08

 父の言葉を聞いて初めて、わたしは母がどんなふうに亡くなったのか、まるで知らないということを思い出す。急に心臓の鼓動が速く、大きくなる。

 母の幽霊を追いかけておきながら、母の死という事実自体はあえて遠ざけようとしている。どうにもできない矛盾が自分の中にあることを、わたしは思い知って声が出なくなる。

「辛いと思うけども、聞いておいた方がいいと思う。後々実花子に言うとけばよかったと後悔したくないんや」

 父はまるでわたしの心が見えているみたいにそう言う。わたしはうなずいた。母や私がどうこうというより、父の希望をきいてあげなければと思った。わたしたち皆に死期が迫っているのだ。

 父は「ありがとう」と言って話しだした。

 母が亡くなったのは昨日の深夜、日付でいえば今日のことらしい。おサヨさんがわたしのところに来ていた時間帯と被っている。

 それは静かだったと父は言う。わたしが母の実家でやったのと同じように、父と母はリビングで過ごすことにした。テレビをつけ、コーヒーを淹れて、無事に夜を明かすためというよりは、たぶん、そうやって一分でも一緒にいようとしたのだろうと、父の顔を見ながらわたしは思った。

「母さんがアルバムやら何やら出してきてな、色々話した。これやったら一晩中話してても終わらんて思うくらい話したんだ」

 ところが真夜中、急に強い眠気に襲われたという。気がついたらリビングのテーブルに突っ伏して眠っていた。

 テーブルの向いに座っていた母の姿が見えない。「母さん?」と言いながら父は天板越しに身を乗り出す。

 母はテーブルの向こうで、右腕を顔の下に敷いて、ラグの上に倒れている。眠っているような静かな顔で、そこにいたことに一瞬ほっとしたけれど次の瞬間、父は大声で母を呼びながら立ち上がった。母の傍らに膝をついて首筋に触れる。まだ温かいけれど動いていない。呼吸が止まっている。まだ来ないでくれと祈っていた時が訪れたことを父は知る。そのとき、音を聞いた。

 何か動くものがいる。

 視線を上げると、リビングと廊下を隔てるドアの向こう、磨りガラス越しに白っぽい、小さな影が見えた。父が立ち上がるよりも先に、それは軽い足音を立てて走り去る。父はドアを開けて廊下に飛び出した。トイレの方に続く方向、角を曲がるものが見えた。ほんの一秒ほどの間だったが、父はそこに知っているものの姿を見た。

「晴ちゃんやった」

 ぽつんと置き去りにするような声で、父は言った。

「長い髪で、真っ白いパジャマ着てな。確かに晴ちゃんや」

「どういうこと? 晴ちゃん、戻ってきてるの?」

「すぐに追いかけて角を曲がったら、もうおらなんだ。ほんの何秒しか経っとらん。トイレも洗面所も見たけど誰もおらなんだ。あれはたぶん、晴ちゃんの中にいるもんが、あの子の姿を借りとるんやろうと思う。たぶん本物は遠くにいたんやろう――なぁ実花子、父さんがおかしなこと言うてるて思うやろうな。あのな、廊下の角曲がる直前、その晴ちゃんがぱっとこっちを向いたんだ。でな」

 笑った、と父は言った。

 唇の端を三日月のように吊り上げて、確かに晴ちゃんの顔なのに、見たこともないような笑みだった、と。

「あんなの人間の顔でない。あれは晴ちゃんやったけど、でも晴ちゃんでない。あれが人を死なせてるんや。なぁ、もし晴ちゃんを見たらな、実花子。逃げろ。逃げて意味があるかわからんけども、知らんよりはマシやろう」

 父は話を終えた。ふと、その視線がリビングの片隅へと飛ぶのを見た。

 そこには段ボール箱が二箱置かれ、その上にアルバムが重なっている。

「あれなぁ、お前と樹生いつきの工作とか、通知表や。昨日母さんが引っ張り出してきた」

 二人で話のネタにしていたらしい。そんなものをとっておいたのか、とわたしは少し笑った。段ボール箱には母の字でそれぞれ「樹生」「実花子」と書かれている。そのことに気づいた途端、急に涙腺が壊れたみたいに涙が溢れ出した。顔を伏せたわたしの頭を、父の手が撫でた。

 わたしはしばらく泣いた。

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