メンヘラが毎日部屋に通ってきたら

 「お前、今日も来たのかよ……」

 インターホンのモニターに映し出された顔を見て、僕――愛垣あいがき晋助しんすけは、苦笑いを浮かべながら頭をいた。

 地雷系ファッションに身を包んだメンヘラ女子――琴坂ことさか静音しずね

 初めて部屋に上げた日を含め、今日で十日連続。

 あの日から彼女は、僕が暮らすマンションを毎日訪れるようになっていた。

『おはよう、晋助』

「……おはよう。んで、また持ってきたのか?」

『うん』

「はぁ……。わかった、入ってこいよ……」

 静音の行動にあきれながらも、僕はエントランスの自動ドアを渋々開く。

 それから一分とたずして、彼女は二階にある僕の部屋の扉をくぐった。

「お邪魔します」

「記憶が正しければ『たまにだったら部屋に上げてもいい』って、言ったはずなんだけどな。お前と『通い妻契約』を結んだ覚えはないぞ?」

「その『たまに』が、今日もたまたま続いてるだけ。通ってるつもりはない」

「それお前のさじげんじゃねぇか!」

「怒ってる?」

「いや、怒ってはないけど……」

「よかった。……それじゃあ早速、一緒に食べよう」

 そう言うと静音はリビングへと移動して、トートバッグの中からランチバッグを取り出し、ローテーブルの上に中身を広げた。

「昨日はお米だったから、今日はパンにした」

 静音は毎朝、二人分の弁当を作って我が家に持ってくる。

 今日のメインは、三種類のサンドイッチ。卵サンド、ハムとキュウリとチーズのサンド、ベーコンとレタスとトマトのサンド、加えて弁当箱の隙間を埋めるように、タコさんウィンナーに卵焼き、カットされたキウイフルーツが隅の方に詰められていた。

「相変わらず、うまそうだな……」

 好きな具材ばかりで彩られた弁当を前に、僕はごくりと唾を飲む。

「こっちは私で、そっちは晋助の分。それとこれ、アルコールティッシュ」

「あ、あぁ……。それじゃあ……いただきます」

 どれから食べようかと手を拭いながら悩んだ末、僕は卵サンドを選んだ。具材が落ちないよう丁寧につまんで、口いっぱいにほおる。

 ふんわりと柔らかなパン生地に、粗く刻まれた白身の食感と黄身の濃厚な味わい。隠し味に振られた黒胡しようが、程良いアクセントとなっていた。

「……うまい」

「そう? ……うれしい」

 感想を聞いて安心したのか、静音はかすかに頬を緩めた。

 彼女も僕に続いて卵サンドを手に取り、はむりと口に含む。

「なんか、申し訳ないな……。毎朝弁当を作ってくるなんて、大変だろ」

「私が晋助に食べてほしくて、勝手に作ってるだけだから」

 僕から弁当を作ってきてほしいと静音に頼んだ事は、これまで一度もない。だが、それでも毎日のように彼女に食事を用意してもらうのは、どこか気が引けていた。

「元々この部屋に通い始め……たまに来るようになる前から」

「ちょっと待て。今『通い始める』って言いかけたよな?」

「気のせい。この部屋にたまに来るようになる前から、朝はお弁当を作るのが日課だった。一人や二人分くらい作る量が増えても、手間はほとんど大差ない」

「今までは朝に何人分作ってたんだ?」

「私と父の昼食で、二人分。あとお弁当ではないけど、朝食も用意してた」

 一人暮らしを始めてからは僕もできる限り三食全て自炊をしようと心がけてはいたのだが、朝は特に時間がなく、結局は学食や買いめしている冷凍食品頼りになってしまっていた。それを静音は、毎朝早くに起きて食事を作っているというのだから表彰ものだ。

