今夜、殴られに行く

真槻梓

今夜、殴られに行く

少し怖い話をしてあげよう、と隣席の男が言った。夏の盛り、蝉が良く鳴く雑木林のほど近くに位置する居酒屋で、突然僕は男に絡まれた。


それは、妙に見たことのあるような顔をした、しかし知らない男だった。

僕は少し焦って、右手に持つレモンサワーを隠すように握り込んだ。


電源を落としたはずの携帯が震えた気がして、気が気ではなかった。


男は三十歳前半ほどの誠実そうな人間で、姿勢をしゃんと伸ばして居酒屋の丸椅子に掛けていた。頭髪は黒々と健康的に見えたが、思惑のありそうな態度が僕を刺して逃がさない。


カウンター席しかない狭い店内に男が入ってきた時、終始不機嫌そうだった店主が気さくな態度をその男に向けたこと以外、そこまで気に留めていなかった。

その後、僕に形式的な許可を取る形で僕の隣の席に着いて、しばらくは無言の時間が流れていたから、冒頭の様に話しかけられて、僕はなんと返せばいいのかわからなかった。しかし、その男が僕に注いでくる目線に少し、僕を見透かしたような光が紛れ込んでいて、十八になったばかりなのに飲酒に励む僕は、あからさまな緊張を隠せなかった。


大学入試を間近に控えたこの時期に、進路に始まり日々の生活と、僕と親の間にはささやかばかりの軋轢が生まれていた。

その原因は明らかに僕にあるのだが、簡単に譲ることもできず、反抗期という名称をそのままに家を飛び出している。


両親は、良い人間だ。良い人間だからこそ、僕にとって彼らの態度は唯一の正解であるように見えて、肩身が狭かった。


「この店にはよく来るのか?」


男が僕に話しかけてくる。嘘が得意ではない僕は、何が原因で追及されるかわからず警戒して、考えた後に、初めてです、と短く答えた。男は、そうかと言って、追加の串を注文した。


不愛想な店主が、炭火の煙で輪郭を失う。空間が男と僕とだけで独立したような、不思議な感覚。


「まぁそう気張るなよ」


男がたしなめるように僕に言った。見下すようではなく、あくまで対等に接してくる男に、いささか警戒感が鈍っているのが自分でもわかる。


「そりゃ、急に知らない人から話しかけられたらびっくりくらいする……しますよ」


男は、確かに、と言って笑った。その目には、名状し難い凪いだ気配が染み込んでいた。僕はその感情を知らない。


串が届いて静かな乾杯をして、男は日本酒を飲み始めた。酒を飲みなれない僕の恐る恐るというペースとは反対に、男は水の様に日本酒を流し込んでいった。


「時に」


男が僕に話しかけてきた。反射的に僕は男の顔を見たが、予想に反して男の目線は遠くを見ていた。


「俺も不良少年だったんだが」


そう言って、男は笑った。僕は、その表現で少しどきりとする。拍動は強く鳴って、酒のせいだと胸をなだめるほかなかった。気取られては負けだと思いすまし顔を決め込んでいたが、真意を汲まれたかもしれないという思考が拭えない。


「勉強もせず、適当に友人と過ごして、たまに悪いことをして……そんな学生だった。昔はもっと、いろいろ緩かった。罪悪感は薄かったよ」


男の意識が僕に向いてはいたものの、そのほとんどが昔に向いていることは酒に酔った頭でもわかっていたため、僕は少し気を抜いて、男の話を聞いた。両親の意見に反発した手前、年長者の男の自慢話を聞く気は正直起きなかったが、話のオチにまるで興味がわかないわけではなかった。


感情に引っ張られ、変わらない日常を憂いて、男は友人たちを結託して、原付で東京を目指すことにした。男が住んでいたところから東京までは最短距離にしても六百キロは離れていたそうで、流石に無理があると何人かの友人は止めたそうだが、男はその静止を聞かなかった。


「とにかくどこかに行きたかったんだ、手っ取り早くて分かりやすい手段に、魅了されたんだ」


原付に乗って道すがら、最初に乗ってきた友人たちも徐々に離脱していく。

両親を理由にするもの、友人を、恋人を、あるいは兄弟を理由にするもの、様々であったが、それらはどれも、男からしたらどうにかして離れていきたい物事に他ならなかった。

段々意固地になって行ったんだ、男は鼻で笑って言った。


最短距離で進んでいたが、それが逆に悪かった。碌にメンテナンスも給油もしていない原付は徐々にその速度を落としていき、それに加えて風を切る中で体温は下がっていく一方、しかし帰るなどという選択肢は、当に男の頭からは捨て去られ、ただ無心に南へ向かうだけとなっていた。


しかし、運転するのにも集中力を使う。男の気力はゆっくりと、しかし確かに削がれていく。


僕は、男が隣に腰掛けて、僕に対してこの話をする理由が読めなかった。自慢話のような口調はどこにも見当たらない。それに他の店に行けばいくらでも話を聞いてくれる人間がいるはずであった。あえて僕に話すにしても、僕はこの男と知り合いではないし、聞く義理はどこにも存在しないように思われた。

