空虚感

佐々木

第1話 命の価値

その日も僕の涙は頬を伝い宙を降りてゆく。

だけど、今日だけはいつもより時間をかけている。

この世界でそれを知るのは僕だけ。



今日、僕は久しぶりに裕太と電話した。彼は高校時代の友人で、卒業後は介護職に就いている。卒業後に会社員として、単調な日々を繰り返している僕とは違い、仕事熱心で一人ひとりの施設利用者さんと向き合う真面目な男だ。そんな彼とも今年で15年の付き合いになる。この15年、弱音なんて吐いたことのない彼が、今日に限っては随分と落ち込んだ様子だった。


彼の話によると、先日、彼が担当していた利用者さんの女性が亡くなったらしい。85歳だったそうだ。生前、末期ガンだったにも関わらず「体調が良くなったら、自分の足で散歩をしたい」「孫が結婚するまでは死ねないわ」と優しい笑顔で語っていたそうだ。彼はもちろん、その女性とも真摯に向き合い、一日でも長く生きていて欲しいと願っていたらしい。そんな彼女の死が、彼の心に突き刺さってしまっていた。


きっとその女性は幸せだったんだと思う。家族から見放され、同じような境遇の人が集まる介護施設に入所していたのだ。それに、介護施設でのイジメや虐待といった悲しいニュースが連日のように報道されている。どんな人だって多少の寂しさや不安を抱いてしまうものだ。それにもかかわらず彼女は笑顔で過ごせていた。それは紛れもなく、彼が必死に、真面目に向き合った結果だと思う。

そう伝えると、彼は震えた声で「ありがとう」とだけ言い残し、電話を切った。


彼の言葉の余韻が消える間もなく、銃声が耳に入る。先週から始まった中東での内戦のニュースをテレビが忙しそうに放映していた。こういったニュースは非日常の出来事であるが故に、どこか他人事として視聴している自分がいる。でも実際には、空腹に耐え苦しむ人々や愛する者を失う絶望に苛まれる人々、昨日までの平穏を奪われ慄く人々の叫びが鳴りやまないはずである。そういう声を、僕等は知らない。いや、正確には知っているはずなのに、知らない事にしている。本当は、悲しいと感じているはずなのに、憤りを感じているはずなのに、それでもなお、知らない事にしてしまう。

結局のところ、僕らは自己中心的で異国の数万人の命より、自分が攻撃されてしまう事を嫌う生き物だ。裕太だって例外ではないはずだ。それでも、彼は他人の幸福を願って、他人の人生に精一杯向き合っていたのだ。彼のような優しさを持ち合わせていたら、僕の人生も少しは違っていたのかもしれない。


そんなことを考えながら、ぼんやりと過ごしていた僕だが、徐にペンを握った。急に手紙を書きたくなったのだ。宛先は、父、母、そして妹の麻衣。裕太も宛先に入れるか悩んだが、やめておく事にした。


「父さん、母さん、麻衣

急な手紙でごめんなさい。

そして今までたくさんの迷惑をかけてごめんなさい。

それとここまで育ててくれた父さん、母さん、ありがとう。感謝してます。

こんな兄貴にも優しくしてくれた麻衣、ありがとう。

3人ともお元気で。」


手紙なんて書いたことないが、素直な気持ちを綴れた気がする。


手紙を三つ折りにし、封筒に入れてから、テーブルにそっと置く。


自分なりのケジメになるのだろうか。ここ数日の空虚感が少しだけ満たされた気がする。



手から手紙が離れたころ、一粒の涙が頬を伝うのを感じた。僕はなぜ泣いているんだろうか。

普段、不意に泣いてしまう事はあるが、この涙はいつもと少し違う気がした。いつもは、自分の無力感に耐えられなくなって泣くのだ。泣いても何も変わらないのに。それでも家族が寝静まった頃に、一人息を殺すその時間が唯一、僕が感情的になれる時間だ。

でも、今の涙は違う。僕は満たされていたんじゃないのか。明らかに一瞬、恐怖していたじゃないか。なぜ。どうして。何に恐れているのか。一切の見当がつかない。


この涙をキッカケに僕の心は急激に恐怖に支配された。黒く思い空気が身体中に纏わりつくのを感じた。

次第に体が重く感じるようになり、手足までもが動かなくなってしまった。そのまま僕は椅子から倒れるように転げ落ちる。

気づけば、呼吸が乱れて過呼吸になっている。視界には涙が溢れたのか、ハッキリと物を認識できない。

嫌だ。死にたくない。




僕の身体は、僕の心の叫びを無視して重くなった身体を持ち上げ、起き上がる。

倒れた椅子を立て直すとその椅子に立ち上がる。



僕の涙は頬を伝い宙を降りてゆく。

だけど、今日だけはいつもより時間をかけている。

この世界でそれを知るのは僕だけ。





静かな部屋の中に椅子が倒れる音だけが鈍く響き渡る…



僕の顔は、涙を流しながらも笑っていたらしい。

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空虚感 佐々木 @mkshts

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