12

 部屋の中に戻ると、寝ている晴の枕元にねえさんが座っていた。今見たものについて教えるかどうか迷ったが、ねえさんの沈んだ顔を見ると口から言葉が出なくなった。

「私がやってきたことって、何だったんだろうね」

 晴の顔を見つめたまま、ねえさんが呟いた。

 おれは何を言い返したらいいのかわからず、そもそもねえさんはそういうのを求めてないような気もして、ただ黙っていた。気詰まりな沈黙が座敷に満ちた。やっぱり何かちゃんとしたことを言わなきゃ、と思った。ねえさんの顔が明るくなるような魔法の言葉が欲しかった。でも結局は何も思いつかなくて、

「……おれもうちょっと起きてるよ。ねえさん休めば」

 と声をかけるのが精一杯だった。

「私はいいって。そういうの大丈夫だから」

 ねえさんはそう言うと、寂しそうに微笑んだ。

「悪いね、きっちゃん。ごめんね。きっちゃんは関係ないのにね」

「関係なくないよ。家族のことじゃん」

 そう言うと、ねえさんは急に泣きそうな顔になった。まずいかも、と思ったとき、ねえさんが震え声で「ありがとう」と言った。 


 十八歳だった兄は当時付き合っていた同い年の彼女を妊娠させ、当初は堕胎を考えていたという彼女を「何が何でも結婚してほしい」と説得して結婚した。それが空美さん――ねえさんだった。

 兄は家から離れたところにある高校に通っていたから、ねえさんは文坂家にどんな因縁があるのか知らなかった。知ったときにはもう胎児は堕ろすことができないほど大きく育っていたし、そもそも体内で動いて育っている感覚がある赤ん坊を、今更産まないなんて選択肢は、ねえさんにはもうなかった。

 医師から「ほぼ百パーセントの確率で男の子でしょう」と言われて、兄は喜んだ。これで脈々と受け継がれてきた文坂家の運命を紡ぐことができると、本当に嬉しそうに話した。

(この人みたいになってほしくない)

 ねえさんはこのときそう思ったらしい。

 兄はもう「長子が七歳になったら死ぬ」、そのためだけに生きていた。そのことになんの疑問も持っていないどころか、自分からその道を全速力で突き進んでいた。だから結婚できる年齢になった途端に子供を作って結婚した。表立ってそれに反対する人間はいなかった。ねえさんの両親はすでに亡く、親戚の家に間借りして肩身の狭い思いをしていた彼女には、離婚して帰る場所も、生活に必要な金もなかった。

 やがて赤ん坊が無事に産まれた。医師に言われていた通り男の子だった。

 ねえさんは泣きながらその子に「晴」と名前をつけ、女の子の服を着せて育てた。髪も長く伸ばし、傍目には本当に女の子のように見えるだろう。その一方で霊能者を探し、必死で金を貯めていた。

 ねえさんは晴の運命を必死で捻じ曲げようとしていた。他所からやってきたねえさんも、とっくに気づいていたのだ。

 山からやってくる何かに。

 夜中になると山を下りてきて家の周りを回り、兄と窓越しに何かひそひそと話しあうものがいることを、ねえさんはすでに知っていた。多少の不自然を強いてでも、晴をそれから遠ざけようとした。

 兄は、ねえさんがやっていることに関して何も言わなかった。たとえば晴に女の子の格好をさせていることを止めることはなかった。ただ「微笑ましいなぁ」みたいな顔をして、黙って眺めていた。何をやっても無駄だということを確信しているみたいだった。

 そして予定していたとおり、晴が七歳になってまもなく、兄は死んだ。

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