レイラ~名前の無い怪獣~

紫静馬

レイラ~名前の無い怪獣~

 私には秘密がある。

 けど、それはまったく無意味な秘密。

 隠していても隠していなくても、別に構わない無価値な秘密。


 だって、誰もそれを信じない。

 どれだけ言っても、叫んでも、誰もそれを本当だと思わない。

 何をしようと、誰も耳を傾けてくれない。


 だから、私は誰にも話さない。

 これは、私だけの秘密だから。


 私だけの、私が持ってさえいればいい、たった一つの秘密だから。


   ***


「……ん」


 朝。

 いつものベッドの上で、少女はゆっくりと起き上がった。


 髪はいつもの通りボサボサである。これを綺麗に整えるのに毎朝苦労している。髪を短く切ればいい、というのは分かっているが、この長髪ストレートは彼女自身も気に入っているので辞められない。


「ふわぁ……」


 起きなければいけない時間なのにまだ眠い。昨日夜更かしをし過ぎたかもしれない。パジャマを脱ぎながら後悔した。


「…………」


 いつも、パジャマを脱ぐとき少し胸元を見てしまう。

 高校生ともなれば、成長はほとんど終了している。にもかかわらず、朝になるとブラジャーの下にある物体が大きくなっていないか。そんな期待をしてしまうのだ。


 結果、その期待が叶えられたことは一度も無い。

 今日も、Aカップから離れたことのない寂しい胸囲が露わになるだけだった。


「……はあ」


 くだらないことは辞めて、とっとと支度をしようと思う。まだ余裕はあるが、髪のセットに戸惑うと間に合わない可能性がある。


 ベッドから起きだして、部屋を見回した。


「…………」


 どこにでもいる、ごく普通の高校生――だと自分は思っている。

 でも、そんなごく普通の高校生は、こんな部屋には住んでいないだろうな――とは自分でも分かっていた。


 クローゼット。本棚。パソコン。勉強机。姿見。

 普通の女子高生が持っていそうな物も、勿論その部屋にはあった。


 しかし、似つかわしくない物もあった。


 例えば、絵画用のイーゼル。これにキャンバスを載せて固定させる支持体と喚ばれる物だが、まあ美術部や絵描きなどの場合はあっても不思議ではない。隣に置いてある水彩用の絵の具も筆も、むしろあって然るべき道具だろう。


 問題は、そのイーゼルが固定しているキャンバスに描かれている絵の方だ。


 果物や花などの静物画、あるいは自画像や他人を描いた人物画、もしくは山や海などの自然を描いた風景画――などではない。


 描かれているのは、怪物だった。


 赤黒く、目玉が顔に十個もあるカエルのような四足の怪物が、空に舌を出してビルより高く舞い上がらせている姿。

 青くゴツゴツした岩のような体で、カタツムリのように突き出た目をした怪物が、川を渡っている姿。

 体から十枚もの羽を羽ばたかせた怪物が、黄土色の蛇のような体を青空に浮かせている姿。


 そして――背中がトゲトゲした針だらけで、どす黒い表面には鱗が敷き詰められた姿。

 ワニのように突き出た顔にはギョロリとした二つの瞳に、耳元まで裂けている大きな口。そこには鋭い牙が剥き出しになっていた。両手には尖った爪が六つも並んだ指がある。

 そんな異形の怪物が、二足歩行でビル街を、その並んだビルより上回る大きさで闊歩していた。


 怪物――というより、特撮映画などで出てくる怪獣のような姿。

 それが、絵には描かれていた。


 しかも、キャンバスに描かれているものだけではない。

 彼女の部屋にある壁に、額縁に飾られて所狭しと並んでいた。怪獣たちが街、山、海、場所を問わず歩いている姿が、何枚も何枚も描かれていた。


 こんなものを他人が見たら、怪奇映画の世界に迷い込んだと思うことだろう。普通の人間なら、こんなものが壁一面に敷き詰められた部屋にいるだけで、正気でいられなくなるかもしれない。


