじめした天気の中歩かせるつもりか。

「絶対に、嫌です」

「なんだよ。お前の分も買ってやろうと思ったのに」

「お金だけ頂いておきます」

「お気持ちみたいに言うな」

 とはいえ、「アイス」という単語に心揺さぶられるのは確かだ。ブーンという稼働音だけが一丁前の扇風機。風の通らない窓。暖房しかつかない壊れたエアコン。

 冷たくてさっぱりしたものが喉を通れば。 

 気付けば、キーボードを叩いていた指が止まっている。

「……まあ」

 時は放課後。一応部活動中ではあるが、部員が僕一人しかいない以上ある程度好き勝手できる。つまり、どのタイミングで部活を切り上げるかは僕の自由なのだ。

「どの道、アイスを買って戻ったとしても袋の中で溶けているでしょうし」

「こんなこともあろうかと保冷バッグを持って来ているぞ」

「準備良すぎでしょ……僕もそろそろ部活を切り上げたいと思っていましたし?」

 ノートパソコンの電源を落として、先輩に向き直った。

「一緒に食べに行きましょう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る