第二幕
第九場面:サンドリヨンの屋敷、エントランス
「サンドリヨン、私たちそろそろ出るわね!」
見覚えのある景色が目に入ってきた。屋敷のエントランスに、夫人と姉が立っている。二人とも、常よりも豪華な服を身にまとっていた。
「水まぁだ?喉乾いちゃったんだけど!」
廊下に向かって姉が声をあげる。姿は見えないが、少し遠くからサンドリヨンの声が返事をした。
「今お持ちしますわ!少々お待ち下さいね。」
グラスの乗ったトレーを持って、サンドリヨンが駆けてくる。
「どうぞ、お姉様。」
「あら、ありがと。」
微笑んで、姉がコップを持ち上げる。碌にそれを見もせずに、彼女はケラケラと笑い出した。
「嫌だ!ゴミが入っているわ!」
「えっ、お姉様何を仰って……」
どう見ても綺麗な水だ。しかし、そんなことは姉にとって関係がないのだろう。サンドリヨンに言い掛かりがつけられるのならば、きっかけはなんだっていいはずだ。そう、今までと同じように。
「見えないって言うの?馬鹿にしないで。こんなの要らないわよ!」
姉が思い切りサンドリヨンを突き飛ばした。グラスが転がり、床に倒れたサンドリヨンの顔と服に水がかかる。敷物のお陰か、幸いグラスは割れなかった。
「まぁ、乱暴はよしなさい。」
夫人が笑いを含んだ声で窘めた。それを姉は鋭く睨む。
「……別に乱暴なんてしてないわよ。あーあ、水が零れちゃった。」
服にかかったらどうするの、と姉は冷たく言い放つ。その姿は、今までよりも余程「様」になっていた。
「もう時間よ、行きましょう。」
「零れた水の掃除よろしくね、サンドリヨン。」
サンドリヨンは返事をせず、黙って頷いた。髪から水が落ちる。
「日付を超えても舞踏会は続くらしいから、遅くなるわ。夕食はいらないからね。」
「はい、お気をつけていってらっしゃいませ……」
こたえたサンドリヨンを置いて、二人は屋敷を出ていく。閉じたドアをしばらく睨んでから、サンドリヨンはため息をついて立ち上がった。服の裾で乱暴に髪と顔を拭って、落ちたグラスを爪先で軽く蹴る。
「最悪。さっさと着替えて、馬車を拾わなきゃいけないって言うのに。いつだって面倒事ばかり増やすのよ、あの人たちは。」
鋭い目線は、先ほど水をかけられた時と同じ娘と思えないほど剣呑だ。
「あんな顔するのなら、しなきゃいいのに……」
誰が聞いている訳では無いからか、サンドリヨンは吐き捨てるように呟いた。誰が聞いている訳では無い、はずだった。
「着替える必要も、馬車を探す必要も無いわ。」
返事はないはずのサンドリヨンの言葉に、誰かの声が返事を寄越した。サンドリヨンが息を呑む。
「舞踏会になら、私が連れていってあげる。」
サンドリヨンははじかれたように声がした方を振り返った。足音一つしなかったと言うのに、サンドリヨンのそばにはいつの間にか人影があった。ついさっきまで確かに誰もいなかったはずの場所。微笑んでいる人の形をした何かは、ジョン――いや幼い頃の王子、に魔法使いと名乗ったそれだった。
「えっ……あ、貴方誰?いったいどこから入ったの!」
「名乗る名前はないわ。そうねぇ、魔法使いとでも呼んで頂戴。」
王子が少年であった頃と、その姿は全く変わらない。と言うより、変わらずその姿はしかと捉えにくい。音もなく近づいて、魔法使いはサンドリヨンにずいと詰め寄った。
「貴方ドレスが欲しいんでしょう、違う?」
「あ、えっと……」
「私知っているわよ。さっきの話、聞いていたんだもの。昔なら、ぱぱっとなんでも出してあげたんだけど、今はさすがにそんな芸当も出来ないし。ちょっと待って頂戴。服は貴方の着ているものでいいとして、他にはそうね、馬車と使用人が、ええと何人くらい必要かしら。何か馬車と人間のもとに出来るようなものを探さないとね……」
