第三幕
第十三場面:サンドリヨンの屋敷
光に照らされて、どこかの部屋が目に入った。舞台は再びサンドリヨンたちの住まう屋敷に戻ったようだ。相変わらず人の気配が薄い。
舞踏会の日に着ていたドレスでなく、今まで通りの擦れた使用人服に袖を通したサンドリヨンが見える。サンドリヨンは相変わらず、屋敷の中を掃除しながらパタパタと走り回っていた。しかし常よりも機嫌が良いようだ。少し耳をすませば、彼女が楽しげに鼻歌を歌っているのが聞こえるだろう。
いつかのようにノックの音が響いて、サンドリヨンは掃除の手を止めた。くすりと笑って屋敷のエントランスまで駆けていって、彼女はドアを引いた。ドアの外には、いつかと同じ軍服を着た男性が立っている。
「どなたですか?」
「城からの使いです。こちらをお届けに。」
城からの使いは肩にかけた鞄から、封筒を一つ取り出した。
「あら、ありがとうございます。」
「それでは!」
いつかと同じように封筒を手渡して、城からの使いはくるりとサンドリヨンに背を向けた。ブーツの音を響かせて去っていく使いをしばし見送ってから、サンドリヨンは手元の封筒に目を落とす。相変わらず真っ白で、外からは何も読み取れなかった。蝋封のされたそれをサンドリヨンが開けることは、今も許されていないだろう。しかし彼女は以前のようにため息はつかなかった。かわりに、ひどく楽しそうに笑った。
軽やかな足取りでサンドリヨンは屋敷の階段を上がる。ドアの前で立ち止まって、彼女はドアを強くノックした。
「お母様、また城からお手紙が。」
「おや、また何かあったのかしら。見せて。」
半ば奪い取るようにサンドリヨンから手紙を受け取って、夫人は手紙の封を開けた。
「何でしたか?」
「貴方には関係ないわね。明日、身なりを整えておくよう貴方の姉に伝えておきなさい。」
「理由が分からないとお姉様も戸惑いますわ。」
サンドリヨンが控えめに言い返せば、夫人は少し考えてからそれもそうね、と頷いた。
「王子の使いがくるのよ。王子が持っている靴に足の合うものが、王子の花嫁になるんですって。それにしても、まったく妙な話ね。」
靴、と言われてサンドリヨンは堪えきれぬように一瞬口角を上げた。でもその表情はすぐに、彼女が夫人に頭を下げたことで見えなくなった。
「……分かりましたわ、お姉様にそうお伝えしてきます。」
サンドリヨンは一礼して、ドアの方を向く。部屋から出る前に継母に背を向けたまま、サンドリヨンは歌うようにこう言った。
「お姉様が王子様のお姫様に選ばれたら良いですね。きっと足は靴に入りますわ。お姫様になればもう歩く必要はないんですもの。お姉様なら、その靴がどんなに小さなものだとしても、絶対に。」
言いながら、サンドリヨンは服の中に差していた杖を取り出した。背を向けたままそれを振って、サンドリヨンはドアを開ける。
「そうね……私の娘なら、きっと足は靴に入る……花嫁になればもう歩く必要はないのよ。」
夫人が絶え間なくつぶやく声を背に、サンドリヨンはバタンとドアを閉めた。閉まるドアの音と共に、景色が暗闇に消えた。
第十四場面:サンドリヨンの屋敷
サンドリヨンたちの住まう屋敷は、いつにも増して静かであった。掃除をするサンドリヨンの姿は見当たらない。代わりに、エントランスのそばに夫人が腰掛けているのが見えた。その目はどこか虚ろだ。
誰かがドアを叩いた。響いたノックの音に、珍しくサンドリヨンではなく夫人が立ち上がってドアに向かう。無表情のまま、彼女がドアを引いた。ドアを開けた先には王子と彼の部下が立っていた。部下の手にある台座には、片方だけの靴が置かれている。