 しかし、僕は彼女の行動に一つの懸念を抱いていた。

「僕の分の朝食まで用意してくれるのは助かるけど、食費はどこから出てるんだ? まさか、琴坂家の生活費を使ってるわけじゃないよな……?」

 静音は朝だけでなく、夜にも部屋に顔を出す。それも夕食を作るために。

 一種のストーカーのようではあるが一応は「友達」だし、そこまで尽くしてくれる相手を追い返すのもどうかと思い、僕はそのまま彼女を受け入れてしまっていた。

「気にしないで。パパ活でめたお金を使ってるから」

「けどそれって、一人暮らしをするための金だよな?」

「いいの。……それに今は、貯金を忘れて休みたい」

 静音は僕と知り合った日から、パパ活を一度もしていないようだった。

 登校前は僕の部屋、日が昇っている間は大学、夜も再び僕の部屋。決まった場所を行き来するだけで、それ以外の場所に出向いている様子は一切ない。

 火曜日の倫理学の講義も黒染めせずに白髪で受講しているし、土日に関してはこの部屋で朝から夜まで過ごし、ある時は僕がバイトに行ってる間、勝手に大掃除を始めていた。

 一時的であったとしても、静音は僕の部屋に通う事でパパ活をせずに済んでいる。

 それは彼女にとって、間違いなく良い傾向に進んでいると言えるだろう。

 ただその代わり、毎日部屋に入り浸って、家事の手伝いをするようになってしまっているのだが……。

「何なら、お昼のお弁当も作ろうか?」

「結構だ。自分で稼いだ金なんだし、僕にじゃなくて自分のために使えよ。服とか化粧品とか、女子は色々と金かかるんだろ?」

「服も化粧品も、必要な物は全部揃ってる」

「……だいぶ稼ぎが良かったんですね」

「私の場合は一回の食事やデートで最低一万円は貰えていたから、時給換算すると大体五千円くらい」

 真面目にコンビニバイトをして時給で約千円をコツコツと稼いでいるのが、なんだかむなしくなってくる。

「食費の心配はないから、晋助は安心して」

「食事で僕を釣ろうとしてないか? 弁当やら食材を用意してきたら部屋に通すとか、そういうシステムは採用してないからな……?」

「弁当や食材を持ってくれば、毎回部屋に上げてくれるのに?」

「確かにそうだけど……」

 持ってこなくても、別に追い返したりはしない。限度はあるが。

「……あ、そうだ」

 静音は何かを思い出したように、ボソリと声を発した。

「……? どうかしたのか?」

「今後の参考にしたいから、晋助の好きな料理を教えてほしい。作れる物のレパートリーも増やしておきたいし」

 トートバッグからメモ帳とボールペンを取り出し、静音は僕の目をジッと見つめた。

「好きな料理……か」

 いきなりかれると、案外パッとは思い浮かばないものだな。

「辛味や苦味の強いやつよりかは、あまのある料理の方が好き……かなぁ。そうだ、一昨日の夜に静音が作ってくれたオムライスは、特にうまかったな」

「レパートリーを増やしたいのに、それだと参考にならない」

「仕方ないだろ。真っ先に頭に浮かんだから言っただけだ」

 ふわふわの卵が印象的な、ケチャップ付きのオムライス。甘く口当たりの優しい卵とバターのきいたチキンライスが相性抜群で、五分も経たずに完食したのを覚えている。

 静音の作るごはんはどれもしいのだが、思い出しただけでよだれが出てくるくらい、あの料理の出来は格別だった。正直、もう一度食べたい。

「真っ先に頭に浮かぶくらい、あのオムライスを気に入ってくれたの?」

「……まぁな。店で出されてもおかしくないクオリティだったよ、あれは」

「そう……なんだ。……そっか」

 口元をモゴモゴと動かし、気恥ずかしそうにしてはいるものの、静音はどことなく誇らしげな様子で微かに胸を張っていた。

「オムライスはまた後で作る。それより、もっと他にはないの?」

 心の中でひそかにガッツポーズをしつつ、引き続き好きな料理を頭に浮かべる。

「うーん、そうだな……。パスタにカレー……あと、肉じゃがなんかも好きだな」

「肉じゃが?」

 静音はピクリと体を反応させ、僕が挙げた料理名を拾って声に出す。

「ああ。もしかして、あまり好きじゃなかったか?」

「ううん、その逆。まさか、晋助と好物が被るとは思わなかった」

「好物が肉じゃがだって人は、割かし多いんじゃないか?」

「人と関わりが少ないから、そこら辺はよく分からない」

「……ごめん」

 少々気まずくなった僕は、静音から目をらした。

 しかし、彼女は特に気にしていない様子で、言葉を続ける。

「肉じゃがなら任せて。きっと気に入ってもらえる」

「やけに自信ありげだな。得意料理なのか?」

「初めて作れるようになった料理だから、他のより慣れてる」

「そうだったのか。けど、それならどうして今まで肉じゃがを作ろうとしなかったんだ? 静音が食事を用意してくれるようになってから、そこそこ日は経ってるのに」

「自分の好きな料理を振る舞って、『嫌い』って言われたらへこむから」

「出された料理にケチなんてつけねぇよ。というか、何日か前にも言っただろ? 好き嫌いやアレルギーも特にないから、大体の物は食べられるって」

 たとえ好きじゃない料理を振る舞われたとしても、わざわざ僕のために作ってくれた料理に対して「嫌い」だなんて言うはずがない。

「にしても、肉じゃがかぁ。実家ではよく食べてたけど、一人暮らしを始めてからは一度も口にしてなかったな」

「なら、今日の夜ごはんは肉じゃがにするよ。食材は放課後に買ってくる。ボディソープも切れかけてたから、ついでに買い足しとくね」

「いつの間にボトルの中身なんて確認したんだ……?」

「昨日の夜、お風呂の掃除をした時に。それはそうと、晋助は日頃からしっかり洗顔してるの? 一昨日の残量から、全然中身減ってなかったよ」

「洗顔料までチェックしてるのか!?」

「ケアはサボっちゃダメだよ。晋助はニキビができやすい肌質なんだから」

 なぜに肌質まで把握されているのだろうか。

「それに引き換え、ティッシュの量は昨夜から相当減ってるね。予備の箱ティッシュは確かあと一箱残ってたと思うけど、一応補充しておく?」

「自分で買っておくから、ティッシュの消費は気にしないでくれ!」

 一体どこまで細かく確認しているんだ、マジで。

「……もしかして、迷惑だった……?」

 静音は肩をすくめて、僕の表情をうかがいながら不安そうに眉を寄せた。

「い、いや……迷惑じゃないから、そんな顔するなって……。助かってるよ、ボディソープが切れそうなのなんて、今の今まで忘れてたしさ」

「……本当?」

「ああ。……色々気にかけてくれて、ありがとな」

「それなら……ちょっと安心した」

 ホッと一つ息を吐き、静音は目を細めて口元をほんの少し緩めた。

「じゃあ、ボディソープと食材だけ買っておく。……肉じゃが、楽しみにしてて」

「あ、ああ……うん、いや……」

 なんだか、このまま静音に家事全般を任せ切りにしていたら、いつしか一人じゃ何もできないダメ人間にまでちていってしまいそうだ。

 そもそもの話、毎朝弁当を用意して、夜も食事を作りにやって来るというのは、いくら厚意であったとしてもやりすぎだし、そこまでしてくれる理由も分からない。

 もしかすると今までの行動は、彼女なりのアピールだったりするのだろうか?