ペラペラと捲し立てるその喋り口は、王子と話していた時とは随分と様子が違う。何かに追い詰められているのかと思うほど落ち着かず、焦っているような口調だった。それに、妙に馴れ馴れしい。
貼り付けた笑顔で話す魔法使いに、サンドリヨンは明らかに動揺していた。そもそも知らぬ者がどこからともなく家に現れたのだから、困惑するのは当たり前なのだが。魔法使いが言葉を切って考え込み始めたので、サンドリヨンはおずおずと口を開いた。
「あ、あの、」
「ああ、ごめんなさい。私ったら、一人でペラペラと。話が先走っちゃったわね。」
ようやく相手の戸惑いに気がついたのか、魔法使いは口を抑えた。一息ついてから、一言一句区切るように続きを口にする。
「ねぇ、私が貴方のお願いを叶えてあげたら、貴方は私のお願いを叶えてくれない?」
提案が予想外だったのだろう、サンドリヨンは眉を寄せた。明らかに人でない振る舞いをしておいて、ただの人である自分に何を求めるのか、といったところか。サンドリヨンは眉を寄せたまま、首を横に振る。
「私には、そんな……何かを叶えてあげられるような力は何もないですよ?貴方の願いは、魔法使いである貴方にも叶えられないようなことなんでしょう?私に出来るとは思えないけれど。」
「大丈夫、簡単よ。私の願いは綺麗なお嬢さん、貴方にしか叶えられないことだから。」
「え?」
「王子に顔が知られていなければそれだけでいいの。」
両の手を取られて、サンドリヨンは呆気に取られたように魔法使いを見つめた。
「話だけでも、聞いてくれない?」
サンドリヨンは魔法使いのその勢いに気圧されるように数度首を縦に振る。魔法使いはほっとしたように笑って手を離した。
「よく聞いて頂戴。私は昔、今の王子に騙されて自分の魔法の杖を盗まれたの。その杖の魔法によって、あいつは名無しの農民の孤児から王子になったのよ。」
演説でもしているのかというほど大きく腕を振って、魔法使いは朗々と王子の愚行を告発する。
「この国に王子なんて本当はいないのよ!皆、盗人のあいつに騙されているの。」
狂気の滲んだ魔法使いの目に、サンドリヨンは唇を舐めた。迷うように彼女の目が泳ぐ。
「ねえお願いサンドリヨン。王子から杖を取り返して。」
その呼びかけに、サンドリヨンは目を大きく見開いた。サンドリヨン。それは彼女の名ではない。きっと夫人や姉がそう呼ぶのを聞いたのだろう。
一度目を伏せてから、彼女はゆっくりと、確認するように問う。
「私が王子から杖を取ると言えば……そうすれば、私を、舞踏会に連れていってくれるということですね。」
「えぇ!もちろん、約束するわ!」
「でも私、こんな姿じゃ舞踏会にはいけないわ。それにこんな靴じゃ、踊るどころか走るのも大変なんです。」
悲しそうな声だが、サンドリヨンの目の奥は笑っていた。必死な様子の魔法使いは、サンドリヨンの様子を気にすることなく声を上げる。
「その襤褸を貴方のために素敵なドレスに、そのブカブカの靴を貴方にしか履けないような素敵な靴に変えてあげる。踊り慣れていない貴方でも、脱げて困ったりしないわ。」
堪えきれない、といった様子でサンドリヨンが小さく笑い声を零した。もうその表情に困惑の色は残っていない。
「良いですよ。私で良ければ、杖を王子から奪うお手伝いをしますわ。」
「本当に?」
子どものように魔法使いが顔を明るくする。ぴょんと跳ねて、魔法使いは弾む声で説明を続けた。
「じゃあ王子から杖を奪って、あいつが少しの間動けなくなりますようにって魔法をかけて。私が杖を奪われた時にかけられた、忘れもしない魔法よ。」
「その魔法を、いつまでに王子にかければいいのですか?」
すっかり落ち着いた様子でサンドリヨンが尋ねた。魔法使いは楽しげな声でこたえる。