あの靴だ。サンドリヨンが靴を落としたと語った時に、彼女の片足に残っていた靴と同じ柄。王子がその後、庭の入口で拾った物。
「……どなたでしょう。」
来客を前に、夫人の表情はあまり動かない。部下が一礼してから口を開いた。
「城からの使いだ。この屋敷に、この靴に足の合う者がいないか確かめさせてもらう。娘がいれば、全員を連れてきていただきたい。」
夫人は部下の顔と、台座に乗った靴とに視線を投げる。覇気のない様に、少し部下がたじろいだ。
「ご夫人、何か、問題がおありか?」
「……いいえ。少し中でお待ちください。今部屋から、娘を呼んできますから。」
二人を客間に通してから、夫人はドアを閉めた。しばし彼女が階段を上る足音が聞こえたが、じきにそれも遠ざかる。詰めていた息を吐き出して、部下が王子を仰ぎ見た。
「あぁ驚いた。彼女、具合でも優れないんですかね?」
「城から使いが来れば驚くのは自然かもしれぬ。事前の連絡を確認しそびれたのかもしれないな。まぁ何にせよ、あまり明らかに不信がるのは礼に欠けるぞ。」
「はっ、失礼致しました。」
王子の言葉に、部下が慌てて一礼をする。王子が腕を振った。
「私に謝ってどうする。この後気をつければ良い。」
「はい、殿下。思慮に欠けておりました。」
それに謝罪を重ねてから、部下は椅子を引きながら王子に尋ねる。
「それにしても……先ほどから思っていたんですけど。殿下、貴方は名乗らなくていいんですか?使いの一人みたいな顔で私の後ろに立っていますけどね。本来ならちゃんと敬われるべきでしょう。」
引かれた椅子に座ってから、部下の言葉に王子は首を横に振った。
「どうせ国民は私の顔をろくに覚えていやしないさ。この間の舞踏会にも出なかったからな。」
ぺろりと言ってのけた王子に部下が眉を寄せる。そう反応されると分かっていたのか、王子はくすくすと笑った。部下がますます眉を顰める。空いた椅子を自分のために引きながら、部下が文句を垂れた。
「あのねぇ殿下。貴方、出なかったんじゃなくてサボったんでしょう。」
「はは、結果は同じようなものだ。」
「過程も大切なんですよ、陛下にとっては。殿下がこの靴で花嫁を探すと言ったから良かったものの、それまで不機嫌な陛下の機嫌を取っていたこちらの身にもなって下さい。」
呆れ顔の部下にただ笑って、王子は背もたれに身体を預ける。
「兎も角、わざわざ名乗って相手を萎縮させる趣味はない。それに黙っていても私に反応すれば、探し人の可能性が上がるからな。」
「なるほ、ど?あれ?でも、王子だってお相手の顔を見ているんですよね。」
なら顔見りゃ王子も分かるんじゃないですかと部下が首を捻る。まぁな、と頷いてから王子は片眉を持ち上げた。
「見てはいるが、月明かりだったからな。確信はない。向こうもそんなものだろうから、あまり期待は出来ぬかもしれないな。」
「確かに。見て確信を持てれば、一番確かなんですけどね。」
一度会話が途切れる。黙ってみるとこの屋敷がいやに静かであることが目立ったからか、二人は顔を見合わせた。王子が言うべきか迷う様子を見せながらも口を開く。
「ここはやけに静かだな。今までの屋敷とは随分と様子が違う。主人は今何処にいるんだ?」
「あぁ、家主は確か、今は家を留守になさっているんですよ。舞踏会にも来られないと伝達を受けています。」
それは知っているんですけど、と前置いてから部下はぐるりとあたりを見回した。
「いや、しかし……夫人に加えて、家主と前妻、ええと、病気で亡くなった前夫人の子どもと、今の夫人の連れ子がいると聞いているんですがね。使用人の一人も見ないなんて、ちょいと妙です。」