「お前、毎日のように家事を手伝っていれば、いつか僕が『通い妻契約』を結んで、正式に僕の部屋に通えるようになるかも……とか思ってないよな?」

「思ってない」

 静音は食い気味に、僕の問いかけを否定した。怪しい。

「一応言っておくけど、僕が契約を結ぶなんて絶対にありえないからな」

「どうして?」

「条件としてフェアじゃないからだ」

 メンヘラ女子とは本来関わり合いになりたくない――というのは、静音には伏せている。本人を前に言うのは、ちょっとばかり嫌味ったらしいだろう。

 それに僕は、決してうそはついていない。

 料理、洗濯、掃除といった家事全般、おまけにイラスト練習のサポート――それらを静音が行う代わりに、僕の部屋を自由に出入りする権利を与える。

 彼女からすれば「家に帰らなくて済む」というメリットがあるが、だとしても僕に都合が良すぎる。同じ大学生なのに、そんな格差のある交換条件を呑みたくはない。

「何を言っても『通い妻契約』はなしだな」

「……じゃあ、もうごはんは作ってあげない」

「やっぱり契約する上でのび売りだったのかよ」

 ていうか、最初から頼んでないし。

「あわよくば……とは思っていたけど、冗談。ごはんは今まで通り用意する」

「目的が分からないな……」

「さっきも言ったでしょ? 晋助に食べてほしいから作ってる、って」

「何で僕なんかに、そうまでして食べてほしいんだよ?」

「だって晋助、いつも美味しそうに食べてくれるから。人の役に立ってるって……勝手にだけど、誰かに必要とされているような気がして、うれしいから」

 幸せそうに、静音はほおを赤らめた。

 どうやら、これは本心からの言葉らしい。

「静音は良いお嫁さんになるだろうな」

「え……それって、どういう意味……?」

「そのまんまの意味だよ。料理がくて、他の家事もそつなくこなせるんだったら、将来有望だろ」

 卵サンドを食べ終えた僕は手を宙に泳がせて、次はどちらのサンドイッチを食べようかと考えながら、そう言った。

「……」

「……静音?」

 静音は突然黙り込み、顔を隠すようにうつむいてしまう。

「別に……何でもない」

 数秒後、彼女はどこか嬉しそうに、小さく声を発した。

 木曜日の講義は、二限目から始まる。

 科目は違うものの静音も僕同様に二限スタートで履修を組んでいたため、講義室までは二人でキャンパス内を歩いていた。

「最近じゃいつもの事だけど、大学で人とすれ違うと、その度に見られているような気がするな……」

「そう? 普通でしょ」

 静音は気にも留めていない様子だったが、明らかに異様だ。

 全身黒系で統一された派手な服装と対照的な色合いをした白髪のハーフツイン、そして目元を赤く染める特徴的なメイク。それだけでもかなり目立ってしまうというのに、そこに元々の顔立ちの良さも相まって、さらなる注目を集めてしまっていた。

 彼女の隣を歩く僕にも多くの視線が向けられ、多少の気まずさを感じる。人と目が合うのを避けようと、僕は下を見ながら歩いた。

「オイオイオイオイウォオオイッ!」

 唐突に、背後から怒号にも似たたけびが聞こえてきた。その声の主はあっという間に僕に接近し、正面に回り込んでわざとらしい笑顔を作ると、グイッと顔を寄せてくる。

「晋助くぅーん? おはよぉー」

「お、おはよう。どうしたんだよ、いきなり」

「晋助君が女の子と歩いているところにすれ違ったから、挨拶しただけだよぉー?」

「それにしては近いし、すれ違ってすらなかっただろ!」

 目が血走りすぎだ。怖いわ。

「あ、静音ちゃん。おはよう、今日も可愛かわいいね」

「……うん」

 静音は僕の陰に隠れて、その不審者から距離を取った。

「おい、浩文ひろふみ。あんまり静音を怖がらせるなよ」

「怖がらせてねーよ。爽やかかつ紳士的に挨拶しただけだ」

「どこがだ!」

 話しかけてきたのは、大学で最も親しい男友達――柳生やぎゆう浩文だった。

 浩文にはいまだに静音と「コトネ」が同一人物だったという件を教えてはいないが、彼女と出会った経緯についてはぼかして語り、友達になった事も伝えていた。

 静音が朝と夜に僕の部屋に通っているのも、浩文はすでに知っている。だが、それを報告した日から、僕が彼女と二人でいると毎回こんな調子で絡んでくるようになった。

 浩文を迎え入れた僕と静音は、再び歩き始める。

「クソ……お前はいいよな。こんな可愛い女の子を毎日家に連れ込んでよぉ」

「連れ込んではねぇよ」

「ちょっと前まで『僕は母と妹以外の女は部屋に上げた事がない』とかカッコ付けてたくせに、あっさりと裏切りやがって……。万死だ、お前は今すぐ打ち首だ!」

 それだけで打ち首されるなんて、たまったもんじゃない。

「あああぁぁ……マジで羨ましいな、この野郎! どうせあれだろ、毎朝家に来てくれる静音ちゃんと『お兄ちゃん、いい加減起きないと遅刻しちゃうよっ』『ううぅ……あと五分だけ……』とか言い合いながら、すがすがしい朝の始まりを満喫してるんだろ!?」

