08
ああこれは子供の頃の夢なんだとすぐにわかった。兄があの部屋を使っていたのは確か、小学生の頃までだったと思う。それより後は亡くなった父の部屋に移ったのだ。
せっかくだから顔を拝みにいこうか、と体を起こしかけたとき、ぴたりと体が動かなくなった。夢の中なのに金縛りなんて、まったく思うに任せないものだ――などと考えながら横になっていると、なにか妙な音が耳に届いた。
外からだ。
そのことに気づいた途端、全身の温度がすっと下がったような気がした。なのに心臓は痛いくらい激しく打っている。おれは瞼を閉じようと努力した。できなかった。視線の先には部屋の窓がある。サッシは閉まっているが、カーテンは半開きになっている。風もないのにレースのカーテンがわずかにそよいだように見えた。
何かが家の外にいる。
ひた、ずっ、ひた、ずっ、という音が、今では確かに聞こえていた。そいつは家の外壁を触りながら移動している。それが山から来るものだということを、おれは知っている。あれは文坂家についているものだ。ずっと昔から毎晩、山から下りてきて、この家の周りを回り続けている。
ひた、ずっ、ひた、ずっ、ひた。
窓のすぐ外で音が止まった。
おれは息を殺してそれが通り過ぎるのを待った。突然べたんという大きな音がして、窓の外に丸く黒いものがぬっと現れた。人の頭によく似ていた。
ずず、と壁を湿ったもので擦るような音がした。
人影がこちらを見ている。
そう思った瞬間、室内でカタンと音がした。驚いたあまりに体がびくりと跳ね、手足に感覚が戻った。まだ夢の中だが、金縛りが解けていた。
とっさに布団の中で顔を動かし、窓から目を逸らした。と、今度は隣の部屋との境目に人が立っていることに気づいた。
背が小さい。子供だ。長い髪を肩に垂らして白いパジャマを着ている。無表情な小さな顔がおれをじっと見つめている。
兄さんではない。
「晴」
おれは人影に声をかけた。次の瞬間、晴は目をぎゅっと細め、口角を裂けそうなほど吊り上げてニヤリと笑った。
「きっちゃん、きっちゃん起きて」
呼びかけられて目が覚めた。
今度こそ夢ではない。おれが寝ているのは量販店のものらしい薄い布団で、ここはマンスリーマンションの一室だ。常夜灯がうっすらと室内を照らしている。
隣では晴が眠っている。おれを起こしたのはねえさんだ。上半身を起こして枕元のスマートフォンを確認すると、時計は零時すぎを指していた。
おれは大きなため息をついた。休息をとっていたはずなのに酷く疲れていた。
「きっちゃん、大丈夫? うんうん言ってたけど」
ねえさんがおれの顔を覗き込む。
「うん……」
おれはかろうじてうなずいた。冬だというのに、全身にびっしょりと汗をかいている。
「なんでもない。変な夢見た」
「大丈夫ならいいけど」
「うん……平気。ごめん。もっかい寝るわ」
動悸はまだ収まっていなかったが、そう答えた。実際大丈夫なはずだった。何でもない、ただ厭な夢を見ただけだ。
もう一度横になったとき、隣で寝ていたはずの晴が目を開いてこちらを見ていることに気づいた。おれは驚いて思わず大声をあげそうになった。ねえさんが「晴」と短く名前を呼んだ。
「……きっちゃん」
晴が呟いた。
「きっちゃん、うちのゆめみた?」
晴はおれをまっすぐに見つめていた。
頭の中でドキドキと音がした。心臓の鼓動がまた速くなっている。どうして晴はおれが見ていた夢のことを知っているのだろう? それを尋ねる余裕もなく、ようやく口から絞り出されたのは「うん」という短い答えだけだった。おれは喉がカラカラに乾いていることに気づいた。
「晴もみたよ」
晴はそれだけ言うと両目を閉じ、嘘のように寝息を立て始めた。
「きっちゃん」と、ねえさんが言った。オレンジの常夜灯の下で、その顔はやけに白く見えた。唇が動いた。
「どうしよう」
そう言うと、ねえさんは両手で顔を覆った。
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