「あぁ、珍しいことは確かだ。」
「今のところ夫人の姿しか見ていませんよ……おや、噂をすれば夫人が戻ってきましたかね。」
足音が響いて、二人は口を噤んだ。客間のドアを開けたのは、部下の予想とは異なりサンドリヨンであった。紅茶の入ったトレーを持って客間に顔を出した彼女は、夫人の言いつけ通りに、いつもの襤褸ではなく控えめなドレスを着ている。
「お待たせしてすみません。母もすぐに戻ってくると思いますわ。姉を呼びに行っただけですから。」
「あぁありがとう……おや、ということは貴方もここの娘ではないのか?」
母と姉という呼び名と、使用人にしては立派な服を見てそう考えたのだろう。首を傾げた部下に、サンドリヨンは頷いた。
「はい。父と前妻の娘です。」
お辞儀をしたサンドリヨンに、王子が片眉を持ち上げた。何か気にかかっているのか、サンドリヨンをじっと見る。
「そうか。ならば貴方の姉を待つ間、先に貴方から試して貰う方がいいかもしれない。良ければこちらに座って……」
トレーを受け取りながらこたえた部下の提案は、何者かが叫んだ音でかき消された。突如響いた悲鳴に驚いて、全員が空いたドアの方を振り返る。
皆がドアを凝視する中、何かが割れる音が響いて景色が消えた。
第十五場面:サンドリヨンの屋敷、姉の部屋
「……少しお待ちください。娘を連れてきますから。」
目に入ったのは、先ほど見たエントランスの光景か。王子と部下を客間に通してから、夫人はドアを閉めて階段を上っていく。二階に上がり、一つのドアをノックせずに開けて夫人が中に入った。
出てきた時には、その手に何か光るものを持っていた。
ナイフだ。
次に夫人がノックして開けた部屋は、姉の使っている部屋であった。開いたドアに驚いたように顔を上げてから、姉が眉を寄せる。彼女はまだ、夫人が背中に隠したナイフに気がついていないようだった。
「あのねぇお母様、私言ったじゃない。私は舞踏会で靴を落としてなんかいないから、お城の使いの方にはそう言って帰っていただいて、って。試す必要もないのよ、靴が合ったところで、それは私のものじゃないって分かっているんだから。」
返事をしない母親に、姉は怪訝な顔をした。立ち上がって、夫人に近寄る。
「お母様?どうしたの、最近ますます様子が変よ。」
夫人はじっと娘の顔を見た。呆れたように姉が腕を組む。
「何か言ってよ、お城の使いが来たわけじゃないの?」
「……あぁそうとも、城から使いが来たんだよ。だから靴をはめるんだ。無理矢理にでも履くんだよ。」
話にならない、とばかりに姉が眉を顰めた。首を横に振って、だから言っているでしょ、とため息をつく。
「絶対にそれは私の靴じゃないの。試す必要がないんですってば。それに私は小柄だから、無理矢理も何もきっと大抵の靴はブカブカ……」
夫人が突然、姉の手を掴んだ。驚いて言葉を止めて、姉は二、三度瞬く。
「え、何?まさか引き摺ってでも連れていくつもりな、の……」
途中でその言葉は途切れて、姉は目を見開いた。彼女の視線の先で、ナイフが光を受ける。
思い切り母親の腕を払って、姉は叫んだ。ドアが塞がれている以上逃げる場所はなく、彼女はよろけるように部屋の奥へ走る。ナイフを掲げたまま、夫人がゆっくりと彼女の後を追った。
「靴を履くんだよ。お前はなんとしてでも、王子の妃になるんだ!入らないなら踵を切り落としてでも履くんだよ!」
「馬鹿言わないでよ、ねぇ待って、試すから、履けばいいんでしょ!」
「大人しくするんだよ、さぁこっちへ来な!」
