鬼籍の街ー人狼探偵と吸血真祖ー

たけすみ

第1話

 雨が降ってきた。

 十六夜月には関係ない。ただ高まる感覚の中で、体が灼けるようだ。

 目的地のキタシン通り自治会事務所のある雑居ビルはすぐそこだ。


 嗅覚も既にずいぶん鋭くなってきた。

 風上よりすれ違う人は顔を見るより体臭が先にわかる。20歩先を歩く人間の香水はもとより、服についたタバコの臭いの銘柄まで当てられそうだ。

 そんな状態で、傘のかわりにレザージャケットの下に着込んだパーカーのフードを引っ張り出してかぶる。


 歯茎が疼く、耳もすでに形を変え始めている。鼻から下の顔の骨が軋むように痛く、肌も痒い。変身が始まっている兆候だ。

 あと1時間もしないうちに全身の素肌ははさらりとした体毛で包まれる。併せて、耳殻の形はこめかみの後ろから上方へ延びる。そして鼻から下の顔の骨が前へと歪むようにずれ、猿や犬に近い鼻口になる。歯茎も短くなり、もとより山型の前歯がイヌ科の牙のような鋭利な前歯がむき出しになる。


 ヒトはこの姿を指して、古くからこの血統の者らを化け物、人狼、或いは狼男と呼んできた。

 初めて見るヒトにはよく出来た特殊メイクか手の込んだ仮装に見える。

 犬神融にとって、その視線すら慣れたものだった。


 探偵業という彼の稼業においてしばしばこの体質は長所であり、短所でもあった。

 人狼という可視化を強いられた少数者の体質は、人の記憶に残りやすい。一方で人より獣に近い嗅覚や聴覚は、より多くの情報収集に役立つ。

 ときに人の感情を見極める時、顔を目視するよりその体臭を嗅ぎ分けるほうがわかるほどだ。


 場合によっては今夜、それを特に不快な使い方をしなければならない。

 かつてヒトだった者の匂いを嗅ぐ。

 そして、そのモノの足取りを追う必要があった。


「ああ、肉食いてえ」


 思わずそう独り言ちた。人狼化すると、味の好みも変わる、スパイスや香味野菜で味付けされていない肉が無性に食べたくなる。




 病院の地下は、どこか土のような匂いがしていた。

 老朽化してどこかからヒビでも入っているのか、これがいわゆるカビ臭さなのかはわからなかった。

 その廊下にこもった嗚咽の声がしている。

 第1安置室の金属の扉がひらく、嗚咽の声はその瞬間だけ、廊下にひときわ大きく響いた。

 中から黒の不織布マスクに喪服姿の若い男が携帯の着信音を鳴らしながら出てくる。


 安置室の中には、襟に血の付いたよれたネクタイのスーツの男と、埃一つついていない髪から靴先まできちんと身なりをまとめた喪服姿の壮年の男がいた。

 喪服の男は白い不織布マスクの上に上品な黒い布のオーバーマスクを重ねている。


 相対する若い男は見るからに感情的だった。かろうじてマスクはつけているが、スーツには乾いた血がこびりついているし、整髪料でてかついた髪は振り乱れている。左腕のメタルベルトの腕時計と薬指の指輪だけが若い男の最後の気品のように白く光っている。


「彼女はまだ息をしてるんですよ!」


 若い男は、荒い呼吸でマスクの不織布がべこべこと膨らんだりくぼんだりさせながら、声高に言った。

 壮年の喪服男は、それを沈痛な面持ちで頭から浴びるように受け止めていた。こちらは身なりからもある程度わかる通り、葬儀社の人間だった。


 ……大きな病院ではたいてい当番制のように安置室に併設された待機室に葬儀社の人間が詰めている。今夜の番は今廊下で電話している男と、この壮年男だった。

 壮年の葬儀屋は感情を抑制した表情で、ただ沈痛に眉を寄せている。


 上座にはろうそくに火の灯った略式の祭壇と、その奥に白いシーツを掛けられた青白い顔の女性が横たわっている。そのいくらか高くなった胸元は、眠るように呼吸で上下している。

 目の錯覚ではない。彼女は死にながらにして息をしていた。

 ただ、その呼吸は極めて遅い。病院によって投与された中和剤の影響で冬眠状態に入っているためだ。


 これは、外傷性転化の対応の結果であり、ここから先に残される選択はふたつにひとつである。

 然るべき手順を踏んで鬼籍者と呼ばれる人外の者として意識を取り戻すか、このまま筋弛緩剤を投与して心肺活動を止める、つまり人間としての安楽死を迎える。

 遺体の安置室に寝かされているのも、『人間として』可能な医療の最後を迎えたことを意味するためである。あとは、本人と家族の意志のすり合わせのみである。


 いずれにせよ、その過程として、病院は一度死亡宣告をする。そして通常の遺体と同様に、一度安置室へと移され、それからいずれかの対応を取るのである。

 ……この場でかわされているやり取りは、今後の対応を巡るものだった。


「それはわかっています。しかし、ご両親の同意が得られていない以上、我々は葬儀の手続きを勧めるより……」

「彼女の保険証の裏を見たでしょう! 彼女は、雛南は鬼籍者になることに同意している。なんでその意志が優先されないんですか!」

「それは、ですから先ほどもお話した通り、転化を付与した加害者がこちらにいらっしゃらない以上、本人の意志の尊重のしようも、措置が進まないので……」


 そう説明する脇で、再び霊安室の金属扉が開く。

 廊下に出ていた葬儀屋が、携帯電話のマイク部分を抑えて壮年男の耳元に何かささやく。


「加害者を、本気でお探しになる気はありますか?」

「……ありますよ、決まってるじゃないですか」


 血の付いたスーツの男は涙目できっぱりと言い切った。

 これをきいて、廊下に出ていた男はまっすぐに血の付いたスーツの青年を見た。


「いま、この地域の血飲みの鬼籍者を取り仕切ってる血統の当主がこちらに向かっています。専門の業者と連携して加害者を探すために、被害状況を伺いたいそうで、これからこちらの病院で面談したいそうです。よろしいですか?」

「是非、呼んでください」

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