19

「やな話だな」

 すでにテーブルに並べておいた出前の天丼を暖めなおしている兄が、電子レンジの前でそう言った。

「何が?」

 というよりは「どれが」と聞いた方がいいなと思った。その時レンジがピーッと鳴って、一旦会話が途切れた。兄は電子レンジから天丼を取り出す。

 わたしは沸かしておいたお湯でインスタントの味噌汁を作っている。わたしは家事がてんで駄目なので、食事の支度って大仕事だな、と思う。こうやってレンチンとお湯を注ぐだけで済むならいいけど、母は材料を買って切って焼いたり煮たり、何しろ毎日のことだしずいぶん手間だ――今更のように何か教わっておけばよかった、と思った。急に鼻の奥がツンとなって、わたしは慌てて俯いた。

「主におサヨさんのことかな」

 兄が言った。「檀那寺の物置から先代のお祖父さんの日記が出てきてさ、たま~にうちのことが書いてあるから三冊くらい借りてきた」

「それ、すごいのが出てきたんじゃない? 早くご飯済ませて読も」

 亡くなった人の日記だから悪い気もするけど、この際仕方がない。先代が貸してくれたものだし、許してくれると思うことにしよう。

 例の「遊び」がどういうルールなのか、わたしたちは結局知らされていない。だからあの元凶と文坂家とをつなぐ接点であるおサヨさんを掘り下げることで、何か糸口が見つかると思いたかった。それに、単純に気になってもいた。彼女がどんなひとで、どんな人生を送ったのか。

「あのさぁ、母さん、おサヨさんと色々話してたらしいじゃん。なんで母さんはいけたんかなって思ったんだけどさ」

 兄はそう言いながら、廊下とダイニングの境の引き戸にちらりと目をやった。父は今、母がいる客間に行っているはずだ。まだ戻ってきていないのを確認してか、「母さん、わりと苦労してたじゃん。じいさんばあさんと」と言った。

 わたしは幼くてあまり覚えていないけれど、母と祖父母の折り合いは一時期かなり悪かったと聞く。あの父が矢面に立ってそれだから、おそらく相当だったのだろうと思う。この地域かつ母の世代では、嫁に入ったら同居がデフォルトと言っていい。色々あって結局は祖父母が亡くなるまで同居は続いたわけだけど、時には別居しようと話し合ったこともあったようだ。この頃の話をすると父も母も顔色が沈むので、家の中では避けるべきという我が家の不文律がある。

「おサヨさんも相当苦労したクチだから、なんか波長が合ったんじゃねーかなとオレは思ったよ。まぁ、母さんは山に追い出されたりしてないけど……」

「山に? えっ? 生きてるうちにそうだったの?」

 驚いて問いただすと、兄は「飯の後な」と言った。父がダイニングに戻ってきた。


 食事と片付けをさっさと済ませて、わたしたちはリビングに戻った。兄はバッグから古いノートを三冊出してテーブルに置く。

「先々代がまだ寺継いだ頃の日記らしいわ」

「筆まめな方やなぁ」ノートをぱらぱらとめくりながら父が言った。「ここからか。文坂家に嫁が――ほら」

 そう言いながら、ノートを開いたままこちらに向けてくれた。先代のお祖父さんは、かなり読みやすいきっちりとした文字を書く人だったようだ。

『文坂家に嫁が来る。挨拶に来たので出ていくと白子のうつくしい娘さんである。サヨさんという。規さんが日傘をさしてやっている。文坂家は旧家であるから苦労も多かろう』

 というのが結婚当初の記述だった。ここからしばらく関係のない事柄が続く。わたしたちは手分けしてノートをめくることにした。一番新しいものを渡されて中身を確認していると、突然『子供殺し』という文字が目に飛び込んできてぎょっとした。

『サヨさんが暮らしていた山の小屋を潰した後に五輪塔をたてるという。本家の墓には入れぬと。ほんとうにあの気のよわそうな人が子供殺しなど企てたのか。まして相手は我が子だというのに。彼女の遺体には両足首がなかった。傷はふさがって久しい。この足で、あの山中で暮らしていたかと思うとおそろしい。もう少し口を挟むべきであったかもしれない。旧家の権勢に屈するとは情けない。子供は息災』

「実花子、なんか見つけたらこれ」

 兄が付箋紙を渡してくれた。「後でまとめて読もう」

「うん……」

 わたしは付箋紙を受け取った。遺体には両足首がなかった、という言葉が胸の奥に重く沈んでいた。おサヨさんは両足首を失ったまま山中で生活していたということ? 子供殺しを企てた代償として――でもそれが冤罪なら? 考え始めると首の後ろがチリチリするような、怒りの混ざった厭な感覚が湧いてきた。

 父と兄は無言でノートをめくっている。わたしは唇を噛みながら、付箋紙をノートに貼りつけた。

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