壁まで来てしまえば逃げ場はない。腕を引かれてたたらを踏んで、姉は床に倒れ込んだ。足首を掴まれる。彼女は一瞬の躊躇いの後、掴まれていない方の足で思い切り母親の手を蹴りつけた。
呻き声。夫人の手が離れた瞬間立ち上がって、少女は部屋に目を走らせる。赤い花の飾られた花瓶に目を止めて、咄嗟にそれに手を伸ばす。
少女が掴んだ花瓶を振り上げた瞬間、動きが、音が、止まった。
第--場面:--
暗い中で姉の姿だけが浮かび上がっている。
「ああしろこうしろって、私の声はどこにも届かない。理解してくれた人はもういない、したくもないのに毎日人を傷つけて!怒らないでよ、そんな目で見ないでよ、もう放っておいて、何かやり返したらどうなの!あぁそうよ、やり返さないのは私も同じ。もういいじゃない、私を返してよ!」
可哀想な姉、残酷な姉。自分を奪われて、自分の妹に手を上げた。必死に自分を守るために花瓶を掴んだ彼女を、どう責めよう。
スポットライトが移り、夫人の姿が見えた。ナイフをこちらに向けて、彼女が吼える。
「私たちは置いていかれたのよ。当たり前の生活が突然失われた!あの人が消えてしまったのも全て金がなかったせいだわ!全部、全部なくなってしまったのなら、取り返さなくちゃいけないじゃない。あの子のためにも、元通りの幸福を、この手で!」
可哀想な夫人、残酷な夫人。幸福を奪われて、己の娘の声を無視した。娘を王子の妃にすることが最後の手段と信じた彼女の行動は、いったいどこからが間違いか。
スポットライトが移る。暗闇の中に、魔法使いが現れた。
「お礼がしたかったの、それだけよ。金品を作り出して渡しても、その出所が怪しまれればあの人たちに迷惑がかかるでしょう?それに先に人間が私を封じたのよ、飢えごときで騒ぐこともないじゃない!どうせ人間は私を騙すのよ、魔法を取り返さなきゃ、なんとしてでも、あぁ!」
可哀想な魔法使い、残酷な魔法使い。魔法を奪われて、他者の未来を食い物にした。純粋な好意と純粋な復讐心の行きついた先は、与えようとした死。
再びスポットライトが移る。台座に置かれた魔法の靴を持った王子が、吐き出すように語る。
「平穏に暮らすことを、飢えのない日々を望むことの何が悪い?蓋を開けてみれば私はただ元凶に復讐したまでではないか……演じなければ、塗り替えなければならないのだ、私は民を救っただけだ。後は妃を、完璧な妃を、そうすれば平穏を取り戻すことが出来る!」
可哀想な王子、残酷な王子。平穏を奪われて、己の罪から目を逸らした。片側から見れば英雄で、もう一方から見れば大罪人。
スポットライトが「主人公」を照らす。
「良い子にしていたら愛されるんでしょう?私は何も間違っていないでしょう?私悪い人をやっつけただけよ、愛されるために頑張っただけよ!我慢したわ、もう充分我慢したの。こんなのあんまりよ、もう私を自由にしてくれたっていいじゃない!」
可哀想なサンドリヨン、残酷なサンドリヨン。自由を奪われて、命をいともあっさり刈り取った。良い子の仮面を、お手本のような笑みを掲げて、彼女は他にどうすれば良かったというのだろう。
花瓶を振りかざした姉が、
ナイフを握りしめた夫人が、
杖を構えた魔法使いが、
靴を祈るように掲げた王子が、
灰まみれのドレスを着たサンドリヨンが、
「こうするしかなかった!」
叫んだ。どうしようもなく悲痛な声で、笑うように、泣くように。
「私は悪くない!」
重なり、増幅し、響く叫び。溶暗。何も見えない。
「そうともこれは『運命』、『誰も悪くなかったのだ』!」
どこかではっきりと、案内人の声が、した。
――取り戻そうとするのは、罰が下るのは。
――とてもとても、自然なこと?