「そうね……日付が変わる、十二時までに。魔力は少なくなってしまったけど、その時間なら王子が城にかけた魔法を破って入ることが出来るはずなの。城に入って貴方に合流出来るはずよ。」
「分かりました。どうやって魔法を使うのか私にも教えて下されば、そのお願いを叶えますわ。」
お手本のような笑み。いつも通りの、人あたりの良い笑顔。微笑むサンドリヨンに、魔法使いは頷いた。
「道中教えてあげる、さぁおいで!何も無いところから物を出せる様な力は、今はもうないの。早く材料を集めましょう!」
二人が屋敷から庭に出ていく。バタンとドアが閉まり、重い鍵の音が響く。それと同時に、あたりは真っ暗になった。
第十場面:城、庭
城が見えてくると同時に、遠くに舞踏会の音楽が聞こえる。窓から見える城の広間には、多くの客がいるのが見えた。近づいた音は広間から遠ざかると共に徐々に小さくなり、城の庭に辿り着く頃にはすっかり音は聞こえなくなった。
城の庭では、噴水のまわりを王子が一人行ったり来たりしている。不意に顔を上げて、彼は小さな声で嘆いた。
「あぁ……結婚なんて出来ない。いつ僕が、ただ幻で飾り上げただけの偽物だってばれるのか、今だって分からないのに。結婚してしまったら?父上や母上よりも近しい相手が出来るんだ、相手にこの杖のことがばれるかもしれない。」
彼はぐるぐると落ち着かなげに歩き続ける。その手は常にソードベルトに掛けられた例の杖に触れていた。
「無理だ、僕には舞踏会に顔を出す権利なんてないんだ。大体何だって、あの時の僕はこんな物騒な杖を魔法使いから奪ってきちゃったんだろ……いや、でもなぁ、これがなきゃ、僕は死んでいただろうし。ここでも生きてこられなかった。間違いじゃなかったはずだ。」
声量も勢いも、大きくなったり小さくなったり。ころころと表情を変えて、結局王子は眉を下げて困りきった顔でため息をついた。
「ああ、何で僕はこんなにも気が弱いんだろう。そればっかりはあの頃のままだ。」
不意に、足音が聞こえた。誰かが王子のほうに近づいてきているようだ。王子の顔色が一層青ざめる。
「ひぃ、誰か来た!どうしよう、城の者だったら連れていかれちゃうかも。頼むからどうか、こっちに来ませんように!」
王子の願いも虚しく、足音はどんどん庭に近づいてくる。王子は諦めたように入り口を凝視した。
庭の入り口から現れたのは、王でも部下でもなく、サンドリヨンだった。先ほどまでの襤褸ではなく、舞踏会に相応しいドレスを身にまとっている。汚さぬよう持ち上げられた彼女のドレスの裾から足元が見えた。よく見れば、片方の靴が脱げている。
王子は見知らぬ相手に驚いたのか、腰を抜かしかけて噴水のへりに手をついた。
「あら、誰かいらっしゃったのね。」
「え、あの……失礼ながら、お名前を伺っても?どなた、ですか?王宮の方ではありませんよね。」
王子が尋ねれば、サンドリヨンは微笑んだ。
「人がいたのでしたら助かりましたわ。お聞きしたいことがありますの。」
王子の質問にはこたえず、ほっとした顔をしてサンドリヨンは王子に一歩近づいた。王子が半歩下がる。サンドリヨンは王子の様子を気にする様子もなく、続けて尋ねた。
「お城の入口は何処でしょうか。私、舞踏会に参加するためにお城に来たのですが、迷ってしまったみたいで。」
まわりを見渡して、サンドリヨンは首を傾げる。
「せめてここがどこかだけでも、分かればよいのですが。」
困り顔のサンドリヨンに、王子はようやく落ち着いて一つ咳払いをした。
「ここは城の庭ですよ。しかしまぁ、どうしてこんなところに?城の入り口は反対側ですよ。」
「連れから遅れて来てしまったんです。皆と合流するつもりでしたので従者とは別れて、一人で馬車から降り、お城の入り口を探していたのですが……反対側でしたか、道理で見つからないわけだわ。」
