『ピレネーの城』(スィートメモリー・スピンオフ)
緋雪
瞳
「あの……、失礼します」
静かな声をかけられ、振り返ると、女の人が立っていた。年齢的には僕と同じくらいに見えるが、落ち着いた感じの綺麗な人だった。
「はい?」
「あの……先日、私が忘れてきた荷物を届けて頂いた……」
「あ、ああ、あの時の。こちらの方だったんですか」
「そうなんです。殆ど、毎回来られてますよね。ですから、私は、よくお顔を存じ上げていたのですが……」
恥ずかしそうに言う彼女が可愛らしく見えた。
「学芸員さんだったんですね。それで僕もなんとなく見覚えがあったんだ」
「その節は、ありがとうございました。ろくにお礼も申し上げず、バスに乗ってしまって……」
「いや、それは、僕が急かしたことですし。そんなに丁寧に謝られなくても、大丈夫です」
横に女性が二人やってきたので、場所を譲り、少し離れた場所で、静かに話した。
「妹の結婚祝いだったんです」
「ああ、そうだったんですね。大切なものだ」
「危うく、妹に怒られるところでした」
そう言って微笑む。
「届けて頂いて、本当に助かりました」
4日前の夕方だった。取引先からの帰り、コーヒーが飲みたくなって、駅の近くのカフェに立ち寄った。注文をして、向こう側の席を見ると、さっき会計をしに行った女の人の荷物であろう紙袋が残っていることに気付く。彼女は、気が付かずに店を出てしまった。
僕は、慌てて「すぐ戻ります」と断りを入れ、紙袋を持って追いかけた。沢山の人がいて、見失ったかと思ったが、近くのバス停にいるのを見つけた。
「あの、これ! 忘れ物!」
息を切らして彼女にそれを差し出す。もうバスが向こうから来ていた。
「あっ!! ええっ?? 忘れてました?! あっ、すみません、ありがとうございます!!」
「いえ、良かった、間に合って」
「ホントに助かりました!! あ、あら? もしかして……」
彼女が何か言いかけたとき、バスの扉が開いた。
「あ、ほら、急がないと」
「あ、ええ。本当に、ありがとうございました」
彼女は一度丁寧にお辞儀をすると、バスに乗って行ってしまったのだった。
なるほど、この人は、ここの美術館で働いていたのか。じゃあ、僕の顔を知っていても不思議はない。
「絵がお好きなんですね」
「ええ。描きたかったんですが、受験勉強が忙しくて。両立できなくて」
苦笑いしてしまう。
「そうなんですね。どういった絵がお好きですか?印象派とか……。」
「印象派も好きなんですけど、特に好きなのは、シュルレアリスムなんです」
「あら!」
彼女の顔がパッと明るくなった。
「お待ち下さいね」
急いで、しかし静かに、彼女は受付に行くと、また急いで戻ってきた。
「来月から2ヶ月ほど、『シュルレアリスム展』があるんです。よかったら」
差し出してきたのは、シュルレアリスム展のパンフレットと入場券だった。
「ああ、それは楽しみです! ……え? 今、ここで買っちゃっていいの……かな?」
「いえ……貰ってください。忘れ物のお礼と言っては何なのですが……」
「いや、そういうわけには」
慌てて一旦は遠慮したが、
「ご迷惑でなければ」
彼女にニッコリと微笑まれて、僕は素直に受け取ることにした。
「ありがとうございます」
シュルレアリスム展は素晴らしかった。これだけの作品数が集められるのだ。こういう時に、東京に住んでいる大きなメリットを感じる。
サルバドール・ダリの絵の前で立っていると、斜め後から、彼女の声がした。
「いかがですか? 何か気になったものは?」
僕はクスッと笑う。
「絵を買いに来たみたいですね」
「買えるものなら買いたいですよねえ」
彼女は、展示された絵を見渡す。
「私も、シュルレアリスム、大好きなんです」
僕の方を見て、にっこりと微笑んだ。
「ダリが?」
「ええ。ダリもですが、エルンストやミロやキリコも。勿論、ピカソやシャガールも」
「僕もです。マグリットとか好きなんですよね」
「ルネ・マグリット。彼の絵も素晴らしいですね。私も好きです」
「例えば、どんな絵が?」
「余りにもベタ過ぎると言われるのですが……『ピレネーの城』が好きなんです」
「えっ! 同じだ」
「えっ、そうなんですか?」
ふふっ。二人して笑った。
「
「クレーもあるんですね」
「ええ。ゆっくり御覧になって下さい。何か質問等ありましたら、呼んで下さいね」
そう言って、彼女は持ち場に戻って行った。
『ピレネーの城』は、シュルレアリスムの画家、ルネ・マグリットによって描かれたもので、とてもメジャーな絵だ。海の上に浮かんだ大きな岩、その上に城が建っている不思議な絵だ。中学校で習う美術の教科書に載っているくらい、誰でも一度は目にしたことがあるようなものだ。
美術館の学芸員レベルの人が、僕の大好きな絵の名前を答えるとは思ってもみなかった。逆に、親近感が持てた。
美術館を出る前に、彼女を見つけて、一言礼を言いたかった。受付から、小さなバッグを持って、同僚に声をかけ、出かける様子なので、慌てて声をかけた。
「今日は、本当にありがとうございました。楽しめました」
「そうですか。良かったです」
彼女は微笑む。
ふと、彼女に名前を告げていないことに気付く。
「あっ、すみません。今更なんですが……」
そう言って名刺を差し出した。
「
「あっ」
彼女も慌てて、ポケットから名刺入れを取り出した。
「
「今日はありがとうございました。まだ暫く展示されてますか、この絵画たちは?」
「ええ。まだ1ヶ月半ほどは」
「じゃあ、多分、もう一度来ると思います。もっとゆっくり見たいので」
途中、事務所から呼び出しのメッセージが入ったのだった。
「そうですか。お待ちしております」
一条瞳はニッコリと微笑むと、丁寧なお辞儀をした。
感じのいい人だな。僕はとても気持ちよく職場に戻ることができたのだった。
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