花瓶を振り上げた姉の姿が見える。赤い花が弧を描いて飛んだ。たくさんの小さな花弁がびっしりと開いているそのダリアの花に、本当は毒などない。
ガシャン。
第十六場面:サンドリヨンの屋敷、客間
何かが割れた音に、客間にいた三人が戸惑いの表情を浮かべたのが見えた。続いて階段を駆け下りる音。皆がドアに目をやる中、姉がひどく動揺した様子で客間に駆け込んでくる。絨毯に足を取られた彼女を、手の空いていた王子が咄嗟に立ち上がって支えた。
「た、すけて、助けて下さい、お母様が、」
姉が必死に言葉を探すが、その言葉は要領を得ない。彼女が訴えながらドアを注視するため、三人も自然と再び客間のドアを見つめる。階段を下りるもう一つの足音。ゆっくりと近づいてきた足音が止まった。開け放ったままのドアに立った夫人の手の中に、光を受けているナイフがしかと見えた。
夫人の右肩あたりは、一目見て分かるほどドレスが変色していた。それほど血が流れているのを気にもせずに、夫人はただ自分の娘をじっと見つめている。
夫人と目が合うなり、姉は王子に支えられたまま震える声で、しかし力強く叫ぶ。
「いい加減にしてよ、まだ満足出来ないっていうの?こんなことして本当に良いと思っているわけ?」
「分からないのかい?何としても靴をはめるんだ。王子の花嫁になれば、歩かなくていいんだよ。靴が小さいのなら足を切れば良い。」
虚ろな目で夫人が淡々とこたえた。その迫力に、王子と部下は一瞬動くことすら躊躇ったようだった。姉がテーブルに置かれた台座の上の靴を指して、ほとんど泣いているような声で必死に言い返す。
「見れば分かるじゃない、切る意味なんて無いわ!この靴は私には大き過ぎるのよ!」
「ごちゃごちゃ口答えをするんじゃないと言っているだろう!ほら!早く!」
吼えた夫人がナイフを掲げ姉に向かうのを見て、皆が金縛りから解けたように動き出した。サンドリヨンは夫人から離れるようにテーブルの横に逃げ、王子は支えていた姉を夫人から離すように部屋の奥へ引っ張り、部下は夫人に走り寄って彼女の動きを押さえた。身をよじる夫人に、部下が焦ったように叫ぶ。
「お、おい、自分が何をしているのか分かっているのか!」
「放して!」
夫人は錯乱した様子で暴れる。まったく聞く耳を持たぬ様子に、部下は彼女をドアから引き剥がしながら王子に叫んだ。
「殿下、お嬢さん方を連れて外に!」
「あ、あぁ、馬車に待たせている者たちを連れてくる!すまない、頼んだぞ!」
姉は王子に腕を引かれてようやく立ち上がった。王子がドアを指す。
「さぁ早く外へ!貴方も早く!」
テーブルの横で立ち尽くしているサンドリヨンに王子が叫んだ。その声にようやく冷静さを取り戻したように、サンドリヨンが首を横に振った。彼女は夫人に近づきながら叫ぶ。
「お母様、もうやめて!お姉様はその靴の持ち主じゃないわ。靴をはめる必要はない。だって私がもう一方の靴を持っているんだもの。」
夫人がぎろりとサンドリヨンを睨んだ。その場にいた全員が息を呑む。
「お前、今、なんとお言いだい?」
サンドリヨンは黙って隠し持っていた靴を皆に見えるように差し出した。あの靴、台座に乗ったそれと同じ模様の靴。
王子が目を見開いて声を上げる。
「……やはり貴方か!随分と舞踏会の時と印象が違っていて確信が持てなかったが、あぁ、やはりその顔は確かに庭で会った方だ!」
王子の声を聞いて、夫人が動きを止めた。部下が夫人の手からナイフを取り上げ、夫人を押えていた腕の力を抜いた。夫人が床に崩れ落ちる。
「いいえ、そんなはずがない!その靴を履いてみなさい!」
叫んだ夫人をちらりと見てから、部下は王子に目線を投げた。王子が頷いたのを見て、サンドリヨンに椅子に座るよう促す。
彼女が履いていたぶかぶかの木靴をとって、部下は持っていた靴をサンドリヨンに履かせる。それから、サンドリヨンが持っていたもう片方も。落としたことが不自然なほど、どちらの靴もピタリとサンドリヨンの足にはまった。サンドリヨンは姉に優しく微笑んでから、夫人に向かって尋ねる。