「どうして兄妹きようだい設定なんだよ」

「まさかとは思うが、目が覚めたら裸エプロンをした静音ちゃんが朝食を作ってるみたいな、新婚生活プレイじゃないよな……? お前、そっち派だったりしないよな!?」

「そんな派閥どこにもねぇよ。ていうか、どうして裸エプロンなんだよ」

「寝て起きたら裸の女が部屋にいるとか、全世界の男が望む光景だろ?」

「静音が近くにいるのに、よくそこまで色欲を丸出しにできるな……」

 浩文のしょうもない思考に、僕はひどくあきれてしまう。しかし、彼が何の気もなしに発した言葉は、不思議と僕の頭にしばらく残っていた。

 ……新婚生活、か。

 僕と静音は結婚どころか、付き合ってすらもいない。だというのに、彼女があししげく僕の部屋に通っている状況は、どことなく新婚生活に通じているように感じた。

 僕は視線を浩文から静音へと移し、地雷系ファッションの上にエプロンを掛けて家事にいそしむ彼女の姿を、ぼんやりと思い浮かべる。

 地雷系とエプロンの組み合わせはかなり異質ではあるものの、静音ほど整った容姿であれば、どんな服でもそつなく着こなしてしまいそうな気がした。

 地雷系が苦手な僕でさえそう思うのだから、この感覚はきっと間違っていないだろう。

「……晋助?」

 静音は僕の視線に気が付き、上目遣いで首をかしげた。

「い、いや……っ! 別に何でもない……」

 とつに両手を左右に振って、僕は慌ててした。

 エプロン姿を想像していたなんて、本人に言えるわけがない。

「ダウト。その動揺からして、静音ちゃんでわいな妄想でもしてたんだろ。隠さず正直に言え、このムッツリドスケベが!」

「卑猥な妄想なんて一切してない。つか、浩文にだけはムッツリ呼ばわりされたくないんだけど」

「俺はムッツリじゃなくて、真正のドスケベだ」

 みっともないから、誇らしい顔をするな。

「晋助は、ムッツリドスケベなの?」

 静音は真面目な表情のまま、僕の顔をのぞき込む。

「頼むから、浩文のたわごとを本気で受け止めないでくれ……」

「戯言じゃないだろ。デスク下に収納してあるイラスト資料に混じって、Rが付く同人誌が大量に隠されてるのくら――痛っ!」

 浩文の肩を思い切りたたき、「これ以上はやめておけ」とくぎを刺す。

「同人誌って、BL?」

 予想外にも、静音が興味を示してしまった。

「ああ、男根入り乱れる過激なやつだ。なっ、晋助!」

「なっ、じゃないだろ! ……普通の男性向けだ」

「なんだ……」

 静音は少し肩を落とし、残念そうにつぶやく。

「お前は僕に腐男子であってほしいのかよ」

「男にしか興味がないなら、少しだけ安心できた」

 何を安心できるというのだ。

「晋助は普段、どんな同人誌を読んでるの?」

「いや……どんなって……」

 どうして朝っぱらから大学で、僕は性癖を問い詰められているのだろうか。

「隠さなくて平気。私は別に、晋助がドラゴンと自動車のまぐわいで性欲を満たす変態だったとしても、ドン引きせずにある程度は受け止める覚悟でいるから」

「僕の性癖偏差値はそこまで高くねぇよ!」

「そうだぜ、静音ちゃん。心配せずとも、こいつの性対象は人外じゃなくって普通に人だからさ。だよな、凌辱りようじよくマニアの晋助君っ!」

「お前はさっきから堂々と嘘をつくな!」

「でも、確かに見たぞ。コンビニで万引きした女の子を捕まえてってやつ」

「お前、故意に僕の立場を悪くしようとしてないか……?」

「その同人誌に憧れて、コンビニでバイトを始めたくらいだもんな!」

「……晋助、卑猥」

 静音も静音で、浩文の発言を真に受けすぎだ。コンビニが舞台の薄い本は、数冊持ってはいるけれども。

「まっ、晋助がコンビニで制服姿の九条くじよう先輩をオカズにしてるってのは置いといて」

「誰もそんな話してないだろ!」

「……くじょー先輩?」

 静音はふと、どこか険しい表情を浮かべた。

「……? なぁ、晋助。九条先輩の事、静音ちゃんに言ってないのか?」

「ああ、言ってなかったな」

「そういうのは早めに伝えとかないと、後でめるぞ?」

かれてなかったし、そもそもあいつとはただのおさなじみだし」

「……幼馴染」

 視線を斜め前に落とし、静音は重たい声音でその単語を口にした。

「ねぇ。幼馴染って、女……?」

「え……? あ、ああ。女だけど」

「……名前は?」

「く、九条千登世ちとせ……」

「……くじょー、ちとせ。……その人と幼馴染で、バイト先も一緒なの?」

「お、おう……?」

 千登世に関する質問を、静音は僕にいくつも投げかけてきた。

 コンビニの駐車場でされた質問攻めを、つい思い出してしまう。

「その人……可愛い?」