頬に手を当てて首を振るサンドリヨンに、王子は何か言おうとして少し迷いを見せた。決心したように顔を上げる。
「あの、案内しましょうか。」
今城に近づきたくはないのだろう。それでも客人が迷っているのを放っておくよりは、手を貸すことにしたらしい。
「城には慣れています。入り口まで……は行けませんが、その近くまでなら案内出来ますよ。」
「ありがとうございます。でも、まだ舞踏会に行くわけにはいきませんの。」
サンドリヨンはちらりと自分の足元を見た。王子に見えるよう、降ろしていたドレスの裾を再び少し持ち上げる。片方だけの靴に気がついたのか、王子が眉を持ち上げた。サンドリヨンが苦笑いを浮かべる。
「慌てていたからか、先ほど靴を落としてしまったんです。こちらの方に転がったように見えたのですが……」
照れたようにサンドリヨンは視線を逸らした。王子がその様子を見て、なるほどと頷く。
「靴を探してこちらに来たんですね。こうも暗い中では、見つけにくいでしょう。」
サンドリヨンも頷いて、それから首を小さく傾げた。
「貴方こそ、何故ここに?お城に慣れていると仰っていましたし、貴方は王宮の方なのでしょう?」
「ああ、その。言いにくいんですが……これ、私の結婚相手を探す舞踏会なんですよ。」
王子はふいと顔を上げて城の明かりに目を向けた。サンドリヨンがその目線を追った後、王子を見て目を見開く。
「あら、じゃあ貴方が王子様?」
王子は気まずそうに頷いた。サンドリヨンはしばらく言葉を失っていたが、おずおずと尋ねた。
「でもそれならなおさら、何故ここに?舞踏会にいなくてはいけないのでは?」
サンドリヨンの問いに王子は頷く。己の足元で目線を彷徨わせたまま、彼はこたえた。
「お恥ずかしながら、私にはこの舞踏会で結婚相手を探す気がないんです。両親への反抗とでも言いますか。私がここにいれば、花嫁を選ばせることも出来なかろうと。」
そこまでこたえてから、王子は顔を上げて肩を竦めた。
「改めて言葉にすると、我ながら子供のような我儘ですね。」
「まぁ。」
王子は少しの間言葉を探しているようだったが、それ以上は何も言わなかった。少しの間の後、サンドリヨンの足元に目を向けて片眉を上げる。
「あぁ、そういえば貴方は靴を落としたんでしたよね。裸足では庭の石が痛いでしょう、私も探すお手伝いをしますよ。」
話題を変えようとしたのか、王子が威勢の良い声で手伝いを申し出た。
「まぁ、ありがとうございます。」
サンドリヨンは微笑んで礼を言う。
「お城に慣れた方がいらっしゃると、助かりますわ。」
「しかし御客人を裸足で歩き回らせる訳にはいきませんね。少しお待ちください、どこか座れる所があるかと……」
「良いのに、そんな。」
王子が座ることの出来そうな場所を探してサンドリヨンに背を向けた。サンドリヨンはその瞬間、王子が剣と共に下げていたあの杖に目線を合わせた。
瞬きの間に、彼女はそれをソードベルトから抜き取る。王子が振り返った。
「あ、それは!」
王子が慌てて杖に手を伸ばしたが、サンドリヨンは取り上げられる前に王子に向かって杖を振り上げた。途端に王子が頭を抱えてしゃがみ込む。
「う、あ……、な、何……を……」
「私、貴方が少しの間動けなくなりますようにってお願いしたの。」
その言葉に、王子が目を見開く。魔法使いとの会話を、覚えていたのかもしれない。
「貴方は、まさ、か……!」
「この杖の本当の持ち主……魔法使いに、貴方からこの杖を取り戻すようお願いされていてね。」
サンドリヨンは笑顔で杖を王子に見えるように持ち上げた。王子の顔が悔しげに歪む。鐘が大きく、一つ鳴った。