「分かっていただけたかしら、お母様。」
黙り込んだ夫人に姉が近づいて、上から彼女を見下ろした。
「お前……」
「何も言わないで。私はもう、貴方の言いなりになんかならない。良い機会じゃない、こんなの終わりにしましょうよ。私、そろそろ自分の罪を認めたいの。」
夫人はこたえない。姉は何度目かのため息をついてから、サンドリヨンを振り返った。
「貴方に話さなくてはいけないことがたくさんあるわ。私の身勝手な言い訳を聞いてくれるかしら。」
サンドリヨンは微笑んだ。いつも通り、お手本のように。両足に美しい魔法の靴を履いて、彼女は立ち上がって姉に近づいた。
「良いのよ、お姉様。私、貴方を恨んでいないの。」
姉を抱きしめたサンドリヨンの表情は、こちらからは伺うことが出来なかった。
まるでこれで一件落着とばかりに、照明が消えた。
第十七場面:城、廊下
山場が終われば、あとは物語が大団円を迎えるだけだ。
周囲が明るくなれば、広く長い廊下を並んで歩く姉妹の姿が見えた。目に入った二人の表情は、今まで見た中で一番穏やかなものに見える。
「お姉様、お部屋はお気に召した?」
「えぇ!私には勿体ないくらい。」
姉は笑って、それから少し肩を竦めた。
「顔も見たくないって言われる覚悟だったの。まさか侍女として城に呼ばれるとは思わなかったし……侍女にしては随分と好待遇に思えるけど?」
「だって、侍女として、とでも言わなければお姉様はお城に来てくれないと思ったのだもの。」
微笑むサンドリヨンに、姉は眉を下げて苦笑いを浮かべた。
「本当に呆れるほど良い子のね、お前は。」
「そんなことないわ、お姉様。」
くすくすと笑って、サンドリヨンは姉の手を引く。
「荷解きも終わったのだし、お茶にしましょうよ。」
「私も良いの?」
「もちろん!大勢の方が楽しいわ。お母様は、まだ落ち着かないようだけれど。」
残念、と眉を下げたサンドリヨンに姉は眉を寄せた。少し迷ってから、姉は口を開く。
「私が言えたことじゃないけれど、あの人のことはお城に呼ばなくったって良かったのよ。だって……」
足音。敷物のせいかあまり大きな音ではないものの、人の気配に二人は同時に音の方を向いた。見れば、夫人が壁に寄りかかるように歩いている。首元から肩の包帯が見えた。夫人は二人には気がついていない様子で、何かをブツブツと呟いている。
「あの灰被りが王子の花嫁なんて……私の可愛い娘の方がずっと相応しいに決まっているじゃない……」
「ほら、まだあんなことを言っている。」
聞こえた夫人の言葉に吐き捨てるように言い放って、姉はサンドリヨンを夫人から離そうと手を引いて歩き出した。
「踵を切ればよかったのよ、そうすれば……あの子が嫌がるからダメだったのよ……」
なお聞こえる夫人の声に姉は思い切り眉を顰める。馬鹿馬鹿しい、と姉が呟くとほぼ同時に足音が止まった。
「え?私は……私は今なんと……娘の……娘の足を……!なんてことを!」
「……は?」
聞こえた予想外の言葉に、姉は思わず足を止めた。振り返れば、こちらを見た夫人と目が合う。
「ダリ、」
「止まって!」
娘の名を呼ぼうとしたまま、夫人の動きがピタリと止まった。サンドリヨンの声で止まったことは明白だった。いや、声ではない。その手に握られた、あの杖。
姉はしばし夫人を見つめたまま呆然としていたが、振り返って震える声でサンドリヨンに呼びかける。
「ねぇ……なに、これ。」
「これは……これは、違うの、お姉様。」
握っていた手をゆっくりと離して、姉はサンドリヨンに問いかけた。彼女の目線が、杖とサンドリヨンを交互に見やる。
「もしかして、貴方だったの?私のことを、お母様に、傷つけさせようとしたのは。」
サンドリヨンは杖を握りしめて首を横に振る。姉はサンドリヨンの肩を掴んだ。いや、縋った、と言うべきか。
「どこから貴方の仕業なの。」