 しかし、少女はこの部屋に何よりの安らぎを感じていた。


 この部屋に、誰も入れたことはない。自分でも人に見せられる趣味ではないと分かっているため、誰かを入れようとか見せようと思ったことはない。


 それに、少女の部屋になど関心を持つ者は、ただの一人とて居なかった。


「……よし」


 着替えと髪のセットを終えた少女は、学校へ行くための準備を始める――前に、ふと窓の傍へと向かい、カーテンを開ける。


 通常ならば、窓の外の景色など、隣接する家々や道路、街路樹やビル程度のものだろう。少女が暮らす国の都会ではそれが普通である。


 だが、少女の目には違う物が映った。


 見えたのは、見上げるほどに大きな怪獣だった。


 背中がトゲトゲした針だらけで、どす黒い表面には鱗が敷き詰められた姿。

 ワニのように突き出た顔にはギョロリとした二つの瞳に、耳元まで裂けている大きな口。そこには鋭い牙が剥き出しになっていた。両手には尖った爪が六つも並んだ指がある。

 そんな異形の怪獣が、少女の家の傍を二足歩行で、少女の家をはるかに上回る大きさで闊歩していた。


 そう、その姿は、彼女が描いた怪獣そのものの姿だった。


 正常な人間ならば、そんな自分を容易に丸呑みするような巨大な怪獣と目が合ってしまえば、正気を失い恐怖に泣き叫ぶだろう。それがまともな人間の反応である。

 しかし、そんな怪獣に対して少女は、


「――おはよう。元気そうね?」


 と、笑いかけた。


   ***


 学校の授業は、非常に退屈だ。


 少女は、成績が悪いわけではない。と言って、別に良いわけでもない。せいぜい中間ぐらいがいいところだ。

 けれど、それは少女の頭が悪いとか良いという理由での結果ではない。


 単純に、少女が勉強嫌いだからである。

 テストの際勉強ぐらいはするが、それ以外では授業態度も決して真面目ではない。隠れてスマホを覗いているくらいだ。


 そのスマホには、少女がSNSで作ったアカウントが表示されていた。


 少女は、SNSになど興味はない。別に友達も居ないし、アイドルも俳優も関心がない。インフルエンサーなど、つい最近までインフルの正式名称かと思っていたくらいだ。


 では何故アカウントなど作ったのかというと、見るためではなく自分が載せるためだった。


 彼女のアカウントには、文字ではなく画像が載っていた。

 載せている画像は、全部水彩画である。


 そう、全てあの怪獣を描いた絵ばかりだった。

 あの気色悪い怪獣たちの絵が、彼女のアカウントに掲載されていた。というより、他に何も載ってはいなかった。文字の一つたりとも。


「……ふふ。また誰も反応してない」


 少女は、小さくそう呟いた。


 少女のSNSは、誰でも閲覧できるようになっており、制限の一つもついていない。

 だというのに、彼女の掲載している絵には感想の一つどころか、ハートマークすら付けられたことはなかった。


 当然である。何の発言もせずに、ただの一人も関係を繋げようとせず、ただおぞましい怪獣の絵だけ載せているアカウントなど誰が目に止めるだろうか?


 だが、彼女はそれで満足していた。


 所詮SNSなど彼女にとって備忘録に過ぎない。ただ記録する以外に理由はない。誰に見せたいわけでも、評価して欲しいわけでもない。例えば、家が火事で焼けちゃったときなどの予備に使っているだけだ。


 誰かに見せようなどと、考えたことはない。

 だって、彼らの姿は誰にも見えないのだから。


「―羅、澪羅レイラっ!」


 と、そこで少女は、自分の名が呼ばれていることに気付いた。それは、今の授業を担当している中年の男子教師だった。

 ハッとして立ち上がる。授業を聞いておらずスマホを見ていたのなら、本来反省すべきだ。


 しかし、少女は微塵も反省していなかった。

 それどころか、非常に不快そうに顔をしかめるのだった。


 ――澪羅って喚ばないでくれないかな……


 そう愚痴りたい気分を堪えて、少女――澪羅はとりあえずの謝罪をする。

 教師から了承を貰い、座り直した澪羅が逸らした視線、窓の外には、


 あの針だらけの、どす黒い怪獣が歩いていた。


   ***


「――澪羅さん。また来ていたのね」


 放課後。既に夕焼けが赤く照らす校舎の一つ、外れに存在する小さな部屋で、澪羅は呆れた声でそう言われた。


 そこかしこに絵画や静物画で使う胸像、あるいは古いイーゼルや画材などが置かれた手狭な場所に、澪羅はいた。


 そんな狭い部屋――美術準備室の中心で、澪羅はイーゼルを立て、正面に椅子で座ったまま絵を描いていた。

 筆を右手に、パレットを左手に持って色を付け、一枚のキャンバスに描いていく。絵の具は勿論、水彩だった。


 澪羅は、現れて声をかけてきた少女を、返事をしないどころか一瞥すらしなかった。完全に無視されていることに腹を立てた眼鏡とボブカットの少女は、苛立ちを募らせて近寄り、無理矢理肩を掴んで自分の方を向かせる。