「その時にこうやって、貴方に魔法をかけるように言われたの。貴方が昔魔法使いにかけた魔法と、同じ魔法をね。」
鐘が鳴る。八度目、九度目。
「十二時になったら魔法使いがここに来るわ。」
「そん、な、待って、」
十一度目。
「ほら。もうすぐね!」
サンドリヨンの弾んだ声に重なって、十二度目の鐘が鳴る。王子の目線の先で、空間がぐにゃりと歪んだ。気がつけば、庭に魔法使いが立っている。
「サンドリヨン、よくやったわ。さあ、その杖を私に渡して。」
サンドリヨンは微笑んだ。それはそれは、お手本のように優美に。いつもの笑み。目の奥が冷たい。笑い声が庭に響く。
「私、約束はもう守ったわよ。」
「……え?」
「この通り、王子から杖は奪った。魔法もかけたわ。」
わざとらしく芝居がかった動作で、サンドリヨンは杖を魔法使いに見えるように高く持ち上げた。魔法使いの表情が、喜びから恐怖に塗り変わる。
「ねぇ、貴方もしかして……」
「ええ、そのもしかしてよ。魔法使いさん……さようなら!」
彼女は大きく杖を振り上げた。目を見開いて、口角を思い切り上げて、今までになく心底楽しそうに。魔法使いの身体が、倒れる。王子が息を呑んだ。
魔法使いの身体は地面に叩きつけられると同時に、灰のように粉になり散った。吹いた風に灰が舞う。サンドリヨンは視界に入ったそれを、億劫そうに振り払った。
服にかかった灰の粉をさして気にする様子もなく、サンドリヨンは次に王子に向かって杖を振った。王子がゆっくりと立ち上がる。サンドリヨンは、少し声を震わせながら王子を見つめた。
「ごめんなさい王子様。貴方を魔法使いから助けるには、一旦こうするしかなかったんです。」
サンドリヨンは杖を持ったまま、いつも通りの笑顔で両の手を広げた。目に宿っていた愉悦は、もう見当たらない。
「魔法使いはもういません。貴方は自由ですよ!」
「いえ、その、本当にありがとうございます。」
王子は心底ほっとした顔で、かぶりを振った。彼がサンドリヨンの持つ杖を見る。
「あの、その……もしよろしければ、その杖は貴方がお使いください。私には使いこなせぬ物なのです。私には出来ぬことを、貴方はやってのけた。貴方のほうが、それを上手く使えるでしょう。」
「そうですか?では、ありがたく頂いておきますわ。では王子様、ごきげんよう。」
ドレスの裾を持って、サンドリヨンはお辞儀をしてから庭から出ようと王子に背を向けた。王子が慌てたようにその背に声をかける。
「あの!……貴方と、その、また会いたい……のですが……」
サンドリヨンは振り返って何かを言おうとしたが、すぐにハッとしたように顔を上げて城の時計を見た。
「あら、大変、急がなきゃ!二人が帰ってきてしまう前に元通りにしなくては。」
「二人?」
「ごめんなさい王子様、さようなら!」
「あぁ、ちょっと待って下さい!」
王子はサンドリヨンが庭から飛び出した後を慌てて追いかける。しかし庭の門から出たところで、既にサンドリヨンの姿は見えなくなっていた。落胆のため息をついてから、王子はふと道の脇に目をやった。
何かが月明かりを受けて、輝いていた。
王子がゆっくりと近づいてそれを拾い上げる。光を受けていたのは、革靴の金具だった。見事な装飾の施された革靴を王子はしばし惚けたように眺めていたが、次の瞬間、何かに気がついたのか目を見開く。彼はサンドリヨンが走り去った方に目線を投げた。
「落とした靴……!」
小さく叫んでから、王子は靴を持ったままどこかに走り去った。誰もいない庭が、夜の闇に薄くなっていく。
第十一場面:城、王子の執務室
ノックの音がする。あたりを見れば、そこは王子と部下が以前話していたのと同じ窓のない部屋だった。机に座りペンを走らせていた王子が、顔を上げてノックにこたえる。