サンドリヨンはこたえない。姉の声はほとんど泣いていた。
「ねぇ、お願い、違うって言って。何もしていないって!なんとか言ってよ……ねぇ!」
サンドリヨンはもう一度首を横に振った。そのまま、手に持った杖を振る。姉が小さく呻いて、その場にしゃがみこんだ。
「それで、皆思い通りになるのね。貴方の思うままに人が動いて、それで……貴方は、楽しいわけ?」
姉の問いかけに、サンドリヨンは一瞬たじろいだように見えた。ひしゃげた笑みで、彼女はこたえる。
「ええ、楽しいわよ。少なくとも以前よりは!」
姉がゆっくりと顔を上げた。その顔が歪んでいるのは、痛みを耐えているからか、それとも。
「ねぇそんな顔しないで、お姉様。私に他にどうしろって言うの。お姉様が言うように、私は完璧な被害者だったはずなの。良い子だったはずなの!でもそのためには、貴方が完璧な加害者になってくれなきゃ困るのよ!」
サンドリヨンは杖を握りしめたまま、目を伏せた。
「でも貴方は、貴方は違った!なら悪役は誰よ!」
「……それで、お母様を、おかしくしたの。」
「そう、そうよ。貴方に私をいじめるように言ったのはあの人だと、私も知っているのだもの。」
姉はただ、サンドリヨンを見つめた。かける言葉を探しているようにも見えた。サンドリヨンも姉を見つめ返して、小さな声で尋ねる。
「ねぇ、お姉様。」
「何よ。」
「今動けるようにしてさし上げるから、先に言ってお茶の準備を手伝ってきてくれないかしら。それで、それで……何も無かった顔で、王子に挨拶するの。私もあとから行くわ。」
サンドリヨンの言葉に、姉は目を見開いた。彼女の願い、それはつまり、何も知らなかったことに、何も起きなかったことにしろということ。
「お姉様、お願い。」
「ふ、あはは、あははははははははは!」
姉は笑い始めた。段々とその自嘲じみた笑い声は大きくなって、ほとんど床に這うように彼女は笑った。ひとしきり笑ってから、姉は優しい表情でサンドリヨンを睨んだ。
「じゃ、もし無理って言ったら?」
サンドリヨンは自分が握っている杖を見た。ギュッと目を閉じてから、彼女は姉としかと目を合わせる。しばしの間。次にサンドリヨンが口にしたのは、一見場違いな、いつかの質問だった。
「砂糖を運んでいる蟻を踏み潰して殺すことと、砂糖を蹴って取り上げること。お姉様にとっては、どちらが残酷なの。」
姉は目を見開いて、束の間黙り込んだ。
「何度聞かれても、誰に聞かれても、私は同じ答えを返すんでしょうね。」
返答は、ひどく小さな、ひどく凛とした声だった。
「踏み潰して殺すことのほうが、残酷よ。」
「そう。なら……全部忘れて、お茶会に行って。」
サンドリヨンが杖を持つ手に力を込めた。泣きそうに、しかし笑顔で、彼女は杖を振ろうとする。姉がその表情を見て笑った。
「灰が似合いなんて、下手な嘘をついたわ。貴方、そうやって笑っている時が一番綺麗。名に恥じぬ美しい毒草ね。」
彼女の言葉に、サンドリヨンの目線が揺れた。笑顔を歪めながら、サンドリヨンは震える声でこたえる。
「またあとでね、お姉様。次会う時は私たち、偽物の砂糖を運ぶのよ。」
サンドリヨンが杖を振った。目を閉じてふらりと立ち上がった姉は、廊下の向こうに歩いていく。
サンドリヨンは彼女の姿が見えなくなるまで待ってから、夫人に向かって杖を振った。呆然と瞬いた夫人に、サンドリヨンは笑顔で話しかける。
「まぁ、お母様。お城にいらしてくれていたのね!」
「あ、ああ。もちろんだよ……それより、私の娘、お前の姉はどこだい?」
「お姉様?お姉様なら先にお茶会に向かったわ。お姉様はこれから私の侍女として一緒に暮らすんだもの、皆に紹介しなくちゃと思って。」
ニコニコと話すサンドリヨンに、継母は徐々に顔を赤らめた。
「侍女?……あの子が?」
「そうよ。お姉様が以前私に、王子の妃になったとしたらお前を侍女として連れていってあげる、って仰ってくれたの。だから私が妃になったら、お姉様を連れて来てあげるべきでしょう?貴方とあの屋敷にいるより、きっとお姉様も幸せよ!」