「俺的には、可愛いというよりれい系だな。見方を変えれば、激可愛くもある!」

「お前が答えるなよ! ……小さい頃からずっと一緒だから、可愛いとも綺麗だとも僕は特に思わないけど、顔は整ってる方……かな」

「……ふーん」

 静音はジト目で僕を見つめてから、くされたようにスンッと目をらした。

「晋助、お前は本当に女心というものを分かっていないな」

「それをお前が言うか?」

「もっと俺を見て学びたまえよ、晋助君」

 静音がいるにもかかわらず下品な話題を振ってくるような男が、女心を分かっているとは到底思えない。

 そうこう話をしているうちに、僕達は講義室に辿たどり着いた。僕と浩文はこれから同じ講義を受けるが、静音とはここで解散となる。

「それじゃあ、またな。静音」

「うん。また夜に行く」

「いや、今日はバイトがあるんだけど……」

「だったら、帰ってくる時間をに行く」

「……さすがに、もう少し頻度を減らしたらどうだ?」

 僕は遠回しに、感じていた事を静音に伝えた。

 彼女は不安げな顔をして、「何で?」と僕に尋ねる。

「家事や手伝いをしてくれるのはありがたいし、正直助かってる。けど今の状況だと、結んでもない『通い妻契約』を、実質結んでるみたいになってるだろ?」

 たまになら部屋に上げるとは言ったが、このままでは大学卒業まで……下手をすれば卒業後も、延々と僕の部屋に通い続ける可能性だってありえなくない気がする。

「今日は僕の事なんて気にせず、自由に過ごせよ。家には帰らないにせよ、もっと自分のために時間を使うべきだって」

 静音の今後を考えれば、この生活を習慣にさせるべきではない。

 そろそろ僕の口から、はっきりと言っておくべきだろう。

「弁当や食材を持ってきても、今日は部屋に上げないからな。次に来るのはせめて、何日か日を空けてからにしておけよ」

「……わかった」

 静音はどこか悲しげに、消え入るような声でそう返答する。しかし、口では了承しているものの、彼女の顔は納得できないといった様子だった。

 木曜の二限から四限の講義を乗り越えた後は、十七時から二十二時までコンビニバイトの予定が入っている。

「いつも眠そうにしてるのに、珍しい日もあるもんだねぇ」

 時刻は二十一時――バイト終了まで、残り一時間。

 この時間ともなると客足は遠退とおのき、永遠と思えるくらいに退屈な時間が続く。

 一通りの業務を終えた僕と千登世は、肩を並べてレジ前に立ち、雑談で暇を潰しながら客の来店をしばらく待っていた。

「まぁ、ちょっと色々あってな。最近はよく眠れてたんだよ」

「もしかして、夜な夜なえっちぃビデオを見るのをやめたとか?」

「そんなの最初から見てねぇよ」

「うっそだぁー。前日にマスをかいたのくらい、顔を見れば誰でも分かるよ?」

「顔だけで判別できるわけないだろ!」

 僕がここ数日よく眠れていた理由は、静音が家事を手伝ってくれていたからだ。

 彼女のサポートのおかげでイラスト練習を始める時間が早まり、それに伴ってここ最近は睡眠時間を十分に確保できるようになっていた。

 今日は講義前に静音を突き放すような事を言ってしまったが、短い期間ではあるものの、彼女が僕の生活を支えてくれていたのは事実だ。

 静音が別れ際に見せた表情を思い返すと、もっと違う言い方で伝えるべきだったのではないかと、若干の後悔と反省が徐々に募っていった。

「あ……そうだ。晋ちゃん、マスと言えばだけどさ」

「マスと言えばだけどさ……?」

 唐突に耳に入ってきた千登世の言葉に戸惑いを覚え、僕は彼女が口にした言葉を食い気味にそのまま繰り返した。

「知ってる? あのマスカキ共のサークル」

「それを言うなら、マセガキじゃないか……?」

「あ、それそれ」

 何だよ、マスカキって。マセガキよりもだいぶ直接的なエロ野郎じゃないか。

「『遊呑ゆうのみ』って名前のサークル、聞いた事ある?」

「いや、一度もないな。有名なのか?」

「三年の間だと結構有名かな。活動自体はよくある『飲みサー』とほとんど変わらないんだけど、最近そこから何度も飲みに誘われててさ。しつこすぎて嫌になっちゃうよ」

 千登世はうんざりとした顔で、僕に愚痴をこぼす。

「珍しいな。千登世が飲み会の誘いを嫌がるなんて」

 彼女は様々なサークルに顔を出していた事もあって、年柄年中各所から飲み会の誘いを受けている。

 バイトがある日はさすがに誘いを断っているようだが、予定が空いている日に誘われれば大体は乗り気で参加しているらしい。

「そのサークル、悪いうわさばっか聞く所でね。去年のミスターコンで四位だかになった三年の男子が代表をしてるんだけど、手当たり次第に女の子を誘っては酔わせて、最後は……って感じらしくてさ。所謂いわゆる『ヤリサー』ってやつだよ」