「いい加減にしてよ、澪羅さんっ! 貴方は美術部の人間じゃないのよ!?」


 そう怒った彼女は、幾度となく目にした顔である。二年生になった澪羅であったが、彼女が先輩だということは覚えていた。そして、美術部の部長だということも。


 でも、名前は忘れてしまった。


 というより、最初から覚えようとしなかった。別段興味を抱かなかったからである。


「――ここは、美術部の部室じゃありませんけど?」

「ここも一応美術室の範囲よ! いくら普段は使わないからって、勝手に出入りされたら困るの! しかも無関係な人間にっ!」

「別にいいじゃないですか、騒いだり暴れたりするわけじゃないし」

「その態度が気に入らないって言うのよ! しかもまた、そんな絵ばかり描いて!」


 そんな絵、という言葉に、澪羅は露骨に不機嫌になる。


「――美術部と関係無いなら、なおさらどんな絵を描こうといいじゃないですか。そんな絵呼ばわりされる謂れはありませんが」

「あるに決まってるでしょ! 貴方そんな気色悪い絵ばかり描いて、頭おかしいんじゃないの!?」


 気色悪い絵、と言う言葉により機嫌を損ねた澪羅は、絵筆とパレットを置いて立ち上がる。


「…………」

「な、なによ……」


 ずい、と立ち上がった澪羅の背は、普通の女子より高い。頭一つか二つは抜けており、人から見れば威圧感が大きい。

 その大きさで詰め寄られると、大概の女子は怯えるのだ。


「……出てってください」

「な、なによ、勝手に占拠していて……」

「出てってください。私は美術部の人間ではありません。だから、貴方に指示される謂れもありません。大人しく絵を描いているだけなので、どうか今日はお引き取りを」


 より上から見下ろす形で迫ると、「ひっ」と悲鳴を上げられる。


 まるで、怪獣か何かと遭遇したようだった。


「こ……こんな自分勝手、いつまでも続けられないわよっ!」


 そんな捨て台詞を吐いて、美術部部長は出て行った。


「……ふう」


 澪羅は、ため息をついて再び椅子に座った。しかしどうにも気分が悪くなってしまい、筆を取る気になれなかった彼女はスマホを取り出し、ネットのニュースを覗くことにした。


「……新種のインフルエンザ、国内外で蔓延か……発症数は多く見られるものの、死亡者は確認されておらず……」


 ふと、そんな記事が目に止まった。


 そういえば、ここ最近休んでいる生徒が多い気がする。澪羅の教室でも空席が目立ち、滅多に差されない自分が当たってしまったくらいだった。


「風邪なんて肺炎になって入院して以来一度もひいてないけど、久々にひいてみたいな……休めるし」


 そんなくだらないことを考えながらSNSを漁っていく。変な怪物の目撃談とか、UFOを見たなんてものもあったが、別にどうでもいいので無視していた。


「……変な怪物、か」


 そうポツリと呟くと、澪羅は目の前にあるキャンバスをその目に捉えた。


 そのキャンバスには、楕円形の殻を持って空に浮く白い貝のような怪獣が描かれていた。


「気色悪い絵、ねえ……」


 先ほどの美術部部長の言葉を、思い出していた。


 まあ、気色悪い絵と言われればその通りかもしれない。自分でも、これが平均的な女子高生が描く絵でないことは十分理解している。


 でも、澪羅はこれが描きたかったのだ。

 いや、これしか描きたくなかったのだ。


 実は、澪羅も最初は美術部に入っていた。入学当初、美術部の勧誘を見て入ってみたのだ。


 だが、澪羅はすぐに辞めてしまうことになる。というより、追い出された。

 理由は、澪羅の描く絵にあった。


 絶対に、この絵や自室に飾っていたような怪獣の絵しか描かないのだ。いくら課題を出しても全く描かない。本人も、最初は描こうとするがすぐ投げ出してしまう。やる気がどうしても出ないのだ。あと、水彩画しか手を出さないのも不機嫌にさせてしまった。


 結果、美術部部員と顧問と揉めてしまい、美術部を辞めることとなった。美術部などに興味はないので良かったことは良かったが、学校で絵を描く場所が消えたのは痛かった。

 そこで、普段はガラクタ置き場同然で誰も入らないこの準備室を借りているのだが、部長はよほど不快らしかった。顧問や他の部員はとっくに諦めているのに、未だに突っかかってくるのは勘弁して欲しい。


 家で描いてもいいのだが、家ではどうしても気が乗らないこともあるので、こんな静かに描ける誰もいない場所が有り難く感じ、こうして不法占拠を続けていた。


 そんな思いをしてでも、澪羅はこの怪獣の絵しか描きたくなかった。

 理由は、非常に単純である。


「…………」


 澪羅は、ふと立ち上がると、狭い美術準備室の窓へと向かう。

 そして、閉ざされたカーテンを勢いよく開けると、


「……調子はどう? 元気?」


 そう、楕円形の殻を持って空に浮く白い貝のような怪獣へ向けて笑いかける。


 窓の下には、下校する生徒や、練習する生徒の姿がいくつも見えた。

 しかし、誰も騒いだり逃げたりはしていない。

 理由は、簡単である。


 見えないのだ。あの怪獣が。


 あの怪獣は、いやあの貝のような怪獣に限らず、誰も街中を平然と歩いて飛んでいく怪獣を見ることが出来ない。


 唯一、澪羅だけが怪獣を認識できるのだ。


   ***


 きっかけは、多分あの時だったと思う。


 悪い風邪をこじらせて、病院に入院した。もう十年くらい前のことだ。

 当時の私は、近くの山にある小さな廃校で遊ぶことに夢中で、遅くまで遊んでよく怒られていた。それでも次の日は平然と遊びに行ったのだが。


 ある日、いつものように廃校へ行った際、校庭に凄い光と爆発のような音がして、辺り一面物凄い砂埃で覆われた。

 何が起きたか分からなかった私は、砂埃が消えるのを待って校庭に近づく。


 校庭には、大きな大きな穴、クレーターが出来ていた。

 恐る恐る穴の中心に近づいていく。子供ながら危険だと思ったが、どうしても好奇心に勝てなかった。


 しかし、そんな勇気を振り絞ってたどり着いた中心だが、別に何も無かった。

 せいぜい、石の粒がいくつか見つかったくらいで、特に特別綺麗でもなく代わり映えもしないので、拾ったもののすぐ飽きてしまい、校舎にポイ捨てしてそのまま帰ってしまった。