「入れ。」
ドアは開かない。片眉を上げて、王子は椅子から立ち上がった。途端に、ハッとしたように机から離れる。
「貴様、どこから入った!」
彼が壁に向かって叫ぶ。いや、壁にではない。先ほどまで無人だったはずのそこには、人影が佇んでいた。いつの間にか己の真後ろにいた影に向かって、王子は叫んだ。
「杖を取られても、移動くらいは出来るわ。あーあ、でも気が付かれちゃったわね。やっぱり誰かさんのせいで弱っているのかしら。」
王子はそこに立つ魔法使いから目を離さずに、剣と共に下げていた杖を構えた。魔法使いは目尻を吊り上げて王子を睨みつける。
先ほど散ったはずの魔法使いがいるということは、これも過去の出来事か。
「私の忠告を無視したわね。魔法に頼るなと言ったでしょう!」
「……はっ、貴様に言われる筋合いはない。貴様だって、魔法を私欲のために使っただろう。」
「なんのことかしら。」
魔法使いが目をすいと細めた。腕を組んだその手に、ナイフが握られている。少しでも魔法使いに気がつくのに遅れていれば、王子はあれに刺されていたのだろう。
王子は杖を構えたまま続ける。
「そもそも貴様が私をこうするしかない状況に追い詰めたんだ。貴様から忠告を受ける義理などない。」
「あら、責任転嫁?呆れたものね、私が貴方に杖を渡さなければ良かったとでも言うつもり?騙された私が悪いって?」
魔法使いの言葉に、王子はそうではない、と叫んだ。
「私の飢えそのものが貴様によるものだろう。貴様なのだろう、物語られている妖精……九年前、日照りから助かった村に富をもたらしたという妖精の正体は!」
「……それ、ただのお話でしょ。私となんの関係があるの?」
魔法使いはわざとらしく首を傾げた。王子の顔が歪む。
「物語といってもたかだか数年前の話だからな。物語化していても話の筋は割合克明だ。当時の記録と合わせればすぐに貴様だと分かった。」
魔法使いは何も言わない。
「九年前の飢饉、私が孤児になったあの時。我が国の東部がひどい被害を受ける中、ひとつだけ貯蔵を徹底して助かった村があった。妖精に助けられた村……飢饉の前に訪れた妖精が、日照りを予知したという物語が残った村がな。私の住んでいた村のすぐ近くだ、そうだろう?」
魔法使いは、まだ何も言わない。ただ、その表情が段々と笑みを帯びていく。
「そもそも、あの時期あの地域で日照りが起こったことはなかった。記録上で一度もだ!私はあれが異常気象だったとは思わない。あの後から今までもずっと、何も対策をしていないにもかかわらず日照りは起こっていないじゃないか!あの年だけ起きるような要因があったか?いや、見つからない、何もないはずなんだよ!」
王子が叫ぶのを、魔法使いが愉快そうに眺める。王子が一際大きい声で吼えた。
「言えよ、本当のことを!」
杖が光を帯びた。魔法使いはケラケラと笑って、王子の座っていた椅子に腰かける。
「後にも先にもない出来事だからといって人為的なものと結論付けるのは少し愚かじゃない?ま、今回に限ってはお見事な勘だけどね。貴方の考える通り、『村に富をもたらした妖精』として語られたのは私よ。」
「なんの、ために。」
予想通りの答えだっただろうに、王子の声は震えていた。魔法使いがあげた笑い声が部屋に響いた。
「予想はついているんでしょ、お坊ちゃん。」
王子の大声にも、誰一人この部屋に駆けつけてこない。奇妙な静けさが、二人の間に横たわる。
「……物語では、妖精は随分とたくさんの礼を貰ったらしい。」
何か言葉を続けようとして、王子は眉を寄せた。魔法使いは王子の言葉を待たずに、分かっているじゃない、と笑った。
「そういうこと。手っ取り早く稼ぐには良い方法だと思わない?自分で起こす災害の予言なんてなーんにも難しくないんだもの。」