結末が気になりはするものの、真剣に聞く気持ちは起きず、目の前の串を摘みながら、冷たさが逃げて行ったレモンサワーをゆっくり飲んでいた。男は、タイミングを見て、僕の分の串も合わせて注文してくれた。


「俺は途中にあるだろうガソリンスタンドで夜でも明かそうと思っていた。最悪原付は押して行くことになるとしても、コンビニでも良いかという気持ちになっていた。そのくらい、疲れてきたんだ」


男はそう言って、当時を思い出したように小さく笑った。それでも道は延々と男の前に繰り返されていく。せめてもの水分補給と途中に購入したペットボトル飲料の中身が、凍ってシャーベット状になった時には、諦めてその辺で野宿でもしようかという気になった。


「そのころには、親と喧嘩した、なんて些細な理由はどうでもよくなってくる。あるのは『東京に行く』とかいう芯のない、がらんどうの、どうしようもない目的だけで、実際ほとんど義務感だった」


男は、そこまで至っても、その目的を捨てきれなかった。


「どうしてだろうな、まだ引き返せる頃合いだったはずなのに」


僕は、串を食べながら、話半分で聞いていたが、不思議と、どうしてその時男がそうだったのか、に関しては自分のことの様に理解できた。


「それ以外、自分には何もない」


僕は、呟くように男に言った。レモンサワーの氷は小さくなっていて、飲んでもつまらない味しかしなくなってしまっていた。男は僕を見ることもせず、しかししっかりと頷いて、


「その通り、よくわかるじゃないか」

それだけを言った。


僕は、男がどうしてこの話をしているのか、わかり始めてきた。予想に過ぎないが、多分、男は僕が未成年であることを知っているのだろう。そして、未成年でありながら酒を飲んでいる僕をたしなめようと、このような話をしているのだ。

予想に過ぎないが、中々に的を射ている推論だろう、と僕は僕の中でぼんやりと考えていた。

しかし、そのような意図が透けてもなお、男の話は説教くさい響きを帯びることなく、僕の耳に届いていた。


そして、原付のガソリンが底をついた。近くにガソリンスタンドの影はなく、だだっ広い平野と道が男の前に広がっていて、空しい気持ちになる。

原付を端に寄せていたのは不幸中の幸いだった。男は警察に連絡をしようと思ったが、寒さにやられたのか、携帯のバッテリーも空になっていた。男は、原付を押しながら来た道を戻って、コンビニに向かった。


コンビニで電源を借りて、俺はどうにか連絡だけは取れる状態になった。この時初めて時間を確認して、午前三時頃だと知った時には驚いた。それと同時に体が急に重くなって、びっくりしたよ。


通知欄に大量の着信履歴を見た。全て、両親からだった。むしゃくしゃした、曖昧な気持ちになって、俺はそのまま原付をコンビニに置いて、鍵を掛けた後、近くの駅に向かった。


「結局何時ごろだったか、警察に厄介になって、俺は家に戻った。その時の親の表情と言ったら、なんて表現できるかわからないよ。俺は人生で初めて母親に叩かれて……申し訳ないとは思わなかったが、少し後悔をした。俺としては、この家出自体は大した問題じゃなかったんだけどな」


今の男の吹っ切れたような表情と、微妙に上がっている口角から、僕はその時、男がどんな顔をして親に叩かれたかを想像することができた。恐怖や絶望ではなく、ある種の安堵の表情をしていたに違いないと、僕は踏んだ。

事実、隣の男の表情を言語化するなら、それ以外に当てはまる気がしなかった。


「聞いてくれてありがとう、結局俺は家に戻ったが、お前はそうしなくてもいいだろう」


また、男は見透かしたような目つきで僕を覗き見た。

僕は、薄くなったレモンサワーを、明後日の方角を見て、飲み干した。


男が店主に、勘定を払っている。金額から考えるに、僕の分も含まれていた。僕はベッドで寝たく思い始めた。携帯を再起動すると、いくつかの通知が届いていた。


「俺は先に帰るぞ、少年。やったことは戻らんが、やることは変えられる。殴られるのすら一興だぞ」


男はそう言って、僕を残して席を立った。空白に僕の後悔が残って、男の背中を追うわけでもなく、僕もすぐに席を立った。


店主が、男に、そして間違いなく僕にも聞こえるように、「またどうぞ、巡査さん」と言った。僕ははたと、その男を見たことがあると思った理由を知ることになった。

しかし、それについて男に直接聞くことも、あるいは居酒屋の店主に聞くことも、なんだか野暮に思えて、警察に厄介になった僕はそのまま家の方角へ歩き出した。


雑木林から覗く月が、鼻にツンと効いた。

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今夜、殴られに行く 真槻梓 @matsuki_azusa

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