第7話

「どうだ……?」

「…………本物です」

 黒いローブの老人――――ドルミーレの館長ファルコーネの問いに、青いつなぎを着た髭面の男はそう重々しく、その場にいた誰もが知りたかった事実を告げた。

 コラードが容姿とは裏腹の硬軟織り交ぜた弁論術で『帝政』三巻をもぎとり、三人がドルミーレに戻った後。研究部門の学芸員室はとんでもない騒ぎになった。『帝政』ベネディクトゥス朝三代の章の、完全な原本と写本を入手してきたのだから当たり前である。あまりにうるさいものだから、他の部屋や廊下から覗きにくる学芸員がいたくらいだ。話を聞いてすっ飛んできたファルコーネやマルギーニも、興奮のあまり卒倒しかけたり顔を真っ赤にしたりしていた。

 そんな混乱の中、アルビナータはファルコーネに引きずられるようにして、小会議室へ連行された。真贋の確認作業のためだ。古文書専攻の学芸員も数人、作業のために同行した。

 そうして、ベネディクトゥス・ピウス帝の章は本物の原本だと断定された。そして異母弟であるデキウス帝の章もたった今、本物の写本だと断定されたのである。

「……まさか、生きているあいだに完全なベネディクトゥス・ピウス帝の章の原本と、デキウス帝の章の写本を見ることができるとはの……」

 そう長い息を吐き出し、ファルコーネは感慨深そうにも、興奮が過ぎて疲れているようにも思える声音で言った。巻物の分析にあたった学芸員たちも、まだ信じられないといったふうの目で巻物を見つめている。

「……弟君の章も本物となれば、‘アウグストゥス’はお喜びになるだろうな」

「だと思います。弟さんのことも……親衛隊長さんの消息も知りたがってましたから」

 館長の呟きに、アルビナータは頷いてみせた。

 ティベリウスは、すでに‘皇帝の間’へ戻っている。自分の身に何が起きたのか早く確かめたいだろうからと、本物の原本だと断定してすぐ、館長がベネディクトゥス・ピウス帝の章を彼に渡したのだ。

「では、クレメンティ。デキウス帝の章も、‘アウグストゥス’のところへ持っていってくれんか」

「こちらも、ですか?」

「ああ。ご自分のことだけでなく、弟君や他の親しい方々の消息も早くお知りになりたいであろうからな。父君の章は鑑定の後、本物であればまず翻訳をさせていただきたいところだが……」

 と、館長はティベリウスの父帝、ティトゥス・アウレリウス帝の章と記された巻物に目を向ける。こちらはまだ鑑定をしていないのだ。

 アルビナータは頷いた。

「わかりました。ティベリウスには、そのように伝えます」

「ああ、我らのことはお気になさらず、ともお伝えしてくれ。ベッカリアとコロージオも、残業させて悪かったな。今日はここまでにしよう」

 館長はアルビナータに言うと、学芸員たちにも引き上げを促した。

 アルビナータが部屋の外へ出ると、窓から見える景色はすでに夜のものになっていた。昼下がりにドルミーレに帰ってきてから、古代の遺物らしき巻物の真贋を二巻も鑑定していたのだ。これでもまだ早いくらいだろう。さすがに来館者どころか他の職員も全員帰っていて、館内は静寂に満ちている。

 ‘皇帝の間’へ入ったアルビナータは、まず書斎へ足を向けた。しかしティベリウスはおらず、‘皇帝の間’の中庭に出ても、彼の姿はない。精霊たちが数体たむろしているだけだ。

 アルビナータは眉をひそめた。ティベリウスは一体どこへ行ったのだろう。彼は読書のとき、決まって書斎か中庭にいるのに。

 そこでアルビナータは、中庭を取り巻く回廊の柱の一本に巻きつく、葡萄酒色の身体の一部が氷でできた有翼の蛇――水の精霊を見上げた。

「あの、すみません。ティベリウスがどこにいるか知りませんか?」

 アルビナータが問うと、水の精霊は翼をはためかせるや柱から離れた。緩やかな速度で飛んでいく後を、アルビナータは追っていく。

 そうしてアルビナータが案内されたのは、中庭の回廊の先にある、祈りの部屋だった。

 ティベリウスによれば、かつては祭壇にベネディクトゥス家の守護女神であるクレメンティアの神像が置かれ、祈りを捧げるために使われていた部屋だ。当時の女神像は失われてしまったが、ガレアルテ在住の芸術家がドルミーレの前庭に展示するため制作中だった作品を、ドルミーレが彼に返還された後に設置している。現代人と違って神の存在を信じるティベリウスがここで時折祈りを捧げているのを、アルビナータは何度か見たことがあった。