 千登世は腕を組んでいぶかしげな表情を浮かべながら、「酔わせ方も相当酷ひどいらしいんだけど、実際どうなんだろうねぇ」と、言葉を続けた。

 縁遠い話すぎて現実感が湧かないが、そういう集まりって本当に実在するんだな……。

「そんなサークルに目を付けられて、毎回どう誘いを断ってるんだ?」

「そりゃあもちろん、全員の金的をこうパシーンッ! ……てね。話の通じないやからは、真下から思い切り蹴り上げてやってるよ」

 千登世の蹴り上げた足が僕の胸元にまで迫り、思わずビクッと体を震わす。

「ここまで暴力的な断り方されたら、二度と飲みになんて誘ってこないだろ」

「いやー、それが実は誘われる回数が日に日に増えててさぁ」

「ドMの集まりじゃねぇか」

「まぁ、断り方に関しては冗談だよ。ちょっと期待した?」

「どこにも期待する要素ないだろ、今の話から」

「金的されたそうな顔してたから」

「お前の目には僕がどう映っていたんだ!?」

 それで興奮できるほどの変態性は、あいにく持ち合わせていない。

「晋ちゃんも気を付けなよ? ヤリサーに目を付けられないように」

「普通に男は狙われないだろ」

可愛かわいい子は狙うでしょ、普通」

 千登世は真剣な顔つきで、僕に言う。

「それにほら、『可愛い子にチンチンが付いてるとお得』ってよく言うじゃん?」

「どこもお得じゃないだろ。そもそも可愛くないし」

「そうかなぁ。最近なんて、特に女の子っぽくて可愛いと思うよ?」

「女の子っぽいって……。何を根拠にそんな事を言ってるんだ?」

「んー、香りとか?」

「洗剤は変えてないし、香水を付けた覚えもないぞ」

「んー、そういうんじゃなくてさ? どこか違う気がするんだよねぇ」

 僕に顔を近付けて、千登世は犬のようにスンスンと匂いを嗅いできた。

 店内に客が一人もいないのをいい事に僕の周囲をウロウロと回ったり、立ってかがんでを繰り返したりと、とにかく好き放題に全身を隅々までチェックしていく。

 変態的な行動を取る千登世に蔑みの視線を向けたが、彼女は気にも留めていない。

 屈んだ状態で匂いを嗅ぐのを中断すると、千登世は上目遣いで僕の瞳をジーッと見つめ、何かを疑うように首をかしげた。

「晋ちゃんさ、彼女でもできた?」

「……っ!?」

 千登世の言葉に、僕は大きく動揺する。

 別に彼女ができたわけではない。――が、特定の女子とは一緒に時間を過ごしている。

 まさか、匂いだけで勘付かれてしまうとは……。

 千登世にはいまだ、静音との関係は伏せたままにしている。

 特別隠す必要もないが、幼馴染の千登世すらも上げた事がない部屋に、出会ってから日の浅い静音を何度も上げているというのは、少しばかり言い出しづらいものがあった。

「その反応、図星だね」

「いや……それは、その……」

「最近の晋ちゃん、どことなく様子がおかしいと思ってたんだよねぇー」

 さすがは幼稚園からの腐れ縁。隠し事の一つもできやしない。

 千登世はニタニタと笑みを浮かべながら腰を上げ、誇らしげに腕を組んだ。

「じっとりねっぷりとめ回すように、話を聞かせてもらおうかな?」

「せめて、じっくりと聞くだけにしてくれ……」

 それから僕は、静音と出会ってからの出来事を千登世に語った。彼女がパパ活をしていた事だけは一応言わないでおいたが、それ以外は全てを打ち明けた。

「なるほどねぇー」

「一度の説明で理解できたのか?」

「出会いの部分はちょっと分からないけど、要はメンヘラ女子の琴坂静音ちゃんが毎日部屋に来て、家事とイラスト練習の手伝いをしてくれてる、って事でしょ?」

「本当は『たまになら部屋に上げてやる』って、許可を出したはずなんだけどな……」

「バイトから帰ったら、また今日もその子が来るの?」

「いや、今日は来ないと思う。本人にも注意しておいたし」

「そっかぁ。……にしても、晋ちゃんがまた女の子と関わるようになるなんてねぇ」

 千登世は過去のトラウマ――僕の恋愛経験を知る、数少ない一人。

 昔から僕の相談を聞いてくれていた彼女は、僕が女子と関わっている――それも、苦手とするメンヘラ女子と関わりを持っているのが、意外で仕方がないようだった。

「そのメンヘラ女子に、何か特別な思い入れでもあるの?」

「特別な思い入れ、か……」

 あると言えば、確かにある。中学一年生の頃に交際していた元カノに似たような部分を感じ、どうにも放ってはおけなくなったなんていう、あまりにも未練がましい理由が。

「もしかして、中一の時に付き合ってた元カノちゃんの面影を感じた……とか?」

「……怖いくらい何でもお見通しだな。まさにその通りだよ」

「わぁお、予想的中。けど、その子と今の子は、全くの別人なんだよね? 運命の再会とか、そういうわけでもなさそうだし」

「ああ。全くの別人だ」

「だったら、今は難しいのかもしれないけど、二人を重ねて見るのはやめておいた方がいいよ。元カノちゃんにも、琴坂静音って子に対しても、失礼になるからね」

 静音は静音であって、元カノではない。

 それを「似ているから」という理由だけで優しく接するのは、彼女を元カノの代わりとして見ているようなものだ。

 千登世と話をしていると、自分の嫌な部分が浮き彫りになっていくようだった。

「いやぁ……まさかあの晋ちゃんが、またメンヘラを保護するなんてねぇ」

「保護はしてねぇよ。静音は犬でも猫でもないぞ」

「人は人でも、アタシからしたら泥棒猫みたいなものかな?」

「泥棒猫って……」

 人聞きの悪い。静音は物を盗むどころか、僕に食べ物を与えている側だ。

「あーあ。なんだか嫉妬してきちゃうよ、話を聞いてたらさ」

「嫉妬?」

おさなじみのアタシですら入った事がない晋ちゃんの部屋に、大胆にも出会ったその日にお邪魔したんでしょ? 羨ましいったらありゃしないね」

「それは僕も、千登世に申し訳なさを感じてるけどさ……」

「それで? その子とはヤったの?」

「ヤるわけないだろ!」

「家事って性処理は含まれないの……!?」

「驚いた顔をするな!」

 本気で言ってるなら、貞操観念を疑うぞ。

「私と『通い妻契約』を結んだら、バッチリ含まれるよ?」

「含めるな。そもそも結んだところで、肝心の家事ができないだろ」

 外では一見何でもできる完璧女子のような扱いを受けているが、千登世の整理整頓のできなさや料理の下手さは、幼い頃からよくよく知っている。

「ふっふっふっ……。見くびってもらっては困るなぁー」

「どこかしらに成長があったのか? 実家の部屋はいつ行っても、脱いだ服と教科書でとっ散らかってたけど」

「こう見えて一人暮らしを始めてから、部屋はいつもれいさっぱりだよ」