 だけど、その日の夜、私は酷い高熱で肺炎にまでなり、病院に運ばれた。

 生死の境を彷徨ったらしく、二日くらい意識が不明だったが、幸い一命を取り留めた。


 そして、容態が安定して一般の病室へと移されたときだった。


 ふと窓を覗くと、銀色に輝く五十本以上は足のある蛸が、四階にある私の病室に迫る大きな体を揺らしてその辺をうねうね移動していた。


 最初は、それはもう大騒ぎしたものである。看護師にも医者にも大きな声で叫び、パニック状態になったため両親が呼び出されたくらいだった。


 が、私がいくら騒いだところで、誰もそれをまともに聞き入れようとしなかった。


 どうも、あの怪獣は私以外誰にも見えないようだった。それに、あの怪獣たちは基本移動しているだけだが、どういった理由か道中車や建物、人を踏みつけたところで別に壊したり潰したりしない。普通の生物とは違うらしく、確かに幻のような存在なのだ。


 だから、いくら説明したり絵に描いたところで、誰も私の言うことを信じてくれない。何を誰に話したところで、高熱のせいで脳に異常を来したと脳外科に連れて行かれたり、精神疾患と思われて精神科に連れて行かれるだけだった。


 やがて、何も言っても無駄なのだと悟り、私は言うのを辞めていた。未だに怪獣は見えているが、誰にも隠している。どうせ、彼らは私以外の誰にも見えないのだ。


 それが、私の秘密だった。

 無意味で、無価値な秘密――誰もそれを理解できず、見ることすら叶わないのだから。


 それでも、彼らは私にとって、とても大事なお友達なのだが。


   ***


「ふう……」


 金曜日。

 澪羅は学校の帰り、電車に揺られていた。夕日が時折ビルの隙間から照らしてきて痛い。


 澪羅の学校は、バスで十分程度の距離にある。電車を使う必要は無い。

 けれど、今日は画材が切れていたため、電車で隣町にある画材店へと足を運んでいた。近所にいい店が無いため、少し大きな街の専門店に行かなければならなかった。

 学校帰りにとんだ寄り道をしなければならなかったが、疲れているわりに澪羅は上機嫌だった。

 理由は、日付にあった。


 今日は金曜日。明日は土曜日で学校は休みである。

 しかも、日曜日は祝日であるため、振り替え休日で月曜日も休みである。つまり三連休が麗羅を待っていた。


 とても幸せな気分である。

 これで、三日間も絵に没頭できると思うと嬉しくて堪らなかった。


 澪羅には、絵以外の趣味は無かった。

 友達もいないし、ショッピングもしない。服や化粧にも興味が無い。アイドルなんて流行の歌すらろくに知らない。パソコンもテレビも家にはあるが、ほとんど見なかった。


 だから、煩わしい学校などに行かなくて済む休日は、絵を描くことのみに全てを捧げていた。

 それに、澪羅にはもう一つの期待があった。


「――ん」


 ふと、スマホの着信音が鳴った。買って何年も経った機種のスマホは、初期設定のありきたりな音楽しか鳴らさない。

 そのスマホが慣らす着信音は、メールの物だった。


「来た……」


 少しの面倒くささと、喜びを抱いてスマホを開く。


 届いたメールには、週末から週明けまで仕事で帰らないという機械的な文面だけ書かれていた。

 まるで堅苦しい学校のお知らせのような最低限しか無い冷たい文章であるが、澪羅はそれを当然と受け止めていた。


 父とは、メールでも口でもこんな会話しかしたことが無かった。


「また出張……いつものことなんだから、いちいちメールしなくてもいいのに……」


 澪羅は嫌そうに呟く。相手は父親だというのに、非常に鬱陶しそうだった。


 父が帰ってこないのは、むしろ期待通りである。父は激務で早朝から深夜まで仕事だが、流石に休日は家にいる。家にいたところで会話などほとんどしないが、会うだけでも気が乗らなかった。出張でもなんでも、家に不在なら嬉しいことは無い。


 だとしても、受け取ったメールに嫌な気分にされてしまった澪羅は、気晴らしとばかりにSNSを開く。相変わらず自分の絵には少しも反応が無い。それを確認すると、今の話題に触れてみた。


「……空を飛ぶ龍が目撃された……アメリカで超巨大デビルフィッシュが現れたと百人以上が集団幻覚で搬送……変なニュースばっかり……」


 デビルフィッシュとはなんだろうと思ったが、興味も無いので検索しなかった。SNSも所詮は暇つぶしの道具でしかない。


 澪羅の望みはただ一つ。あの怪獣たちの絵を描き続けることだ。


「……あ」


 そろそろ降りる駅か、と思い窓から外を覗いてふと視界に入ったのは、小高い山だった。

 名前すら忘れた小さな山だが、今その中腹には大きな工場が建っている。まるで森の間に突き刺したような不格好さで、この距離では異様に見える。


「……久々だな」


 澪羅は、自分でも思わずそう呟いていた。


 あそこにどこかの工場が建ってから、まだ一年もしていないと思う。

 それに気付いた時もこうして電車で外出していたが、既に森が切り開かれ工事が始まっていたのには驚いたものだ。


 なにしろ、工事していた場所は、澪羅が足しげく通った廃校だったのだから。


 病気になって以来一度も行っていない廃校だったので、取り壊して工場が建つのを知ったのはとうの昔に校舎が壊された後であった。思い出は確かにあるが、何しろ昔過ぎて悲しいとか寂しいという感情は湧かなかった。