 中を覗くと、ティベリウスは魔法で生みだした火の玉を宙に浮かべ、クレメンティア女神像の足元に座りこんでいた。視線は、床に広げられた巻物へ一心に向けられている。

 アルビナータは水の精霊に頭を下げた。水の精霊はどういたしましてというようにアルビナータの周りを一回りすると、またどこかへ飛んでいく。

 それを見届けず、アルビナータをティベリウスに近づいた。足音に気づいてか、ティベリウスは頭を上げる。

 アルビナータは衝撃を受けた。

「ティベリウス、どうしたんですか?」

 見たことがないほど傷つき、疲れはてたティベリウスの表情に、近づいたアルビナータは思わず膝をついて彼の肩に手を置いた。覗きこんだティベリウスの瞳は、ひび割れた青いガラス玉のようだ。

「……書いてなかったんだ」

「え?」

「僕が、どうしてあの時代から消えちゃったのか」

「……!」

 アルビナータは大きく目を見開き、息を飲んだ。巻物の端へ視線を向ける。

 書いていない。嘘だ。『帝政』に古代アルテティア帝国の真実が書いてないなんて、まさかそんなことが――――――――

「二十七のときにロディガンシアの軍基地へ視察に行って、帰りにルディシ樹海へ立ち寄った後、樹海の奥に光が満ちて……それきり、僕はいなくなってしまったって書いてあるだけ。それと、皆が必死になって探したけど見つからなかったって」

「…………」

 感情が見えない瞳の表情で淡々と言うティベリウスに、アルビナータは言葉を失った。

 書いてあると思っていたのだ。『帝政』の信頼性は、他の一次資料の群を抜いている。オキュディアス一族は、当時の知識人の日記に「オキュディアス一族の著作がどれほど正しいかと言えば、まるで時を遡って我が目で見てきたようだ」と記されるほど、正確に記しているのだ。他の記録でも、オキュディアス一族は神の力を借りて真実を見聞きしているのだ――――と噂されていたことを記している。

 現代では、発見され調査されたた数多の史料との比較検証によって、三部作の記述はほぼ事実であると証明されている。だからこそ現代の古代アルテティア史の研究者たちは、三部作を見つければ帝国の歴史がわかる、と考えてきたのだ。

 なのに書いていない。それも、原本にだ。つまりそれは、オキュディアス一族でさえ真実を知ることができなかったか、あるいは記すことを躊躇ったかとしか考えられない。

 しかし何故、オキュディアス一族が真実を書くことができなかったのか。アルビナータには、到底想像もできない。

 どう言葉をかければいいかわからず、アルビナータはただティベリウスを見つめることしかできない。

 そんなアルビナータの視線に気づいてか、アルビナータを見たティベリウスは緩く首を振った。

「仕方ないよ。どうしてかはわからないけれど、父上が隠蔽した事件のことさえ暴いたオキュディアス一族が、自分たちの存在理由みたいにしていた歴史書に書いてないのだもの。……諦めるしかないよ」

「……」

 それはそうだろう。書いてないのだから、仕方ない。ましてや著者は、はるか古の人物なのである。文句を言っても、どうしようもない。

 だが自分の失踪の経緯も、時空を超えて人ならざる身となってしまった理由もわからないというのは、そんな当たり前のことで割り切れるようなものではないだろう。自分の章を見つけたときのティベリウスの横顔は、驚きと期待に染まっていた。十六年の時を経て、我が身の境遇を受け入れていたとしても、抱いた期待を砕かれる痛みはあるはずだ。

 ねえ、と無理やりティベリウスは話を変えた。

「デキウスの章にガイウスのことが書いてあったのかは、見てくれた? 僕の章の最後には、必死になって僕のことを捜してくれたって書いてあったけど。それとも、本物か鑑定しただけ?」