半ば、己に言い聞かせているようにも見えた。笑うサンドリヨンに夫人が叫ぶ。
「あの子がサンドリヨンなんかの侍女になると、そう認めたのかい!」
叫んでから夫人は口元を抑えた。気にする様子もなく、サンドリヨンは笑い続ける。
「ええ、お姉様も嫌がっていたわ。最初は喜んでくれたのよ?けれど、私がお母様にしたことを知ってしまって。あぁ、貴方がここを通らなければ!」
夫人の顔に浮かんだ怒りは、段々と怯えの色に変わる。気味の悪いものを見るように、夫人はサンドリヨンを見つめた。
「でも、これがあればね。私は良い子のままでいることが出来るし、お姉様はお城で暮らすことが出来るし、王子様は王子様でいることが出来るのよ。」
サンドリヨンは楽しそうに杖を掲げる。
「それは、なんだい?」
「気になる?こう使うのよ、お母様。」
笑顔、笑顔。お手本のような笑顔。彼女はいつも、人前で笑みを絶やさない。
彼女は大きく杖を振り上げた。目を見開いて、口角を思い切り上げて、あの時と同じように、心底楽しそうに。
「こうなったのも、全て貴方のせい!」
サンドリヨンが杖を振った瞬間、夫人が喉を押さえた。数度ひどく咳き込んで、夫人は床に崩れ落ちる。そのまま魔法使いの時のように、灰となって散り散りになる。
廊下に開けられたガラスのない採光窓から風が吹き込んで、舞った灰がサンドリヨンの身体を撫でた。
サンドリヨンは杖を仕舞い、しばらく肩で息をしながらそこに突っ立っていた。目を見開いて、少し灰の残った絨毯を、ただ眺めて。
「あぁ、ここにいましたか!探しましたよ。」
振り返れば、王子が立っていた。サンドリヨンはほとんど反射的に口角を持ち上げる。
「あら、お待たせしてしまいましたか。」
「いえいえ、大丈夫ですよ。ただ貴方のお姉様が、貴方といつ別れたか思い出せないと首を捻っていたので少し心配になりまして。」
行きましょう、と微笑んだ王子の後に続いて、サンドリヨンは廊下を歩き出した。
「色々とバタバタしてすみませんね。結婚式が明日とは、父上と母上も無茶を言う。」
「大丈夫ですわ。きっと陛下は、貴方が可愛くて仕方ないのですよ。」
サンドリヨンは、本当は王子が王と王妃の息子ではないと知っているはずだ。それでも素知らぬ振りで、彼女は微笑む。
「……ねぇ、王子様。明日の結婚式、お姉様の結婚式も一緒に行うことは出来ますか?」
「おや、貴方のお姉様にはお相手がいるんですか?」
王子が足を止めて振り返った。サンドリヨンは服に隠した杖に触れながら、王子に笑いかける。
「えぇ。お祝いことが増えれば、きっともっと、素敵な日になりますわ。」
王子が頷いて、再び歩き出した。サンドリヨンは立ち止まったまま、しばし彼の背中を見つめた。
「愛し合っていると思えるなら、お姉様は私より幸せよね?」
サンドリヨンが誰かに確認するように尋ねる。誰もいない廊下から返事が返ってくることはなく、サンドリヨンはかぶりを振って王子の後を追う。
「……そういえば、私たちはお互い名乗ってもいませんね。」
王子が足を止めずに呟いた言葉に、サンドリヨンは束の間目を伏せた。足を早めて王子の横に立ち、彼の顔を見上げる。
「サンドリヨン、と。」
「え?」
サンドリヨン。灰まみれの娘。
それは、明らかな蔑称。王子が聞き間違いかとばかりに足を止めて聞き返す。サンドリヨンはその表情を気にすることなく、言葉を続けた。
「そうお呼びください、殿下。貴方が王子であるように。」
王子は一瞬、たいそう驚いたように目を見開いた。すぐに何か諦めたような顔で微笑んで、是とも非とも言わずにサンドリヨンの手を取る。
二人が廊下の角を曲がって、その姿は見えなくなる。誰もいない廊下に、くすんだ色の粉が舞って視界を邪魔した。
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