 あるいは、あの日、怪獣が見えるようになって自分の家庭が壊れたことが理由かもしれない、と澪羅は思った。


 あの工場が稼働しているかは知らないが、もう廃校は跡形すら無いであろう。改めてそう考えると、やはりどこか虚しさはあった。


「……あ」


 しかし、そんな感慨はすぐに消えてしまう。


 空の上に、長い長い胴体をくねらせ、悠々と空を泳いでいく紫色の蛇が見えたからだ。


「……よかった。最近見ないから心配していたけど、元気にしているみたい」


 などと、彼女にしか見えないはずの怪獣に、彼女は一人笑いかけた。


   ***


 澪羅に、家に帰るときただいまという習慣は無い。

 理由は、誰もいないからだった。彼女は自分の鍵を持ち、灯りの無い家に戻った。


「……よし」


 広々としたリビング、機能的で美しいダイニングキッチンを無視して、買ったばかりの画材とコンビニの弁当を片手に二階の自室へ向かう。他の部屋など、トイレとバス以外ほとんど用は無い。


「……ただいま」


 そう、彼女は自室に入るとき、玄関を開ける際発さなかったただいまの台詞を口にした。

 理由は、誰かがいるからだった。

 それは勿論――部屋一面に飾られた、怪獣たちの絵である。


「……ふう」


 無論、返事は無い。澪羅はため息一つして、机に座るとコンビニの幕の内弁当を開いた。

 特に味わいもせず、機械的に食しながら、澪羅は考えていた。


 ――手料理っていつから食べてないっけ。


 麗羅の母は、父と離婚していた。

 正確には、離婚したか離婚していないか分からない。澪羅は知らないが、父は当然知っている。


 実は、澪羅の母は突然署名と判が押された離婚届を置いてどこかへ消えてしまっていた。その離婚届を出したかどうか澪羅は知らない。父に聞きたいとも思わなかった。


 母が離婚した理由は、麗羅にあった。


 高熱を出して倒れたかと思えば、突然狂ったようなことを言い出す娘に疲れたのだ。恐れたのが正しいかもしれない。母の見る目が、それこそ怪獣でも見るかのように変貌していったのを幼いながらも覚えていた。


 やがて耐えきれなくなったのか、母は蒸発してしまう。両親の仲は決して悪くなく、むしろ仲睦まじい関係だった。当時の澪羅もだいぶショックを受けたものだ。


 だが、よりショックだったのは父だった。

 澪羅を、愛する妻を怯えさせ自分から離れさせた疫病神と見たのだ。


 直接虐待の類いを受けたわけではない。

 けれど、父は澪羅に関心を示さなくなった。元々仕事人間であまり家にも帰らなかったが、母がいなくなってからはさらに距離を取るようになる。澪羅が幼い頃は家政婦さんを入れていたが、一通り家事が出来るようになるとそれも無くした。


 妻と家族との温かな家庭を夢見て買ったこの家は、父にとって単なる荷物置き場と寝床と化した。ここ数年口もロクに聞いていない。三者面談の際は仕方なく親戚の叔母が来た。そろそろ進路を決める時期だというのに、聞きにすら来ない。興味が無いのだろう。


 澪羅も、父に関心を無くした。自分が悪いのは分かっているが、見える物を見たと言ったのを責められても困る。仮に自分が何を言ったところで、もはや手遅れだろう。


「……進路か」


 ぽつりと、そんなことを呟いていた。


 進学する気は無い。学費なら父が稼いでいるため問題ないだろう。大して成績が良くない澪羅でも、私学程度なら余裕で行けるはずだ。仮に大学に行きたいと言えば行かせてくれるはずだ。


 変に反対などして、娘と喋りたくないだろうし。


 だが澪羅に進学する気など無かった。

 勉学に興味は無い。スポーツも好きじゃないし、絵だって怪獣の絵以外描く気は無い。美術部を追い出されたことの二の舞になるだろうから美大は論外だ。


 なら、一刻も早く就職して、この家から出て行って上げよう。

 それが、疫病神が娘として出来る最後にして最大の親孝行だ。澪羅はそう思っていた。


 しかし、問題はどこにするかだが――相談する相手がいないので、全く見当もつかなかった。


 別にいいか、と切り替える。仕事なんか何でもいい。絵を描く時間さえあるのなら、どんな待遇でも気にしない。それだけが澪羅にとって譲れないものだった。


「さて、今日はどの子を描こうかな……こないだ見た、チョココロネみたいな子がいいかな……」


 面倒なことは頭から外して、澪羅は食事を終えてイーゼルの前に座る。真っ白なキャンバスに、どんな怪獣を描きたいか考えるこの時間が一番好きだった。




『――この変なの、名前はなんて言うの?』




「…………」


 ふと、そんな台詞が頭をよぎり、嫌な気分になってしまった。


 誰の台詞かは忘れてしまった。病院時代の看護師か精神科医か、あるいは親戚の叔母だったかもしれないけれど、もう覚えていない。

 覚えているのは、名前を聞かれたことに腹を立て、筆を洗うためのバケツをぶつけたことくらいだ。


 ――名前なんてどうでもいいでしょうに……


 顔をしかめて、澪羅はため息をついた。


 澪羅は、大量に描いた怪獣の、ただの一匹にも名前を付けた事が無い。それぞれを判別するためにも、『カエル』とか『カタツムリ』とか『チョココロネ』など特徴から分けているだけだ。