「すごいな。一人暮らしって、そこまで人を変えるのか」

「勿論、全部どっかになくしてね」

 数秒前の感心を返してくれ。

「考えたくはないけど、服とか盗まれたりしてないか……?」

「いやいや、そんなわけないって。アタシの部屋、マンションの四階だよ?」

 確かにそれなら、ベランダに洗濯物を干していてもそう簡単に盗まれはしないか。

「まぁ、ちょっとした冗談だよ。綺麗にしてるのは本当だしね」

「やっぱり、多少は成長するものなんだな」

「散らかったらすぐにビニール袋に詰め込むようにしてるし、常に綺麗だよ」

「服も教科書も捨ててるだろ、それ!」

「え、だからどこを探しても見当たらなかったの?」

「何で記憶にないんだよ……」

「掃除とか片付けって面倒臭いでしょ? だけど嫌々やるのもよくないから、いつもお酒飲みながらノリノリでやってるんだよね」

「酒癖が悪すぎる!」

 何も考えず捨て続けていれば、そりゃあ部屋も綺麗になる。

 千登世は話に一区切りつくと「んーっ」と伸びをして、店内を見渡しながら話題を切り替えた。

「あんま気にしてなかったけど、お客さん全然来ないね」

「言われてみれば、そうだな」

 普段のこの時間帯だったら、途切れ途切れでも多少は客が入ってくる。

 千登世はレジカウンターの中央に立ち、かかとを上げながら外の様子をうかがった。

「……って、晋ちゃん晋ちゃん!」

 彼女は僕を手招きしてから、窓の外を指差す。

「外、土砂降りになってない?」

「え……? あ、本当だ……」

 いつの間にか、外は豪雨となっていたようだ。

 入店してくる客もいなければ、店内BGMによって雨音もき消されていて、今の今まで気が付かなかった。

「晋ちゃん、傘持ってきてる?」

「いや、持ってないな……」

「だよねぇ。私も持ってきてないや……。予報では曇りだったんだけどなぁ」

「天気予報もあてにならないからな」

「空に叫んだら晴れるかな?」

「どこの青春アニメだよ」

 持ってきていないものは仕方ない。バイト終了までに雨がむのを祈り、もしも豪雨が続くようであれば、勿体ないがビニール傘を買って帰るほかなさそうだ。

 ――テレテレテレテレ。

 入店音が突然鳴り響き、同時に外の雨音が店内にまで降り注がれる。

 タバコ棚に預けていた背中を慌てて正し、僕は真面目な店員を装った。

「いらっしゃいませー」

「い、いらっしゃいませー……って――はぁ!?」

 千登世に続いて挨拶しようとするが、入店した客が視界に入った瞬間、僕は思わず声を荒げてしまう。

 彼女は傘に付いた水滴を外に向けてバッバッと払い、靴裏の汚れを玄関マットにこすってから、レジカウンターへと一直線に歩いてくる。

 琴坂静音――全身びしょれとなった彼女の姿が、そこにはあった。

「どうしてお前、ここに来たんだよ……?」

「仮にも私はお客様。もう少し使う言葉は選ぶべき」

「あ……うん。いらっしゃいませ」

「よろしい」

 なんて上から目線の客だ。

「『今日は来ても上げない』って言ったはずだけど、まさか覚えてないのか?」

「私が『上げない』って言われたのは、晋助の部屋。『コンビニに来るな』とは、一言も言われてない」

 その通りではあるが、くつにもほどがある。

「それで、わざわざここのコンビニにまで来た目的は何だよ?」

「傘……持ってないだろうなって、思ったから」

 静音は手持ちのトートバッグから折り畳み傘を取り出し、僕に見せた。

「……っ。……わざわざ僕のために、届けに来てくれたのか?」

「うん。……あと、お弁当」

 次いでランチバッグを手に取り、カウンターの上に置く。

「今日、晋助は私に『もっと自分のために時間を使うべきだ』って言ったけど、晋助にお弁当を作るのも、自分のためだから」

「……そうかよ」

 少し照れ臭くなり、僕は顔を背けてほおを掻いた。

 ここまでされたら、静音の気持ちを無下にするわけにもいかない。

 僕は「ありがとう」と小声で感謝を述べ、彼女から傘と弁当を受け取った。

「ちょいちょい」

「ん……?」

 千登世は僕の肩をトントンと指でつつき、耳元でささやいた。

「この子がもしかして、うわさのメンヘラちゃん?」

「……ああ」

 僕から体を離すと、千登世は静音の全身をくまなく眺める。

「……誰? この失礼な人」

 静音は露骨に嫌そうな顔を浮かべ、ゴミを見るかのような目で千登世をにらんだ。

「いやぁ、ごめんごめん。確かに、服の系統は似てるかもなぁーってね?」

「似てる……?」

「こっちの話だから、お気になさらずー」

「……そう。ねぇ、晋助。この人が今朝の浩文との話で話題に出てた幼馴染?」

「なんだ、もうアタシの事は知ってるんだ」

 静音は目を細めて、千登世が付いている名札を確認する。そんな静音を前に千登世はにこやかに笑って、カウンター越しに彼女へと手を差し伸べた。

「アタシは九条千登世。城下大の三年生で、晋ちゃんの幼馴染」

「……二年、琴坂静音」

 ぶっきらぼうに、静音も名乗る。

「晋助。この女にはどこまで、私の事を話したの?」

「えっと……部屋に来て家事をしてくれたり、イラスト練習に付き合ってくれたり……って事くらいだな」

「そう。じゃあ、パパ活については言ってないんだ」

「言ってないけど……って、お前、何で今それを言うんだよ!」

「別に隠してないし」

 静音は堂々とした口振りで、「それに、今はしてないから」と言葉を続けた。

「パパ活かぁ……。なるほどねぇー」

 千登世は意外そうにわざとらしくうなずいた後、静音には聞こえないくらいのかすかな声量で、「噂は本当だったんだなぁ」とつぶやいた。

 ……噂? 一体、何の話だ……?

「とりあえず、静ちゃんには事務所で待っててもらえば?」

「いや、どうしてだよ」

「わざわざ傘とお弁当を持ってきてくれたんだよ? もらうだけ貰って用が済んだら『はい、帰れ』なんて、とんだヤリ捨て野郎だよ。捨てるのはお姉ちゃんだけにしておきなって」

「誤解を招くようなうそをぶっ込むな!」

「ヤリ捨て……? 晋助、この女と寝たの?」

「んなわけないだろ!」

「んなわけなんかなくないウォウウォウ」

「飲み会ノリでコールするな!」

「まぁさ? とりあえず、今は待っててもらおうよ。静ちゃんはわざわざ雨の中、私達のために傘を届けに来てくれたんだよ?」

「傘は晋助に届けただけ。あなたにではないから、勘違いしないで」

「お、ツンデレだねぇ」

「この言い方にデレなんてじんも含まれてないだろ」

 女子二人の会話からはどこか不穏な空気が漂っているけれど、これは放置しても大丈夫なやつなのか……?

