6. え、いや、まさかね
「こんなものしか出せなくてごめんなさい」
「いえ、お構いなく」
どうしてこうなった。
久しぶりにこのセリフを思ったかもしれない。
ここしばらくは『姉貴のせいでこうなった』ばかりだったから。
デートっぽい何かの翌日、俺は何故か氷見の実家にお呼ばれしていた。
もちろん女装はしていない。
「お母さん、もういいから」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
俺をもてなす準備をしようとしているのか部屋の中で忙しなく動いているが、あたふたしているだけでその実何もしているように見えない。
顔色も妙に悪いし、なんだか見ていて不安になる人だな。
見た目は氷見と同じく美人系だけれど、氷見と違って体の一部がそれなりに発達している。ただしその代わりに身長は少し小柄かな。
なお、俺が氷見母に会うのはこれが初めてだ。
例の事件の後、被害者である俺と加害者の配偶者が会うのはお勧め出来ないと色々な人に言われたからだ。
今回のように偶然の出会いでも無ければ、あるいは氷見から直接お願いでもされなければ、俺が自発的に氷見母に会おうとすることは無かっただろう。
「そ、それじゃあ……………………………………………………」
氷見に言われて俺の正面の席に座った氷見母だが、何も言わずに俯いてしまう。
こりゃあ話をするのに時間がかかりそうだ。
ということで、氷見母が復活するまで氷見家について思いを巡らせた。
氷見家はレオーネ桜梅がある街から数駅離れたところにあるマンションの一室だ。
家の中が散らかっているという事は無いが、物が妙に多くて棚の中に雑に詰め込まれている。
まさか俺が来るからと散らばっていたのを適当に押し込んだわけでは無いだろうな。
整理整頓したいという家事欲がむくむくと湧いて来るぜ。
また、キッチンは日常的に使っているような形跡が無いので、料理はしないのかもしれない。
ここまで考えても、氷見母はまだ何も言わない。
仕方ないなぁ、俺から切り出すか。
「私にお話があるとのことですが」
本当なら面倒事に巻き込まれたくなかったのだが、寮父の俺に寮生の母親から話がしたいと言われたら断れなかった。
だから今ここにいるのだが、肝心の話が全く出来ていないのはどういうことだ。
人見知りとか口下手、あるいは言いにくいことなのか。
女装する男の元になど娘を預けられません、なんて話だろうか。
ごもっとも。
「玲央、ごめんなさい。お母さんはコミュ障なところがあるから」
「親の前でそれ言うか?」
「いいのよ別に。玲央だってもう気付いているでしょ」
「だから答えにくい質問止めろって」
俺と氷見母は居た堪れないような妙な空気なのに、氷見だけは通常運転。
昨日の晩は『玲央が
この話を聞いた禅優寺が何も言わずに大人しかったのがちょっと怖い。
「あ、あの、春日さん、夫が、その……」
「あ~その件は無しにしましょう」
「は、はい」
親子そろって困る事言いやがって。
俺個人としては、見ず知らずの氷見母に思うことなど今のところは無い。
だがこの件について話をしたら藪蛇をつついて俺が氷見母に怒りを覚えることがあるかもしれない。
他人に対して怒ったり嫌な気持ちになんかなりたくないから、何も聞かないのがきっと正解なのだ。
「もしかしてその件について話をしたかったのですか?」
だとすると俺はその話をする気が無いからさっさと帰るぞ。
「い、いえ、そうじゃなくて、その……」
「玲央、もうちょっと優しくして」
「……そうですね。申し訳ありません、少し詰問みたいになっちゃってましたね」
「きついのは寮でお願いするわ」
「何言ってんの!?」
それじゃあ俺が寮生たちに不当にきつく当たっているように聞こえるじゃないか。
お前達がぐうたら姉貴モードにならなければ俺は普通に接するぞ。
「ふふ、仲が良いのね」
「そうなの。私と玲央は仲が良いのよ」
くそぅ、否定したくても氷見母を心配させそうで否定出来ねぇ。
などと考えて何も言えずにいたら、氷見母がとんでもないセリフをぶっこんできやがった。
「春日さん、娘をよろしくお願いします」
おいコラ。
どういう意味で言ってるの。
ねぇ、ちゃんと教えて。
ここで『はい』なんて答えたら人生詰むとかないよな。
寮父としてって意味だよね。
そうだと言って!
「…………私に出来る範囲でしたら」
とりあえず無難に濁しておいた。
「もうお母さんったら」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
なんだこれは。
氷見が照れているのはまぁ分かる。
だが氷見母が何故か何度も何度も頭を下げて真面目に氷見に謝っている。
そんなシリアスな場面だったか?