「あ、はい……本物の写本だと、断定はできたのですが……」

 唐突に尋ねられ、アルビナータは視線をさまよわせた。しかし、聞かれたのだ。答えなければ。

「…………最初の部分を少し読んだだけですが……ティベリウスの失踪で弟さんが急遽皇帝の座に就くことになって、臣下の方々が動揺していたり、異民族が不穏な動きを見せていたといったことが書いてあっただけで、デキウスさんのことは何も…………」

「…………そっか……」

 アルビナータの答えに、ティベリウスは息を吐いた。アルビナータはそれにも心が痛んだ。

 だからか、ティベリウスは無理やりといったふうに、アルビナータに笑んでみせた。

「ありがとう、言いにくいことを言ってくれて」

「いえ……」

 アルビナータは緩々と首を振る。

「……明日、弟さんの章を読んでみますか?」

「……うん。できるなら」

 それはそうだろう。異母弟を大切にしていたティベリウスが、読みたくないはずがない。だからアルビナータは、デキウスの章の完全な原本か写本が見つければと思っていたのだ。

 アルビナータは鞄を下ろすと、中から木箱を取りだした。入れられていた巻物――――『帝政』のデキウス帝の章をティベリウスに見せる。

 ティベリウスは軽く目を見開いた。

「これ……」

「ティベリウスならそう言うだろうからと、館長が私に持たせてくれたんです。私たちのことは気にしなくていいから、と言ってました」

「……ありがとう。ファルコーネにはお礼を言わないといけないね」

 淡くティベリウスは笑む。嬉しさからか少しだけ元気が戻った様子に、アルビナータはいくらか安堵した。

 だからかアルビナータは、こちらへ向かう途中で思いついたことを口にする気になった。

「ティベリウス。……その、これは私の提案なんですけど……」

「?」

「弟さんの章は、ティベリウスが翻訳してみませんか?」

「……僕が?」

 アルビナータの提案に、ティベリウスは目を丸くして聞き返した。

 はい、とアルビナータは頷いた。

「ティベリウスほど、『帝政』を翻訳するのに相応しい人はいませんから。私たちとしても、古代アルテティア語の正確な翻訳をしてもらえるのは助かりますし。……よかったら、ですけど。館長と主任も、了承してくれると思います」

 何しろティベリウスの存在を知るや、お住まいが必要だろう調度も当時の意匠であるべきだろうと、大将軍の娘であるルネッタにも協力してもらい、国王への提言をとりまとめた書簡を送るような二人である。根っからの古代アルテティア史の研究者であり、ベネディクトゥス・ピウス帝の信奉者なのだ。ティベリウスのささやかな望みを聞けば、叶えたがるに違いない。

「……ありがとう。やらせてもらうよ。この時代の文字は、あまり上手じゃないけど」

「大丈夫ですよ、ちゃんと読めますから」

 少しだけ笑うティベリウスに、アルビナータは太鼓判を押す。ティベリウスに現代の文字の読み書きを教えたのは、他ならぬアルビナータなのだ。

 ティベリウスは巻物を持って立ち上がった。

「中へ戻ろう。まだ夕食は作ってないんでしょう?」

 言って、ティベリウスは中庭へと歩きだした。アルビナータは少し遅れて、彼についていく。

 ティベリウスの細い背中を見つめ、アルビナータは思わずにいられなかった。

 この時代は、ティベリウスが暮らしていた世界ではない。血を分けた弟妹も、従えた側近も、統べた民も誰一人としていない。親しんだ文化は欠片しか残っておらず、アルビナータなしでは、自由に人間と言葉を交わすこともできない。――――彼は今でも孤独なのだ。

 だから、アルビナータは時々不安になるのだ。

 アルビナータは今まで、ティベリウスが自分の失くした記憶や現代に復活した理由について執着している様子を見たことがない。世界を歩き、精霊たちを侍らせ、師として友人としてアルビナータと語らう彼に、深い憂いや悲しみを見たことはなかった。せいぜい、懐古の情を濃くにじませる程度で。

 アルビナータは、彼は我が身に何が起きたのか知ることを諦め、今この時間を楽しんでいるのだろうと思っていたのだ。過去の遺物を求めるのも、過去を懐かしんだり、親しかった者たちの消息を知るためだけだと。

 だがもし、本当はそうでなかったのなら。口にしないだけで、本当は自分がただの人間として生きていた時代を恋しく思っているなら。

 あの時代へ戻りたいと思っているのではないだろうか――――――――

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