「そういえば、静音は今日ここまで何で来たんだ? まさか、いつもみたいにママチャリに乗ってきたわけではないよな?」

「今日は電車。ここまでは駅から歩きで来た」

「豪雨なのに歩きって、ガッツあるねぇ」

 傘を差していたとはいえ、静音は相当な量の雨を浴びている。

 彼女はなぜ、ここまで僕のために体を張ってくれるのだろうか?

「やっぱり、今日は部屋に上がってけよ。このままだと風邪引くだろうから」

「え……いいの? 本当に?」

「こんな悪天候の中で傘を届けて、それに弁当まで作ってきてくれたわけだしな」

 見た感じだと、今の豪雨はおそらくにわか雨だ。バイト後にしばらくマンションで待機していれば、終電の時間くらいには雨も落ち着いているだろう。

「ひとまず、事務所で暖を取っとけよ。タオルは従業員用のを貸すから、それで一旦水滴を拭き取ってさ」

 レジカウンターの中へ静音を招き入れ、奥の事務所へと案内する。

「コーヒーでも買ってくるから、そこの椅子に座って待っててくれ」

「……ありがとう。けど……平気なの? 部外者を入れて」

「心配せずとも、別にバレないって。もし何か言われても、うちの店長は物分かりが良いから、話せば納得してくれる」

「……そっか」

 静音にタオルを手渡すと、彼女は顔をぽんぽんっと優しくたたいて水気を取り、鼻と口を覆って僕の瞳をジッと見つめた。

「私……晋助の役に立ててる?」

「え……。まぁ……そうだな」

 同級生を「役立っている」と言うのはいささかどうかと思うが、あえてどちらかと言うのなら、だいぶ……いや、かなりやりすぎなくらい役立っている。

「もっと必要とされるように、頑張る」

「……そうかい」

「んー、いいねぇ。やっぱりけちゃうねぇー」

 レジカウンターから僕達の会話に聞き耳を立てていた千登世が、音も立てずにゆらりと僕の背後に現れて、グッと肩をつかんできた。

「どこに妬ける要素があるんだよ、この状況の」

「そりゃあ、アタシ以外の女の子に優しくしてる晋ちゃんを間近で見せ付けられたら、としもなく嫉妬しちゃうって。いやぁ、若さが憎いよ。としは取りたくないものだねぇ」

 僕と一学年しか違わないくせに、何を言っているんだ。二十代前半の分際で。

「しかも、目の前で晋ちゃんの部屋に上がる約束を取り付けた女の子がいるんだよ? そんなの晋ちゃんファンクラブ会長としては、妬み妬んで病みまくり案件だよ」

「会員なんてお前しかいないだろ……」

「私は何度も拒否されてたっていうのに、静ちゃんはしれっと部屋にお邪魔できたみたいだから、不公平だなぁー、ってね?」

 親に物をねだる子供のように瞳を輝かせながら、千登世は体をクネクネとひねってアピールしてきた。

「つまり、僕の部屋に私も招待しろ、って事で合ってるか?」

「おっ、さては読心術を心得てるね?」

「こんなに分かりやすいねだり方、なかなか見ないだろ」

 僕は「はぁ……」と深くめ息をつく。

「まぁ、来たければ来ていいよ」

「え、行っていいの? そんな簡単に?」

「別に、千登世は旧知の仲だしな。今まで拒んではいたけど、千登世から本気で部屋に上がってみたいって言われたら、普通に入れてただろうし」

「ん? 今『中出し』って言った?」

「セリフから変な風に抜粋するな。旧知の『仲だし』って言ったんだよ」

「冗談だって。そんなカリカリしないでよ」

 このタイミングでふざけてくるなよ。調子狂うから。

「……それで、いつマンションに来るつもりなんだ?」

「だったら、お言葉に甘えて……今日にでも行っちゃおうかな?」

「「はぁぁ……!?」」

 僕の――いや、僕と静音の声が、同時に事務所で木霊こだました。

「ちょっと待て、いくら何でも急すぎるだろ!?」

「お互い一人暮らしだし、問題ないよ。それに、静ちゃんを初めて部屋に上げた時だって急だったんでしょ? 一人や二人来客が増えても、大して変わらないって」

「変わるか変わらないかは、僕の判断によるだろ……」

 実際、部屋に来るのが一人から二人に増えたところで変わりはないが……。

 僕は黒目だけ動かして、静音の表情をチラリとうかがった。

「…………」

 静音はムッと眉間にしわを寄せ、威嚇するように鋭い眼光を千登世に突き刺しながら、

「……晋助がいいなら、別に」

 と、あからさまに不服そうな態度で納得した。

 本当に、この二人を同じタイミングで部屋に上げて大丈夫なのだろうか? 頼むから、僕の部屋で問題だけは起こさないでくれよ……?

「おっじゃましまーす」

 玄関の扉を開けると、千登世は「一番乗り」と言わんばかりに部屋へと上がり込む。

「……本当に邪魔」

 悪態つくような一声を添えて、静音も千登世の後に続いた。

「……不安だ」

 そんな二人の背中をぼんやりと眺めながら、僕は静かに扉を閉める。

 バイト終了後、僕は静音と千登世を連れ、激しい雨の中やっとの思いで無事にマンションへと帰ってきていた。

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