 理由は、澪羅が自分の名前を嫌っていることだった。


 澪羅というこの名前は、失踪した母が付けた名前だ。由来を知る前に母が消えた。父は知っているかもしれないが、この名前を言うだけで嫌な顔をする父が教えてなどくれまい。澪羅も、そんな名前のことを知ろうなどと思わなくなった。


 もう一つ、この怪獣たちが澪羅以外見えないからだ。


 誰も見えない、知ることもない怪獣たち。澪羅だけが見える彼らに、わざわざ分類など必要だろうか? なら勝手に名前を付けるなんて、非常に傍若無人な行為に違いない。


 これは、私だけの秘密。

 私だけの怪獣たち。


 私だけの、私だけが見えていればいい、たった一つの――


「……あ、そうだ充電しておかないと」


 スマホの充電が切れかかっていたことを思い出し、澪羅はスマホをバッグから取り上げる。ついでに、SNSを見てみた。


 相変わらず自分の絵には変化がない。しかしSNSには、変な投稿がいくつもあった。


「……背中にホラ貝みたいな大きな甲羅を背負った巨大生物が飛び跳ねてた? 最近こんなトレンドばっか……」


 おかしな話に興味が失せると、ワイヤレス充電器の上にスマホを置いて描くのを再開することにした。


 食べ物も買ってきたし、三連休。家に籠もってひたすら描く準備は出来ている。

 今日は徹夜してもいいかもしれない、と澪羅は浮かれていた。


   ***


「……ん」


 ふと、サイレンの音が聞こえて、澪羅は眠りを遮られた。

 窓からは朝日が昇っている。時間を見ると、もう六時だった。


「しまった、寝てた……」


 まだ半分寝ている瞼を擦って起きる。椅子にもたれかかったまま寝ていたので体の各所が痛い。寝ぼけて正面のイーゼルを倒さなかったのは幸いだった。


 どうも、昨日描いている最中に寝落ちしてしまったらしい。三連休最後と勢いづいて寝る間も惜しんで描いたのが災いした。今日はもう火曜日だというのに、準備も何も出来ていなかった。


「まずい、学校行かなきゃ……」


 慌てて立ち上がり、三日分の弁当などが散乱している部屋をかき乱す。急いで用意する必要があった。


「……あれ?」


 ふと、そこでスマホを取り上げると、充電が切れていることに気付いた。


 どうやら、ワイヤレス充電器のコードが外れていたらしい。澪羅はこの三日間どこにも出かけず、スマホを使わなかったため気付かなかった。自分の失敗に呆れてながら、澪羅は充電器のコードを直接スマホに接続した。


 そして充電がされ、ホーム画面が表示される。


「……え?」


 澪羅は、目を疑った。


 ホーム画面に表示されているSNSの通知が、山ほど入っている。件数は表示しきれないくらいであり、評価数に至っては万単位、コメントも千以上はある。誰も反応してくれなかった三日前に比べることも馬鹿馬鹿しいくらいの圧倒的差だった。


「ど、どういうこと……?」


 わけが分からず困惑した澪羅だったが、とにかく何事が起きたのか調べるため、SNSを開いて自らが投稿した画像たちを表示する。


 その画像に記されたコメントの類いは、例えばこんなものがあった。




『嘘だろ……俺見たぞこの化け物!? 風邪が治った後病院出たら目の前走ってた!』

『昨日街中を歩いていたカタツムリ、こいつだ間違いない!』

『このUFOネットで見た奴と一緒じゃん! なんだよ投稿されたの一年前って!』




「……見た?」


 澪羅は、唖然とした口調で呟いた。


 なんと、コメントは全て、澪羅が投稿した画像に描かれている怪獣たちを見たというものばかりだった。海外からのものらしい英語や中国語のコメントや、あろうことかニュースサイトの取材依頼まで来ている。とても冗談とは思えなかった。


 混乱した澪羅は、SNSでそれ以外のところを探してみたが、どれも一緒だった。


 怪獣たちが、世界各地で目撃されている。

 そして、その怪獣たちの写真まで撮られている。

 今世界中は、その怪獣たちが現れたニュースで大パニックとなっていた。恐らく、誰かがネットで怪獣たちの写真を検索していたところ、何年も前から怪獣たちの絵を投稿していた澪羅のSNSに行き着き、騒ぎ出したのだ。


 澪羅だけのものだった怪獣たちで。


「……なんで、今更見えるのよ……」


 澪羅が抱いたのは、激しい怒りと嫉妬だった。


 あれだけ皆に信じて欲しい、受け入れて欲しいと願い、絵にまで描いたというのに、いざ現実に人々が怪獣に気付いた今、あった感情は憎悪しかなかった。


 自分が築き上げてきた怪獣たちとの絆を、台無しにされた不快感がそこにはあった。


 けれど、そんな怒りに満ちた瞳でSNSを見ていた澪羅に、驚きの投稿が目に入ってきた。


「……暴れている?」


 澪羅は、とても信じられなかった。


 怪獣たちは、基本歩くか空を飛ぶか、あるいは水を泳ぐかしかしない。こちらに興味が無く、また干渉も出来ないようで、歩いていても人を踏み潰すこともしなければ道路を砕いたりもしない。暴れたことなど一度とてなかった。