「魔法など幻ではなかったのか。多くの人を騙すなと語った同じ口で、戯言を!」
王子は杖を握りしめたまま吼えた。その足は震えている。魔法使いは対照的に、ひどく楽しそうに笑った。ナイフが照明の光を受けて光る。
「あはは、やーね、私はあんたと違って誰も騙していないわよ。貴方と違って過去を変えたんじゃない、未来を変えただけ。全部、本当のことしか言っていないもの。己のために己の力を使って未来を変えることの、何が悪いの?」
「そのために何人が犠牲になったと思っている!」
「でも何人かは救われたわ。そういうものでしょ。」
悪びれる様子のない魔法使いに、王子は目を吊り上げた。
「いつか、いつか私も貴様も破滅する!天罰が下るに違いない!」
「破滅?天罰?あっはは、面白いことを言うわね、ハリボテの王子様!」
立場は王子の方が余程有利であるはずだ。それでも、場の空気は魔法使いが支配していた。
「魔法に代償なんて必要ないのよ。必要なのは想像力と欲望だけ!」
笑みをひどく意地の悪いものに変えて、魔法使いは王子の方に一歩近づいた。
「だから安心しなさいよ、貴方にも私にも天罰なんてものは下らないわ。」
知っているわよ、と魔法使いは笑う。言い聞かせるように、ゆっくりと続きを王子に囁く。
「日照りを呼んだ、私たち、に。」
「……戯言を。」
「あの後から今までもずっと、何も対策をしていないにもかかわらず日照りは起こっていなかった。でもまさに今、もっと広範囲で、日照りが起きている。この国はなぜか、この日照りを予期していたみたいねぇ?」
王子が下唇を噛んだ。青白い顔のまま、魔法使いを睨みつける。
「貴方も同罪でしょ。それとも天罰を望んでいるって訳?責任の取り方まで他人任せでほんと笑っちゃう。そんな都合のいいもの、存在しないってご存知ないのかしら。」
不意に笑みを消して、魔法使いはじとりと王子の目を睨んだ。
「でもねぇ……絶対に、私は貴方を許さない!あんたに私を殺す勇気が無くても、私にはあんたを殺す気があるのよ!」
届かないナイフを王子に向けて、魔法使いは叫ぶ。
「いつか殺してやる、私の魔法を取り返してやる!あんたに下るのは天罰じゃない、ただの死だよ!」
「っ出ていけ悪魔め!二度とこの城に入るんじゃない!」
王子が目を閉じ叫んだ。振り上げた杖が魔法使いに向く。
第十二場面:城
はたと気がつけば、そこにはもう魔法使いはいない。ただ王子が一人、椅子に腰掛けたまま頭を抱えていた。
ノックの音が響く。ビクリと王子が顔を上げた。もう一度ノックが鳴る。
「……入れ。」
ドアが開く。顔を出したのは、以前にもこうして執務室に入ってきた王子の部下だった。王子より年上に見える、軍服の男性だ。
「あぁ……お前か。」
王子がほっと息を吐く。その様子を見て、部下が少し眉を寄せた。
「もしかして驚かせてしまいましたか?」
部下が申し訳なさそうに眉を下げるのを見て、王子は片腕を振った。
「いや、少し考え事をしていただけだ。何用だ?」
「そろそろ出発した方がよろしいかと思いましてね。」
王子は部下の言葉にちょっと首を傾けてから、あぁ、と頷いた。部下が靴の持ち主探しですよ、と声を上げる。
「招待客全員の家をまわるとなれば、かなりの時間がかかります。しかも、お嬢様方に靴を履かせてまわる訳ですから!今日中には終わらないでしょうし、出発は早いに越したことはないでしょう。」
「そうだな。ありがとう、声をかけてもらって助かった。」
王子は立ち上がって、部下が引いたドアから外に出た。しばし部下は黙って王子の後ろを歩いていたが、歩みを止めぬまま、思い切ったように声を上げた。
「あの、ひとつお聞きしたいことがあるのですが。」
「こたえられることならばこたえよう。どうした?」