変な反応なのに氷見は全く気にしてなくて自然体だ。
まさかこの異常な感じが氷見家の日常なのか。
う~ん、巻き込まれている感じがプンプンする。
嫌だなぁ。
――――――――
結局、氷見母の用件は『娘をよろしくお願いします』と伝えたかったことだったらしい。
その後は特に会話が盛り上がることも無く、氷見の泊まってコールを無視して氷見家を出た。
その帰り道のこと。
「玲央ごめんなさい。お母さん変だったでしょう」
「だから返答に困る質問は止めてくれ」
「くすくす、そうね。でも言っちゃう」
「おいコラ」
だがまぁここで強引に話を聞かないと拒絶するのは俺のやり方じゃないか。
寮父として、男として、例え氷見に何らかの裏があったとしても、心情を吐露しようとしているのなら聞いてやるのが筋だろう。
こんなんだから彼女たちに懐かれちまうのかなぁ。
「お母さんは昔は普通に優しかったのよ。あいつから私を守ってくれてたし」
あいつ、か。
つまり氷見にとって……いや、そのことは今は良い。
「でも私が大きくなってあいつが私の体に目をつけ始めたことで、お母さんは私に嫉妬するようになったの」
「…………」
「レオーネ桜梅に避難するように勧めてくれたのには、あいつから私を遠ざけたいって気持ちもあったのだと思う。お母さんは未だにあいつに依存しているから。今日の話だって、私が玲央とくっつけばあいつと私とのつながりが薄くなるって無意識で思ってるいるのよ」
重い! 重すぎるよ!
最近コメディ展開ばかりだったから急なテンションの変化に俺の脳がついていけない。
よし、帰ったら栗林をお仕置きして気分転換だ。
「だからかな。お母さんは私に何か言われるとすぐに謝るようになったの」
それがあの『ごめんなさいごめんなさい』の正体か。
あいつが捕まったことで冷静になって娘への罪悪感に苛まれるようになったのかもな。
「でも氷見は普通だったよな」
そんな壊れかけの母親に対して、氷見は自然に接していた。
努めてそうしていたわけでもなく、氷見が狂ってしまったわけでもなく、極々自然に家族に接するかのように。
「だって私、お母さんは普通に好きだから」
「嫉妬されて追い出されたのにか?」
「ええ。だって私には幼い頃に優しくしてくれたお母さんとの想い出があるから。だから私にとって今でもお母さんはお母さん」
俺には分からない感覚だ。
もしかしたら、俺だけでは無く他の人にも分からない感覚なのかもしれない。
だがそれこそが氷見の家族に向ける愛情の形ってことか。
俺がとやかく言う事では無いな。
「玲央は何も言わないのよね。嬉しいわ」
「は?」
「だって皆、それはおかしいとか、こうすべきとか、ああすべきとか、色々と押し付けて来るのよ。玲央が何も言わないで私の気持ちを尊重してくれるのが嬉しいの」
しまったああああああああ!
無関心を装っている風だったのに好感度を稼いでしまった。
あかん、それはあかんぞ。
「いやいや、あの母親はやっぱりおかしいだろ」
「くすくす、あはは、あははははは!」
「うう、チクショウ」
どうやらもう手遅れだったようだ。
いや、待てよ。
何か違和感があるぞ。
……
…………
………………
そうだ、アレだ。
病気の時の氷見のうわ言。
『おかあ……さん……』
母親を求める切なげな声。
もしも氷見が家族の現状に本当に満足しているのなら、あんな寝言を言うのだろうか。
一方で、今の氷見は間違いなく晴れ晴れとした迷いのない笑顔を浮かべている。
なんだこの食い違いは。
氷見は母親との関係に不満はない。
でも母親を求めている。
昔は母親と仲が良かった。
もしかしたら本心では母親から昔のように愛されたいと思っている……にしては今の笑顔が清々しすぎるよなぁ。
う~ん、分からん。
案外、お母さんに甘えたいだけだったりしてな。
な~んちゃって。
……
…………
………………
な、無いよな。
まさか無いよな。
氷見が俺に母親としての愛情を求めて甘えているなんてことは無いよな。
だらけているのも、叱って欲しいのも、親からの愛情を求めて……
いやいやいや、ないないないない、考えすぎだって。
大体こういうのは変に穿った考えをして本心を曲解してややこしいことになるってラブコメのお決まりのパターンだからな。
って何がラブコメだ。
あいつらとラブコメなんかするつもり無いわ。
強引にやらせられてるだけなんだよ!
それにバブみを求めているなら下着を見せつけて誘惑して来るなんてことはありえないだろ。
ドМ要素もあるから……
怒られたいから……
うん、決めた。
氷見の件は保留にしよう。
もう少し氷見のことが分かってから距離間を再度測ることにしよう。
この歳でまだ子供を持ちたくないよ。
でも既に三人の大きな子供に振り回されているようなものか、ハハハ……
うわああああああああん!
普通の高校生活を過ごしたいよおおおおおおおお!
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