 ところが、SNSには世界中で見つかった怪獣たちが、人間たちに襲いかかっている動画がいくつも投稿されている。政府が緊急事態宣言まで発動したとの速報まであった。


 理由は分からないが、怪獣たちに何かあったらしい。何かあって見えるようになったのか、あるいは何故か見えるようになったので暴れ始めたかは知らない。

 しかし、今世界中の人々に怪獣たちが襲われているという情報を知った、澪羅によぎった物は、


「……なんで、私じゃないのよ……」


 という、寂しさと虚しさだった。


 あれだけ彼らを愛し、彼らの絵を描いた自分には目にもくれず、唯一見えていた自分を無視して他の人を襲っている。それが澪羅には、たまらなく悔しかった。


 そんな時だった。


 外で、激しい爆発音がした。


「……!?」


 驚いた澪羅は、カーテンを開けて外を見る。


「あれは……」


 そこには、巨大な黒い物体がいた。


 背中がトゲトゲした針だらけで、どす黒い表面には鱗が敷き詰められた姿。

 ワニのように突き出た顔にはギョロリとした二つの瞳に、耳元まで裂けている大きな口。そこには鋭い牙が剥き出しになっていた。両手には尖った爪が六つも並んだ指がある。

 そんな異形の怪獣が、澪羅の家から少し離れたところを二足歩行で、少女の家をはるかに上回る大きさで闊歩していた。


 時折鳴る悲鳴と銃声。警官が発砲でもしているのかもしれない。ところどころで火事も発生している。先ほどのサイレンはこれだったのだろう。


 つまり、今怪獣たちが街を破壊しながら闊歩しているという、怪獣映画さながらの光景が、目の前で起こっているのだった。


「……っ!」


 澪羅は、着替えも済まさず必死に駆けていった。

 何年ぶりと思える全速力で、黒い怪獣の元へとたどり着いた。


「はあ、はあ……」


 ようやく到着した澪羅は、髪を振り乱し汗だくで、息も非常に荒かった。

 だが、周りの有様ははるかに凄惨な物だった。


 道路は砕かれ、家もビルも壊され、辺りは火災による煙と粉塵で覆われていた。

 今までの穏やかだった街並みは、もはや無い。紛争地帯かと思うぐらい破壊され尽くしていた。


 これが、巨大怪獣が歩くということなんだろう。ただ歩くだけで街が崩壊される。これが本当の怪獣の姿なのだ。


 それを作り出している、澪羅が『トゲトゲしたの』などと区別していた黒い怪獣。

 今までは単に歩いている姿しか見たことがなかったので、暴れ狂う様子に愕然としてしまう。


 どうして彼らが人々から見られるようになったのかは、分からない。大人しかった彼らが、突然暴れ出したことも、皆目見当がつかなかった。


 でも、そんなことはどうでも良かった。


 彼女は、ゆっくりとトゲトゲした怪獣の正面に立つ。逃げ惑っていた通行人や警官などが叫ぶ声が聞こえるが、澪羅の耳に入りはしなかった。


「…………」


 最初、いきなり進行方向に現れた麗羅に、黒い怪獣は戸惑ったらしく動きを止めた。

 そんな彼に、澪羅は話しかけた。


「……ずるい」


 澪羅は、怪獣を見かけると、いつも声をかけていた。

 だが、返事も反応も一度も貰っていない。向こうはこちら気付いていないらしく、常に無反応だった。


 だから、今この瞬間こそが、初めての会話である。


「どうして、私のところに来てくれなかったの……私はあなたたちをずっと見てきたのに、どうして、私を……!」


 それが、一方的な感情でしかないことくらい、澪羅にも分かっていた。


 澪羅は怪獣たちを友達か家族のように思っていた。あるいは自分だけの宝物だろうか。

 でも、怪獣たちは澪羅のことなど関心すら抱かなかったはずだ。


 なにしろ、澪羅は怪獣たちを見ていても、澪羅が怪獣たちに見られたことなど一度も無いのだ。


 だから、澪羅が抱いているこの怒りは、怪獣たちにとって非常に理不尽なものである。それは理解していたが、それでも溢れ出た感情は止められなかった。


 澪羅が涙を流し、どれだけ時間が流れただろうか。

 誰も怪獣の前に自ら飛び出したおかしな少女を助けようとせず、ただ静止したままでいると、初めに動いたのは怪獣だった。


 ワニのような口をガパッと開くと、素早い物が澪羅に向かって走った。


「きゃっ……!」


 それは、くすんだ赤色で出来た怪獣の舌だった。二本もある大きな舌が、澪羅の体に巻き付く。ベタベタとした唾液とザラザラした感触が澪羅を縛り上げた。

 そのまま、怪獣の舌は澪羅を地面から離して浮かせていく。そこでようやく周囲の人々が慌てるものの、とうに手遅れだった。


 怪獣は、澪羅を喰おうとしていた。


「……っ」


 締め付けられ、持ち上げられ、澪羅は苦痛に耐えていた。

 だが、彼女は悲鳴も助けを求める声も一切出さなかった。


 激痛に消えそうな意識の中、彼女が見つめていたのは、ただ一点。

 怪獣の、瞳だった。


「……ああ」