王子の許可に、部下はゆっくりと口を開いた。
「私、ご命令を聞いてからずーっと考えていたことがあるのですがね。貴方が言うその、城の庭でお会いした方、って……こんな方法で……ええとつまり、靴が合うか合わないかだけで決めて良いのですか?」
「なにか気にかかるか?」
王子が続きを促せば、部下は考え込むように目を伏せながら訥々と続ける。
「そりゃあ、彼女が靴の持ち主であるという予想には私も賛同しますよ!靴なんてそうそう落としませんし、落とした靴を探して庭に来たってことは、彼女はあの辺で靴を落としたんでしょうから。確かなことではないとはいえ、彼女の履いていた靴も同じデザインに見えた、と王子も仰っていましたよね。」
「ああ。月明りだけだったため、断言は出来ないがな。」
「はい。まぁなので、靴の持ち主を探すのは悪くない方法だと思います。でも靴のサイズなんて、同じような人もたくさんいらっしゃるでしょう?嘘を吐く人がいることも予想出来ます。しかし片方になった靴を貴族の娘さんが取っておくとも思えないし……」
至極当然の疑問だろう。靴を履かせてまわるだけで上手いこと本人が見つかりますかね、と首を捻る部下に王子は笑い声を上げた。
「まあ、お前とは長い付き合いだ。この際、お前には本心を言っておこうか。」
人の気配がないことを確認してから、王子は足を止めて振り返る。部下も足を止めて、王子の顔を見返した。
「実のところ、な。今どうしても結婚せねばならぬというのならば、相手など誰でも良いのだ。」
「は、はい?誰でも、ですか?」
戸惑って聞き返した部下の言葉に、王子は頷いた。悪びれる様子もなく、王子は笑って言葉を続ける。
「誰でも、と言うと正確ではないか。皆が羨むような美しい女性なら、王政に関わるに困らない賢さなら。私は特定の個人を望んでいないんだ。」
相変わらず困惑した顔のままの部下に、王子は肩を竦めた。
「分からないか?別に貧乏だろうが、性格が悪かろうが、今知識がなかろうがいいんだ。分別があって外面が良ければそれで良い。言わば……妃という王の飾りとして不足なければ。」
「飾り、ですか。いえまぁ、確かに一理ありますけども。」
王族の結婚などそんなものだと部下も慣れてはいるのだろう。しかし一応理解を示しつつも、彼は動揺を口にする。
「でも殿下、私はお話を聞いたとき、てっきり殿下がそのお方に惹かれたのかとばかり思っておりました。王子自身のお気持ちは……つまり、関係無いのでしょうか?」
王子は部下の言葉にまた笑い声を上げた。
「一言二言交わしただけで、私自身の気持ちなど分かるものか。」
ぐぅと言葉に詰まった部下の肩を、王子は一度強く叩く。
「もちろん彼女がベストさ、探しているのも本当だ。でも、あの靴は建前だよ。顔や仕草、喋り方を見るための口実だ。靴のサイズなど、私が合っている、合っていないと言えば、誰も文句は言うまい?」
「そりゃ、その通りですけどねぇ。」
「彼女以上に相応しい人がいればその人で良い。私は少しでも、本物に近づきたい……」
「本物?なんのですか?」
本物も何も王子は王子でしょうよ、と部下が眉を上げる。王子は何か言いかけて、ため息をついた。誤魔化すように、ニッと笑う。
「自分が一人前と思えぬなら、いっそハリボテで固めることも一つの手だと思ったまで。」
王子の言葉に、部下が怪訝な顔をする。それ以上説明することも無く、もう行くぞ、と肩を竦めて王子は歩き出した。部下が慌てて後を追う。
「想像力と欲望。必要なのはそれだけだ。」
後ろを歩く部下に向かってでは無く、王子は低く呟いた。その目は、ひどく凪いでいた。
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