 今まさに、巨大な口に運ばれて喰われそうになる直前に、彼女は涙を流した。

 しかし、それは先ほどまでの怒りと悲しみの涙ではない。


 澪羅は、嬉し泣きをしていた。


 ――映っている。


 彼女は、怪獣の瞳に映るものが見えた。

 すなわち、今食い殺されかけている、縛られた自分自身の姿だ。


 それは、死の間際の澪羅が見た幻覚かもしれない。

 だが、彼女にはそれで十分だった。


 見られている。


 誰にも関心を向けられず、両親からも見放され、誰からも除け者にされた自分。


 それが、あれほど愛し、求めた怪獣に見られている。求められている。

 そして今、私に注目し、食べられようとまでしているのだ。


 誰からも相手にされなかった澪羅にとって、これ以上の幸せは存在しなかった。


「……ねえ、怪獣さん」


 舌がいよいよ口に近づき、とうとう食い殺されようとしている中、澪羅はその怪獣に向けて微笑みながらこう呟いた。


「あなたは、私を知らないでしょう、けど……私は、こうしてあなたたちを見られて、あなたたちに見られて、幸せだった。だから、だから……」


 目の前に迫った大きな口に、澪羅は厳しくなる締め付けに耐えつつ、最初で最後のお願いをする。




「もし、お気に召したのなら、「美味しかった」と思ってくれないかしら?」




 そこを最後に、澪羅の意識は途絶えた。


   ***


 ――あれ。


 ふと、少女は目覚めた。


 視界もはっきりしない、長く眠りすぎたときのような不確かな覚醒であったが、少女は意識を取り戻した。


 ――私、どうして……


 少女は信じられなかった。


 確実に、あの怪獣は自分を食べたはずだ。最後に、自分の体が砕ける感触を、少女は記憶に焼き付けていた。

 でも自分は生きている。失敗したのだろうか? と少女は絶望したが、すぐにおかしいことに気付く。


 ――痛くない。


 怪獣の舌に巻かれて、締め付けられ体中に痛みと苦しみが走ったのに、少しも感じなかった。まるで幻だったかのように、全ての苦痛が消え去っていた。


 まさか、全て夢だったのだろうか? そんな最悪の予想が生まれ、起きようとして目を開く。

 すると、そこには予想外の光景が浮かんでいた。


 ――え?


 目の前に、青空があった。

 見慣れた青空。しかしどうにも様子がおかしい。怪獣たちの背景として時折空を描いていた少女は、すぐに違和感に気付いた。


 空が、妙に低いのだ。


 何かが起きたことを悟った少女は、視界を下へと向ける。

 そこには、はるかに信じられない光景が広がっていた。


 ――これは……


 眼下に収まるのは、ひび割れた道路と壊れた車。

 だがそのサイズは非常に小さい。車など手づかみできる程度もない。まるでオモチャだった。


 けれどそれは決してオモチャなどでもない。

 何故なら、そのひび割れた道路と壊れた車の間を抜けるように、小さい人間たちが逃げ惑っていたからだ。


 ――まさか。


 少女は、自らの両手に目をやる。


 その両手は、尖った爪が六つも並んでいた。


 ――はは。


 何が起きたのか、何が起きているのかさっぱり理解不能だった。

 しかし、確実に分かることがあった。


 少女は――澪羅だった存在は、怪獣になったということ。


 ――はは、はははは、ははははははははははははっ!!


 少女は、怪獣は笑っていた。

 心から、異形の怪物になれたことを歓喜していた。


 もしかしたら、少女が怪獣を愛し、求めたのは親しみなどではなかったのかもしれない。


 それは――憧れだったのかもしれない。


 誰の目も気にせず、誰かに見られる見られないなど気にせず、好きに街々を闊歩するその威容。

 それが、堪らなく羨ましかったのかもしれない。


 そして今、自分がその怪獣になっている。

 では、どうすればいいのだろうか。


 ――まあ、怪獣がすることと言えば、


 少女は、怪獣は、その巨大な瞳で辺りを見回す。


 壊れ、火の手が上がる街。日常が全て破壊され、人々が泣き喚き嘆く街。

 少女だった怪獣を苦しめてきた、現実が壊れていく様がそこにはあった。


 ――やっぱり、家やビルを壊したり、人間を食べたりすることよね?


 怪獣は、そこで満面の笑みを浮かべ、天へと向け咆哮した。


   ***


『――本日未明、世界各地で目撃された怪獣たちは、市民や周辺地域に甚大な被害をもたらし――』


『各国の軍隊の迎撃作戦も失敗――怪獣の多くは消息を絶ちましたが、未だ暴れている個体も多く――』


『――なお、――県――市に出没した怪獣は、政府発表により、一番初めに怪獣を目撃したと思われる人物から――』




『――レイラ、と呼称することが決定しました――』

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